「心を合わせ声をそろえて」                         ローマ15・4‐13  私たちは、何を祈り求めたらよいのかをしばしば見失います。まったく見 当はずれなことを追い求めていることもあります。そのような私たちにとっ て、聖書にいにしえの聖徒たちの祈りが記されていることは有り難いことで す。私たちが何を祈り求めたらよいかを指し示してくれるからです。  本日お読みしました聖書箇所には、パウロの二つの祈りが記されておりま す。一つは5節と6節です。「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、 キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえ て、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせ てくださいますように」。そして、もう一つは13節です。「希望の源であ る神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、 聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」。私たちは、こ こに記されている二つの祈りを、ぜひとも私たちの祈りとしたいと思います。 ●忍耐と慰めの神  パウロが、第一の祈りにおいて祈り求めているのは何でしょうか。それは、 ローマの信徒たちが、互いに同じ思いを抱き、心を合わせ声をそろえて、主 イエス・キリストの神、父なる神を礼拝するようになることです。 このことが祈り求められているということは、とりもなおさず、これが決 して容易ではないことを意味します。簡単なことならば、祈り求める必要は ないからです。事実、ローマの教会において、人々が一つのことを巡って相 対立しているという事情がありました。詳細は14章に記されております。 簡単に言えば、キリスト者は肉を食べてもよいか、それとも食べてはいけな いのか、ということを巡っての意見の対立です。つまらない話に思えるでし ょうか。しかし、往々にして、人と人との対立は、大きなことに関してとい うよりは、むしろごく些細なこと、つまらないことを巡って起こるものです。  確かに、私たちが他の者と同じ思いをもって生きられるようになること、 またそのように共に生き続けることは、容易なことではありません。人がそ のことを求めようとするならば、忍耐が必要とされます。7節には「互いに 相手を受け入れなさい」という言葉があります。人と人とが真に共に生きる ためには、互いに相手を受け入れることが不可欠です。そして、私たちは経 験的に良く知っています、相手を受け入れることは、時として相当な忍耐を 必要とするということを。  しかし、私たちは元来、忍耐することを好みません。水が低い方に自然に 流れるように、人は自然と安きに流れます。建て上げるよりは壊すほうに、 一つになろうとするよりは、分裂する方向へと向かうものです。そして、似 た者たち、同じ考えを持ち、同じ感じ方をする者たちだけで共にいることを 求めます。それは分裂という形ではなく、異質な者の排除という形を取るこ ともあります。あるいは、自分自身が出て行くという形を取ることもあるで しょう。忍耐をもって建て上げなくてはならない関係なら、初めから切って しまった方がよいと思うのです。そのように、私たちの自然の性質は忍耐を 欲しません。安易な逃げ道を求めます。  しかし、私たちがそのように忍耐を要する課題から一生逃げ回って生きる ようになることを神は望まれません。神は、互いに異なる者が共に生きるこ とを、そしてさらには、心を合わせ声をそろえて礼拝する者となることを望 んでおられるのです。教会がこの世に存在するということは、そのような神 の御心を示しています。教会は、もともと同じ思いを抱いている者が「集ま った」のではないからです。キリストにより、背景の異なる様々な者たちが 「集められた」のです。パウロの時代、最も大きな断絶の一つはユダヤ人と 異邦人の間にありました。しかし、神はユダヤ人と異邦人が心を合わせ声を そろえて礼拝することを望まれたのです。  そのような教会に、ローマの信徒たちは導かれました。彼らはキリストに よって集められたのです。ですから、パウロはここで忍耐と慰めの源である 神に祈ります。なぜなら、必要とされる忍耐は神から来なくてはならないか らです。  聖書の語る「忍耐」は単に消極的な「我慢」ではありません。そうではな くて、積極的に、希望を失うことなく、あえて留まることを意味します。神 こそ忍耐の源泉です。水源から切り離された川は涸れてしまいます。私たち の忍耐が神から切り離されるならば、それは干涸らびたやせ我慢にしかなり ません。干涸らびた我慢は対立を克服する力を持たないばかりか、むしろ怨 念を増大させ亀裂を深めるだけです。神の命と力に満ちた忍耐強さでなけれ ば、真に相手を受け入れることはできないからです。  では、忍耐と慰めの神は、どのようにして私たちに忍耐を与えてくださる のでしょうか。それは聖書を通してです。4節にこう書かれているとおりで す。「かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。 それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることが できるのです」。  しかし、「聖書から忍耐と慰めを学んで」という意訳は、誤解を招くかも しれません。ともすると、「忍耐しなさい」という戒めを学ぶことが大事で あると思ってしまうからです。しかし、聖書は単なる道徳の書、処世訓の書 ではありません。もしそれがパウロの意図であるならば、その直前の引用は、 「忍耐しなさい」に類する戒めの言葉であったはずです。しかし、その直前 でパウロが引用しているのは「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふり かかった」という詩編の言葉です。これは詩編69編10節からの引用です。 もともとは神に逆らう者によって苦しむ信仰者の祈りの言葉です。しかし、 これは古くからキリストの苦難を指し示すものとして理解されてきました。 パウロが考えているのは聖書の戒めのことではなくて、キリストのことなの です。  キリストの内に私たちは何を見るのでしょうか。ひたすらこの世の罪、私 たちの罪を負って苦しまれたキリストの中に、私たちは忍耐の神を見るので す。聖書は罪の赦しについて語ります。しかし、罪の赦しということが決し て容易いことではないことは、他者を赦し受け入れるために苦しんだことの ある人なら知っています。受け入れることは苦しみを伴います。そのように、 私たちは誰かのことを耐え忍んでいると思っているかもしれませんが、私た ちこそ神によって耐え忍ばれている者なのです。  そして、神が私たちを負い給う忍耐の神であるからこそ、また私たちを忍 耐強くあらしめる神でもあるのです。神は忍耐の神であると共に、慰めの神 であり、励ましの神です。私たちは、聖書を通して、そのような神の忍耐と 慰めを知り、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱き、心を合わせ 声をそろえて父を讃える者とされるのです。であるならば、私たちは、逃げ 道を求める前に、ひたすらこの御方からの忍耐と慰めとを祈り求めるべきな のです。 ●希望の神  そして、さらに第二の祈りについて考えたいと思います。先に「忍耐と慰 めの源である神」と呼ばれていた御方が、ここでは「希望の源である神」と 言い換えられております。そしてパウロは、ローマのキリスト者たちが、信 仰による喜びと平和に満たされ、希望に満ち溢れることを祈り求めているの です。喜び、平和、希望――どれも私たちが真に生きるために必要なもので す。それを私たちもまた祈り求めるべきことに、異論を唱える人はいないで しょう。  しかし、私たちは、この祈りを、その前に書かれていることから切り離し てはなりません。希望は忍耐と無関係ではないのです。既に、4節にこう書 かれておりました。「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希 望を持ち続けることができるのです」(4節)。あなたが安易に忍耐を放棄 するならば、あなたに真の希望はないのです。特に、ここで語られているの は、既に見てきましたように、心を合わせ声をそろえて礼拝する共同体を形 作るための忍耐です。私たちが真に礼拝する者として共に生きるための忍耐 です。そこにおいて、忍耐と慰めの源なる神を知ってこそ、希望の神をも知 ることができるのです。それは、私たちが真に心を合わせ声をそろえて礼拝 する者となることこそ、私たちの希望である神の国を指し示すしるしだから です。  そのことは聖書に明瞭に記されております。神はイスラエルの民だけが主 を誉めたたえるようになることを求めておられたのではありません。神のビ ジョンの中には異邦人たちもまた存在しているのです。異邦人もまた主の民 と共に主を誉めたたえるようになることを、主は求めておられるのです。 「異邦人よ、主の民と共に喜べ」(10節)、「すべての異邦人よ、主をた たえよ。すべての民は主を賛美せよ」(11節)。旧約の聖徒たちがそこに 思い描いているのは、まさに全世界が心を合わせ声をそろえて主を礼拝して いる姿です。ですから、私たちもまた、その映像を、私たちの希望として思 い描いてよいのです。なぜなら、主がそれを望んでおられるからです。キリ ストが来られたのは、まさにそのためでありました。「それは、先祖たちに 対する約束を確証されるためであり、異邦人が神をその憐れみのゆえにたた えるようになるためです」(8‐9節)。  私たちが現実に周りを見回せば、それとは正反対の世界があります。そこ には人間の罪のゆえにズタズタに引き裂かれた世界があります。互いに傷つ け合い、憎み合い、殺し合っている世界があります。最も小さな単位である はずの家族でさえ共に生きることができません。親と子は引き裂かれ、夫婦 の関係も引き裂かれています。  しかし、私たちはもう絶望しなくてよいのです。もう諦めたり、逃げ出し たり、投げ出したりしなくてよいのです。この世界はキリストの血潮が流さ れた世界だからです。神が御子の血を流してまで、赦し、受け入れ、忍耐を もって担おうとしておられる世界だからです。だから、私たちは、全世界が 一つとなって心を合わせ声をそろえて礼拝するその時を、希望をもって待ち 望んでよいのです。私たちは、希望をもって喜んで生きてよいのです。  そして、ここにいる私たちが、忍耐と慰めの神によって、心を合わせ声を そろえて礼拝する者とされることこそが、世界の希望を指し示すしるしとな るのです。私たちが身近な小さな対立を乗り越え、互いに受け入れ合うこと など、世界の片隅における本当にちっぽけなことかもしれません。しかし、 その小さな現実の中で忍耐と慰めを与え給う神は、全世界の希望の神でもあ るのです。ならば、私たちは、忍耐と慰めの神から来る忍耐と慰めをひたす ら求めようではありませんか。そして、その上で、希望の神から来る真の希 望に生きようではありませんか。