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「神の国に入る人」

2001年11月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ18・15‐17

 今日の説教題は「神の国に入る人」となっています。神の国に入る人はど のような人でしょうか。これは私たちの救いに関わる重大な問いです。およ そ救いを求める人は皆、最終的にはこの問いに行き着きます。しかし、主イ エスの答えは、いたって単純でありました。「はっきり言っておく。子供の ように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない 」(ルカ18・17)と主は言われるのです。これが今日、私たちに与えら れている御言葉です。

●子供たちを妨げた弟子たち

 主イエスと弟子たちはエルサレムへと向かう宣教の旅の途上にありました。 大勢の群衆もまた彼らの後に従っておりました。主はいずこにおきましても、 人々に神の国の福音を語られ、悪霊を追い出し、病を癒されました。そして、 その旅も終わりにさしかかかり、いよいよエルサレムが近づいてきましたあ る日のことです。群衆の間に分け入って乳飲み子を連れてくる人々がおりま した。それは主イエスに触れていただくためでした。マタイによる福音書で は、「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供た ちを連れて来た」(マタイ19・13)と書かれています。人々は子供たち の上に祝福を願って連れて来たのでしょう。

 これを見て、弟子たちは彼らを叱りつけました。なぜでしょうか。乳飲み 子を連れてきた人々の行為自体は、決して珍しいことでも非常識な行為でも ありませんでした。ユダヤにおいては満一歳になった子供をラビのもとに連 れて行って祝福してもらう習慣がありましたし、大贖罪日と呼ばれる日の夕 方には、子供を長老やラビのもとに連れて行って祈ってもらうことが習わし でありました。ですから、弟子たちが叱ったのは、彼らが非常識で失礼だっ たからではありません。弟子たちがそうしたのは、単純に乳飲み子が宣教の 妨げになったからです。手を置いて祈ってくれですって?群衆は後から後か ら押し寄せてくるのです。手を置いて祈って欲しい人は他にも大勢いるので す。主イエスには時間がいくらあっても足りないほどではありませんか。

 しかも、宣教の旅はいよいよクライマックスに近づいているのです。すな わち、主イエスに敵対してやまないユダヤ人当局の本拠地であるエルサレム にいよいよ近づきつつあるのです。それは最後の戦いに他なりませんでした。 まさにそこでこそ、神の御業が現れ、主イエスの言葉が真理であったことが 明らかにされると弟子たちは信じておりました。群衆もまた、そこでこそイ エスがメシアであることが明らかにされると考えていたに違いありません。 そのような緊迫した状況において、乳飲み子などに関わっている暇などあろ うはずがありません。宣教においては大人が優先です。大人が神の言葉を聞 き、大人が神の言葉にどう応えるかが重要なのです。そもそも、聞いて分か らないような乳飲み子を連れて来ること自体が無意味ではありませんか。弟 子たちだけでなく、他の人々もまた、そう考えていたに違いありません。

 さて、私たちもまた、往々にして同じように考えているものです。大阪の ぞみ教会の礼拝堂も狭くなってきました。時には大人だけでも席が足りませ ん。そこに、毎週、子供たちも入って礼拝しています。「大人にさえ十分に 席がないのに、どうして子供まで入れるのだ」と思っている人はいないでし ょうか。いや、もちろん、そうは考えない人も多いでしょう。「いや、子供 がいることが大事なのだ。彼らが教会の未来を担うのだ。今は子供であって も、数年すれば中学生になり高校生になるのだ。ここから教会の役員になる 人も出るだろう。だから、今から彼らを育てねばならない」。もちろん、そ れは大事なことです。しかし、ちょっと待ってください。それは、「やがて 大人になる」ということを前提として語っているのであって、“子供が子供 として”ここに存在する意味を本当に考えているとは言えないでしょう。そ こには、あくまでも宣教においては大人が大事なのだという弟子たちと同じ 意識が働いているのです。

●神の国はこのような者たちのもの

 そのような弟子たちの反応に対して、主はどうされたでしょうか。16節 をご覧ください。「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。 『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国は このような者たちのものである』」(16節)。

 マルコによる福音書には、「イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われ た」(マルコ10・14)と書かれております。それほど、弟子たちのした ことは、主イエスの意に反することだったのです。主は自ら乳飲み子たちを 呼び寄せられました。主は乳飲み子を乳飲み子として呼び寄せられたのです。

 私たちが、乳飲み子を乳飲み子として呼び寄せる根拠は、まさにここにあ ります。私たちが子供たちを呼び寄せるとするならば、それは単に将来彼ら が立派な大人になって教会や社会の役に立つようになるからではありません。 そうではなくて、主がそう望んでおられるからこそ、私たちもまた、乳飲み 子が主のもとに来ることを望むのです。主が「わたしのところに来させなさ い」と言われるから、私たちはそれを妨げてはならないのです。

 もちろん、弟子たちのしたことは悪意から出たことではありませんでした。 宣教の働きを考えての配慮でもあったろうと思います。しかし、善意から出 た配慮が、時として主が望まれることの妨げになるのです。そのような「配 慮」は、私たちの場合、父親、母親、祖父祖母によってなされるかも知れま せん。「この子を連れていったら、皆さんの邪魔になるのではないだろうか。 教会の働きの妨げになるのではないだろうか」。そう言って子供を主イエス から遠ざけてしまいます。しかし、その配慮こそが主の邪魔になるのです。 主は、子供たちを来させなさいと言われるのです。「妨げてはならない」と 言われるのです。

 いや、さらに言うならば、子供たちの存在は、弟子たちが考えていたよう に宣教の邪魔になるどころか、むしろ積極的な意味を持つのです。子供たち の存在こそ、まさに神の国のしるしとなるからです。主イエスは子供たちを 呼び寄せて何と言われましたか。「神の国はこのような者たちのものである 」と言われたではありませんか。

 では、どのような意味において「神の国はこのような者たちのもの」なの でしょうか。ある人は、子供たちについて、その清さを考えます。しかし、 子供を持った親は知っています。子供は必ずしも罪のない清い存在ではあり ません。子供は我が儘です。そして、誰から教えられたのでもないのに、意 地悪をするようになります。誰が教えたのでもないのに、嘘をつくようにな ります。あるいは、子供について、その素直さを考える人もいるでしょう。 しかし、素直でない子供はいくらでもいます。聖書は人を生まれながらの罪 人として語ります。これは非常にリアリスティックな見方です。私たちは、 子供を理想化してはなりません。もちろん、主イエスもそのようなつもりで 子供たちについて語られたのではないでしょう。

 では、子供たちの特徴とは何なのでしょうか。それは無力さであります。 ルカによる福音書には、わざわざ「乳飲み子たちを呼び寄せて言われた」と 書かれています。乳飲み子ならばなおさらでしょう。乳飲み子は無力です。 乳飲み子は自分の力で生きられません。乳飲み子は何も差し出すものを持ち ません。そのような乳飲み子がそのまま乳飲み子として招かれている、それ が神の国です。何も差し出すことのできない者たちが、ただ神の恵みによっ て招かれている、それが神の国です。ですから、教会に乳飲み子が乳飲み子 として存在することが、神の国の何たるかを指し示すしるしとなるのです。

 ですから、これは必ずしも、乳飲み子だけの話ではありません。主は別の 場面で次のように語られました。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあ なたがたのものである」(ルカ6・20)。ここで「貧しい人々」という言 葉は、「乞食」という意味の言葉です。乞食であるならば、受けることしか できません。何も差し出すものはありません。もっとも、これはただ経済的 な話ではありません。経済的に乏しくても、なお自分の力だけが頼りだと思 っている人はいるでしょう。そのような人は、経済的に乏しくても、主が言 われるところの「貧しい人」ではありません。ですから、マタイによる福音 書では、あえて「心の貧しい人々(霊における乞食たち)は幸いである」 (マタイ5・3)と表現されているのです。

 さて、物乞いをする人ならば、ただひたすら施し与えてくれる人を求めま す。乳飲み子の場合、自分の力ではとうてい生きられないのですから、本能 的に親を求めます。そうです、泣いて叫んで親をひたすら求めるのです。そ して、親の腕の内にあって安んじます。乳飲み子は、親の愛を勝ち取るため に、何かを差し出そうなどと考えません。ただ求めるだけです。そして、た だ親の愛と親のまったき支配に身をゆだねるのです。

 このように考えてまいりますと、最初に引用しました主の言葉の意味が明 らかになってまいります。「はっきり言っておく。子供のように神の国を受 け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」(17節)。

 神の国とは神の愛と恵みが支配する世界です。そこに入るのは、何かを差 し出して神の愛を獲得しようとする人ではありません。ただ神御自身を求め る人です。乳飲み子が親を呼び求めるようにです。そして、神の国に入るの は、神の愛と恵みに感謝をもって身をゆだねる人です。神の国、神の支配を 受け入れる人です。実は、子供たちの姿と対照的な人が、この言葉の後に出 てきます。ある議員がイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐ ことができるでしょうか」と尋ねるのです(18節)。そのようにして主イ エスのもとに来る人は、本当に自分の無力さを思い知らされた時、ただ悲し みにくれるしかありませんでした(23節)。

 神の国に入るのは、子供のように神の国を受け入れる人です。それが最も 明瞭に表されているのは、教会に与えられている二つの聖礼典(洗礼と聖餐) です。「洗礼を受ける」「聖餐を受ける」と表現しますように、そこで人は 完全に受け身になります。人は、救いの事柄に関しては、ただ受けるしかな いのだと認めて、洗礼を受け、聖餐を受けるのです。その意味において、洗 礼を受け、聖餐を受けて生きるということは、まさに子供のように神の国を 受け入れて生きることに他ならないのです。

 
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