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「愛による自由の放棄」

2001年11月25日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 1コリント8・1‐13

 明らかな罪ならば、避けることができるかもしれません。しかし、いわば 白でもない黒でもない、灰色に見える事柄があります。あるいは、ある人が 見ると黒に見え、ある人が見ると白に見えることがあります。そのような事 について、私たちはどのように判断したら良いのでしょうか。

●知識による自由

 実は、コリントの教会にもそのような問題があったようです。それは「偶 像に供えられた肉」を食べてよいか否かということでした。あるいは、さら に進んで、キリスト者はそもそも肉を食べて良いのか否かという議論や対立 さえあったようです。私たちから見たら滑稽なことかもしれません。しかし、 当時の教会においては、まさに教会を分裂させかねない問題でありました。 食べ物は生活に直接関わっているからです。

 いずこの世界におきましても、宗教的な祭儀と社会的な習慣というものは 密接に結びついているものです。当時のギリシア・ローマ世界も例外ではあ りません。当時の社会における宗教的習慣の具体例が、「偶像に供えられた 肉」の存在でありました。

 コリントの町には、数多くの神々の神殿がありました。そこにおいて捧げ られた犠牲の動物の肉から、祭司の取り分がまず取り分けられます。そして、 残った部分が払い下げられ、市場に売りに出されるのです。人々が口にする 食肉の大部分がこのような経路を通して供給されておりました。いや、それ だけではありません。宗教的な習慣として、直接神殿において会食をするこ とさえあったのです。ですから、そのような習慣に対して、キリスト者がど のような態度を取れば良いのかが切実な問題となりました。当然のことなが ら、そのような「偶像に供えられた肉」を一切拒否する人たちがいたのです。

 類似の事柄はローマの信徒への手紙14章で取り上げられております。そ こを読みますと、先にも触れましたように、偶像にささげられた肉だけでな く、肉そのものを一切食べるべきではないと主張する人たちがいたようです。 それは、肉がいかなる経路を通って食卓に着いたか判別できない事情があっ たからでしょう。

 しかし、もう一方で、偶像に供えられた肉を食べることは、キリスト者に とってなんら差し支えないと考える人たちがおりました。「我々は皆、知識 を持っている」(1節)と主張する人たちです。その知識とはどのようなも のでしょうか。その内容は、4節に具体的に記されています。「そこで、偶 像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはな く、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知って います」(4節)。もちろん、これは正しい信仰的な認識であり知識です。 ですから、パウロもまたその知識を共有している者として語っているのです。

 教会が旧約時代のイスラエルとその聖書から受け継いだ最も大きな認識の 一つは、創造者と被造物の決定的な区別であります。神が創造者であるなら ば、神以外は神によって造られた被造物です。それはいかなるものであって も、造られたものとして、造り主とは区別されます。従って、被造物は神と なることはありません。それはいかなる意味においても、神的なものではあ りません。

 この知識が、コリントの「知識を持っている人たち」によって、彼らを取 り巻く異教社会に適用されました。その社会には壮大な神殿がいくつも立っ ています。多くの神々が崇められています。神々はコリントの人々の社会生 活を支配しています。しかし、彼らはそこで「唯一の神以外にいかなる神も いないのだ」と言い切ったのです。

 もちろん、偶像の背後には、人々を実際に支配しようとしている霊的な存 在があるとも言えます。「現に多くの神々、多くの主がいると思われている ように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても…」(5節)と表現さ れているとおりです。しかし、その霊的存在が「神々」と呼ばれようと、 「悪霊」(10・20)と呼ばれようと、それは被造物に過ぎないのです。 それは唯一創造者なる神に並べられるべき他の神々ではないのです。

 ならばどのような結論が導き出されるでしょうか。偶像に供えられた肉は、 神としての実体を持たないものに供えられたのですから、それを食べること は差し支えないということになります。偶像礼拝そのものは神の御心に反す る罪であったとしても、そこにある肉そのものには何ら問題はないのですか ら。偶像に供えられた肉を食べることについて、いたずらに恐れる必要はな いということになるでしょう。

 このように、「我々は皆、知識を持っている」と主張する人々の言い分は、 確かに間違いではないのです。彼らは、その知識によって自由を得たと言う こともできるでしょう。事実、私たちが事柄に対する正しい知識と認識を得 ることはしばしば重要なことです。知識は不要な恐怖から人を解放します。 様々な囚われから人を解放します。健全な判断をもって生きるために、その ような自由を得ることは非常に重要なことです。

●愛による配慮

 しかし、知識による自由だけでは十分ではありません。なぜなら、一人の 人の行動は、必ず他者に作用するからです。そして、その他者は、必ずしも 同じ知識を持っているとは限りません。ですから、パウロはさらに次のよう に続けます。「しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません」 (7節)。

 先に言及された知識を持たない人が、自由な人の言葉に動かされて、同じ ように偶像に供えられた肉を食べたらどうなるでしょう。彼はいまだに偶像 になじんできた習慣にとらわれています。彼の心の中においては、まだ偶像 の神々は実体を持ち支配力を及ぼしている他の神々なのです。その神々に肉 がささげられました。肉はその神々に属するものとなりました。それが市場 に出回ります。彼はその肉を神々に属するものとして見ています。それを食 べることは、自分が今仕えているイエス・キリストの父なる神に対する不誠 実であるように思います。彼の良心は痛みます。彼は良心を痛めつつ、肉を 口にします。

 さて、ここに至ると、問題は肉そのものではなくなります。実際に肉を食 べることが神に逆らうことであるかどうかが問題ではないのです。パウロ自 身、「わたしたちを神のもとに導くのは食物ではありません。食べないから といって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけ ではありません」(8節)と言っているとおりです。では何が問題なのでし ょう。その人が、「神の前に正しくないと思うことを、あえて神に逆らって 行うこと」なのです。「良心が弱いために汚される」(7節)とパウロが言 っているのはそのことです。こうして、自由な強い人の言動が、弱い人の心 を神から引き離してしまうようになるのです。

 ですから、パウロは自由な人々に対して次のように勧めます。「ただ、あ なたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、 気をつけなさい」(9節)。

 私たちは、自分のある行動が罪であるか否かということばかりに心を用い てはなりません。たとえ自分の知識に基づいて考えるならば決して罪ではな いことであっても、それが他の人を罪に誘う原因になることがあるからです。 他の人を神から引き離す原因となることがあるのです。正しい知識は大事で す。それに基づく自由も大事です。しかし、その自由が他の人々を罪に導き 滅びへと向かわせてしまうことがあり得るのです。「そんなことは、弱い人、 誤った観念にとらわれている人の問題だ。こちら側の問題ではない。私は自 分の自由に従って行動したまでだ!」私たちはそう主張すべきでしょうか。 いいえ、そうあってはなりません。パウロは言います、「その兄弟のために もキリストが死んでくださったのです」(11節)と。

 ですから、彼はさらに、肉を食べることに関して、次のような決心を語り ます。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、 兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1 3節)。パウロ自身は知識を持っています。彼は自由です。しかし、彼はそ の自由をあえて放棄するのです。兄弟をつまずかせないために、愛による配 慮のゆえに、自らの自由を放棄するのです。このように、自分の自由を必要 に応じて放棄できる自由こそ、私たちが持つべき真の自由ではないでしょう か。パウロは、自由であることを主張する人々に、本当の意味で自由である ことを求めているのです。

 このように考えてきますと、1節の言葉の意味が見えてまいります。彼は、 最初に「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言って、 彼らの知識そのものについては認めました。しかし、続けてこう言ったので す。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。

 既に見てきましたように、彼は決して知識と愛とを対立させているわけで はありません。正しい信仰の知識によって、囚われから解放され、自由を得 ることは、パウロにおいても非常に重要なこととして考えられているのです。 しかし、この知識と自由が高ぶりとして現れる時に、それは共同体を破壊す る力として作用し始めます。「知識のない方が悪いのだ。つまらないことに 囚われている方が悪い、自由でない方が悪いのだ」と言ってしまうなら、も はや共に生きることはできなくなるではありませんか。

 ですから、加えて、「愛は造り上げる」という言葉が大きな意味を持つの です。「愛は人の徳を高める」という訳もありますが、パウロがこの言葉を 用いる時、考えているのは個人のことではなく教会です。教会が建てられて いくためには、知識による自由だけでなく、愛による配慮がどうしても必要 なのです。

 最初にも申しましたように、私たちのまわりには白黒つけがたいことがた くさんあるのです。その時に、「自分の行為は正当であるか否か」を考える と共に、「自分の行動が建て上げる方向に向かっているのか、破壊する方向 に向かっているのか」を考えねばなりません。そして、兄弟をつまずかせず、 共同体を破壊しないために、時として自らの自由を放棄することも必要なこ となのです。

 
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