「終末を生きる」                       1コリント7・25‐40  今日お読みしました箇所は、内容的には16節に続きます。未婚者とやも めについては既に7章8節以下で触れられていましたが、ここで再び言及さ れることになります。  7章前半同様、ここにおいても、パウロの姿勢は結婚について非常に消極 的です。「妻と結ばれているなら、そのつながりを解こうとせず、妻と結ば れていないなら妻を求めてはいけない。しかし、あなたが、結婚しても、罪 を犯すわけではなく、未婚の女が結婚しても、罪を犯したわけではありませ ん。ただ、結婚する人たちはその身に苦労を負うことになるでしょう。わた しは、あなたがたにそのような苦労をさせたくないのです」(27‐28節)。 「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓い にふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できな いと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人 は結婚しなさい」(36節)。結婚することが罪か否かというこのような議 論には抵抗を覚える人も少なくないだろうと思います。  以前も申しましたが、このような箇所を読みますときに、パウロが包括的 な結婚論を展開しているのではないことを思い起こすことは重要です。彼は コリントの教会からの質問に対する答えとしてこれを書いているのです。結 婚のすべてを語っているわけではありません。結婚することが罪であるか否 かという話が出てきたのは、恐らくはコリントの信徒たちが「結婚すること は罪であるか」と問うてきたからに違いありません。  しかし、もう一つ見落とせないもの、しかもより重要であるのは、パウロ の内にある差し迫った終末の意識です。それがこのパウロの論述の背後にあ るのです。今日お読みしました聖書箇所には、それを明瞭に示す言葉がいく つか出てまいります。「今危機が迫っている状態にあるので、こうするのが よいとわたしは考えます」(26節)。「兄弟たち、わたしはこう言いたい。 定められた時は迫っています」(29節)。そこで、今日は特に、パウロの ように終末を意識して生きることについて、ご一緒に考えたいと思います。 ●定められた時は迫っています  私たちは使徒信条の中において、「かしこより来たりて、生ける者と死ね る者とを裁きたまわん」と告白します。裁くために来られるのはキリストで す。これをキリストの再臨といいます。そこにおいて神の正しい裁きがなさ れます。神の裁きは今の世の終わりをもたらします。もちろん、それは終わ りであるだけではありません。それは神の全き御支配のもとにある新しい世 の始まりをも意味します。  パウロはキリストの再臨が、自分の存命中に起こると信じていたようです。 そこから「今危機が迫っている状態にあるので」「定められた時は迫ってい ます」という言葉が出てきているのです。実際には、再臨はパウロの存命中 には起こりませんでした。いやそれどころか、それから約二千年近く経た今 日においても起こってはいません。では、パウロの言っていることは全くの 間違いなのでしょうか。  いいえ、そうではありません。キリストは終わりの時について次のように 語られたからです。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も 知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。そ の時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」(マルコ13・ 32‐33)。その時が分かっているならば、重要なのは「その時」です。 しかし、その時がいつなのか分かっていないならば、重要なのは「今」なの です。今どう生きるのかが問われるのです。  個人の人生の終末は「死」です。「死」がいつ訪れるか分からないという ことについては、誰も異論はないでしょう。それゆえに、ある意味ではその 終わりを意識して生きることは正しいことです。終わりの時というのは、人 間の手の内にないのですから。これは歴史についても同じです。歴史の終わ りについても、それは人間の手の内にはありません。ならば、その終わりを 意識して生きることは正しいことです。  終わりの時は神が定められます。それは、神が定められた“終わり”以外 は“終わり”ではないということをも意味します。主イエスは言われました。 「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうこと は起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」(マルコ13・7)。 どんなに危機的に見えることがあっても、絶望的に思えることがあったとし ても、神が定めた終わり以外は終わりではないのです。  それに対して、神が定めた終わりは、本当の終わりです。そして最終的に 神の正しさが貫かれるのです。この世には不条理があります。道理が通らな いことがいくらでもあります。もし神がおられるならば、不条理が不条理の まま放置されるはずがありません。神の道理が通される時が来るのです。こ の世の不条理の中で「なぜ?」と繰り返し問わざるを得ない私たちが、もは や問わなくて良くなる時が来るのです。  しかし、それは神の正しい裁きのもとに全てが精算される時でもあります。 それを忘れてはなりません。そこから誰も逃れることはできないのです。私 たちは、好きなように生きることができるかも知れません。自分の欲望のお もむくままに生きることもできるでしょう。それはちょうど、レストランに 入ったならば、好きなものをいくらでも注文できるのと同じです。しかし、 忘れてはなりません。支払いの時が来るのです。それが神の定めた終わりで す。支払いを考えずに飲み食いを続けることが愚かなように、個人の人生の 終末にしても、この世界の終末にしても、それを考えずに生きることは愚か なことです。その意味では、終末を差し迫ったものとして真剣に捉えていた パウロの言葉にしっかりと耳を傾けることは、非常に重要なことなのです。 ●妻のある人はない人のように  そこで私たちは、パウロが非常に印象的な表現をもって語る、29節以下 の言葉に心を留めたいと思います。「兄弟たち、わたしはこう言いたい。定 められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く 人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持た ない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のように すべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(29‐31節)。  ここで重要なのは最後の言葉です。神が定められた終わりがあるのですか ら、この世の有様は過ぎ去るのです。しかし、過ぎ去るのは、必ずしも終わ りにおいてだけではありません。終わりがあるということは、そこに向かう 逆行不能な方向があるということです。ならば、確実に一瞬一瞬この世の有 様は過ぎ去っているのです。そのことを私たちは経験的にも知っています。  そして、全ては終わりに向かって進んでいるという認識から生まれるのは、 あらゆる事柄の相対化です。例えば、妻がいる、夫がいる、共に生活してい る、というこの世の有様があります。しかし、これは絶対的なこと永遠不変 なことではありません。事実、今日共に暮らしている配偶者が、明日にはい ないということがあり得ます。当たり前のことです。しかし、人はそれを当 たり前のこととしては生きていません。だからパウロは「妻のある人はない 人のように」とあえて言うのです。  同じことが喜びについても言えます。この世の喜びは必ず過ぎ去るのです。 同様に、今日買った自分の所有物についても言えます。この世とのかかわり についても言えます。この世における肩書きも名誉も皆過ぎ去ります。人は それらを絶対視してはならないのです。それらが過ぎ去ることを前提として 生きるべきなのです。私たちは幻想の中に生きてはなりません。リアリスト として生きるべきです。信仰者として生きるとは徹底的にリアリストとして 生きることです。  もちろん、それはただ悲観的に物事を見て生きることではありません。例 えば、同じことが「泣くこと」についても言われています。悲しみも絶対的 な事柄ではないのです。人が悲しみの内に「ああ、もうすべて終わりだ!」 と叫んだとしても、それは終わりではないのです。神が定めた終わり以外は 終わりではありません。悲しみも過ぎ去るのです。悲しみの向こう側がある のです。「泣く人は泣かない人のように」生きなくてはなりません。  いずれにしても、大事なことは、この世の有様は過ぎ去るのですから、過 ぎ去らないことに連なって生きることです。パウロはこの後で独身と結婚に について語りますが、本当に語りたいのはそのことなのです。何か新しいル ールのようなものを与えることが目的ではないのです。35節に彼がこう言 っている通りです。「このようにわたしが言うのは、あなたがたのためを思 ってのことで、決してあなたがたを束縛するためではなく、品位のある生活 をさせて、ひたすら主に仕えさせるためなのです」(35節)。そうです、 過ぎ去らないのはキリストとの関係です。だから重要なことは、過ぎ去りゆ くこの世の有様の相対性と限界性の中で、ひたすら主に仕えて生きることな のです。  そして、最後に大事なことを一つ。終末の切迫という意識は、ややもする と熱狂主義を生み出す危険性をはらんでいることも事実です。それは、終末 が近いことを教える新興宗教やカルトにおいて今日見られるとおりです。紀 元一世紀にもそのような熱狂がありました。それはまた、現代の教会の身近 にある誘惑でもあります。  熱狂主義というのは破壊的になります。それは現状の放棄へと動きます。 非日常的な事に惹かれていくのです。そして、日々繰り返されるごく普通の 生活の価値を否定し、いたずらにそれを破壊するようになるのです。  それに対して、パウロは、同じように終末の切迫を語りながらも、破壊的 な熱狂主義とは明らかに一線を画しております。例えば、終末が近いのだか ら結婚生活など解消してしまいなさい、とは言いません。そうではなく、 「人は現状にとどまっているのがよいのです」(26節)と語るのです。そ の姿勢は7章を通じて一貫しています。  神の定めた終わりがあるからこそ、そしてそれがいつか分からないからこ そ、地に足をつけて生きなくてはなりません。まさに今与えられている現状 において、いかに主に仕えるかを真剣に考えねばなりません。危機感を煽る 様々な言葉に踊らされないためには、冷静な醒めた心が必要です。私たちが 本当の意味で終末信仰をもって生きるためには、醒めた心をもって、この世 界と自分自身を神の御前にある存在として見なくてはならないのです。