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「目を覚ましていなさい」

2001年12月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ24・36‐51

 今日からアドベント(待降節)に入りました。クリスマスまでのこの期間 は、キリストの到来を心に留める期間です。それは馬小屋に生まれた第一の 到来だけでなく、王の王、主の主として来られる第二の到来、キリストの再 臨を覚える期間でもあります。これをクリスマスの前祝いであるかのように 過ごしてはなりません。私たち自身の悔い改めこそ、クリスマスに向けて為 されるべき備えです。

●ノアの時と同じである

 主の再臨については、使徒信条において次のように告白されています。 「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」特に、この 「生ける者と死ねる者とを」という言葉について、ファン・ルーラーという オランダの神学者が非常に印象的な言葉をもって講解しています。少し長く なりますが引用します。

 「彼(キリスト)は生きている者をも裁かれるでしょう。最後の審判の日 には、既に死んだ者たちだけがそこに存在するのではありません。そこには 生きている者もまた存在するのです。これは素朴な表現ですが、そこには重 要なことが語られております。最後の審判の日は、一見、何の変哲もない普 通の日なのです。それは歴史上の多くの日々のうちの一日です。生活はごく 普通に営まれています。しかし、まさにその日、人の子は帰って来られるの です、思いがけなく、夜にやってくる盗人のように。それは単なる普通の日 ではありません。それは最後の審判の日です。それは最後の日であるとも言 えますし、まったく新しい日であるとも言えるでしょう。それは歴史が終わ りを告げる日であると同時に、総括される日でもあります。普通の生活はも はやその先にありません。人生は破滅と救済を通り抜けていくことになりま す。その意味において、その日は全く特別な日であると言えるでしょう。そ の日は『明日』のない日であり、それに続くいかなる日も存在しないのです」 (A.A.van Ruler "IK GELOOF"より)。

 主イエスもまた、その日を、一見すると何の変哲もないごく普通の日であ るかのように語られました。それは「ノアの時と同じ」だと言うのです。3 6節以下をご覧ください。「その日、その時は、だれも知らない。天使たち も子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの 時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人 々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲っ て来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、 このようである」(36‐39節)。

 「ノアの時」は、直訳すると「ノアの日々」です。「洪水になる前は」は、 直訳すると「洪水になる前の日々は」です。そうです、そこには当たり前の ように人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして過ごしてきた「日 日」があったのです。それに対して、「ノアが箱舟に入るその日」は、単数 の「日(英語なら"the day")」です。人々は、まさに「その日」も、いつも と同じ「日々」に続く一日であったと思っていたことでしょう。しかし、そ うではありませんでした。それは特別な「日」、「裁きの日」となったので す。

 ある日が、突然、特別な日となってしまうということについて言えば、類 似の経験は私たちにもあります。15年前のある日曜日の朝、当時神学生で あった私はいつものように教会で奉仕をしておりました。普段通りの日曜日、 いつもと変わらぬ日々のうちの一日でした。そのはずでした。しかし、私に 一本の電話が入りました。私の親友がバイクの事故で死んだという知らせで した。その日は、突如として、異例なる日、特別な日となってしまったので す。そう、あの9月11日もそうでした。あの日、人々はそれまでの日々に 続く一日としてスタートしたはずです。しかし、ごく普通の日であったはず のその日は、突如として、「世界が変わった日」と呼ばれる日となってしま いました。

 ならば、キリストの再臨の日も、それと同じであろうことは理解できます。 それは「ノアが箱舟に入るその日」と同じです。あるごく普通の日と見える 一日が、それまでの歴史を総括し、私たちの人生をも総括する特別な日とな るのです。

 ところで、ここでノアの時代の人々について、彼らが滅びたのは悪行のゆ えであると語られていないことは注目に値します。ただ「食べたり飲んだり、 めとったり嫁いだり」と語られているだけです。実際には、創世記6章のノ アの物語の冒頭に、「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世 記6・11)と書かれています。だから、神はノアに「わたしは地もろとも 彼らを滅ぼす」(同13節)と言われたのです。しかし、主イエスは人々の 不法そのものには言及しておられないのです。

 そうです。主が問題にしておられるのは、他のことなのです。それは、彼 らが神の正しい裁きの日を考えずに生活していたことです。ある一日が、特 別な一日、裁きの一日となることを思うことなく生活していたことなのです。 これまでの日々のように、明日も、またその次の日も、自分の手の中にある かのように生きていたことが問題とされているのです。そのような神なき日 常性の上に、神の裁きは臨むことになるのです。

 神の裁きによって、当たり前の生活の中において、決定的な区別と分離が 起こります。神に受け入れられるのか、神に退けられるのか、神に救われる のか、滅びるのか、そこで二通りに分かれるのです。神によって分けられる その区別に比べるならば、この世のいかなる区別も取るに足りないものとな るでしょう。そこではまったく個々の人間が問われることになります。まさ に神は個々の人間に真剣に向かわれます。「一人は連れて行かれ、もう一人 は残される」(40、41節)のです。そこで私たちは親を問題にできませ ん、子供を問題にできません、最終的には何事も妻のせいに夫のせいにもで きません。親族の責任にできません。神の裁きにおいては皆、一人の人間で す。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」のです。

●だから目を覚ましていなさい

 では、私たちはどうすべきでしょうか。教会は、神を失ったこの世界に、 滅びに瀕しているこの世界に、まず何にもまして、キリストを宣べ伝えるべ きでしょうか。もちろんそうです。神の裁きが真剣に受け止められるならば、 そこではまた、悔い改めの必要性、罪からの救いの必要性も真剣に受け止め られねばならないでしょう。私たちは、神の御前にあるこの世界に、キリス トの名によって「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24・47)を宣べ 伝えねばなりません。

 しかし、少なくともこの箇所においては、別の事柄が語られていることに 注意せねばなりません。主は言われます。「だから、目を覚ましていなさい 」(42節)。これは世に対する言葉ではありません。その後に「いつの日、 自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と 書かれていますように、これは主を知っており、主の帰りを待っているはず の者、キリスト者に対する言葉なのです。つまり、私たちは、まずこの世を ではなく、自らを問わねばならないのです。

 目を覚ましているとは、42節の言葉から明らかなように、主の帰りを待 つ者として、備えつつ生きるということです。その意味するところについて は、45節以下に明瞭に語られております。

 「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与え させることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って 来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(45 ‐46節)。

 主人を待つ僕について、主人が望んでいるのは、僕が有能であることでは ありません。単に僕が良く働くことでもありません。主人が望んでいるのは、 僕が忠実であることです。忠実な僕は、主人の意思を重んじます。主人が願 うことを行おうとします。そして、主人が託してくださっている務めを重ん じます。主人が託してくださっている人々(この場合、使用人)を重んじま す。

 総じて言えば、忠実な僕とは主人を重んじる僕のことです。それは主人を 愛しているということでもあるでしょう。主人を愛している僕は、主人の帰 りを待ちわびます。ですから、主人がいつ帰ってきてもよいように備えます。 その結果、彼は主人が帰ってきたとき、言われているとおりにしているのを 見られることになります。忠実である僕は、こうして賢い僕でもあります。 主人は、小さなことに忠実であった賢い僕に、さらに大きなことを託します。

 この忠実で賢い僕に対比されているのが「悪い僕」です。「しかし、それ が悪い僕で、主人は遅いと思い、仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べ たり飲んだりしているとする。もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、 思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わ せる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(48‐51節)。

 悪い僕は、主人の意思を軽んじます。彼にとって大事なのは我が身を楽し ませることです。そして、悪い僕は、主人が託してくださった務めを軽んじ ます。主人が託してくださっている人々を軽んじます。

 彼は主人を重んじてはいません。もちろん、主人を愛してもいないでしょ う。彼は主人を待ってはいません。「主人の帰りは遅いだろう」と考えます。 主人が帰ってこないことは、彼にとって望ましいことです。しかし、主人は 予期しない日に帰ってきます。彼は自分の立場を利用して、望むことを上手 に行いました。彼は賢い人でしょうか。いいえ、彼は賢くありません。愚か 者です。不忠実である僕は、こうして愚かな僕でもあります。主人は彼を厳 しく罰することになります。

 このように、私たちに求められているのは、主を待つ者として忠実な賢い 僕として生きることです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。 忠実であることが問われるのは、私たちの日常です。私たちの「日々」です。 すなわち、ごく普通の日常生活であり、ごく普通の教会生活です。終末切迫 の意識は、往々にして非日常的な事柄への逃避へと私たちを誘います。しか し、終末への備えは、日常性の中にこそ求められねばなりません。

 ところで、マタイによる福音書において、「目を覚ましていなさい」とい う命令は、この他にゲッセマネの祈りの場面に出てきます。弟子たちに主は 言われました、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(マタ イ26・41)。そこには、主の苦悩を横に眠りこけている弟子たちの姿が あります。これは往々にして主の御心に無頓着な私たちの姿でもあります。 主に忠実であるためには、主の御心に私たちの思いを向けねばなりません。 それは祈りに他なりません。「目を覚ましている」ということと、「祈る」 ということを切り離すことはできないのです。

 
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