「主が来られるときまで」                          ヤコブ5・7‐11  先週に引き続き、「忍耐」に関する聖書箇所です。私が意図的に選んだわ けではありません。「改訂共通聖書日課」(The Revised Common Lectionary )に従って聖書箇所は選ばれております。また、厳密に言いますと、先週お 読みしましたローマの信徒への手紙15章で語られております「忍耐」と、 この7節の「忍耐」は原文では異なる言葉が用いられております。しかし、 ともあれ、日本語に訳せばどちらも「忍耐」になるわけでありまして、この テーマが二週間続けて取り上げられることにはそれなりの意味があろうかと 思います。キリストの到来を覚えるアドベントの季節を過ごしております私 たちにとりまして、やはりどうしても心に留めなくてはならない言葉である ということなのでしょう。 ●主が来られるときまで忍耐しなさい  「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5・7)。先 週お読みしましたローマの信徒への手紙15章におきましては、忍耐という 事が教会の中に起こった対立を背景に語られておりました。まことに人と人 とが互いに相手を受け入れ合い、同じ思いを抱き、心を合わせ声をそろえて 父なる神を礼拝するようになるためには、神によって与えられる忍耐が必要 とされるものです。一方、今日の箇所において語られております忍耐は、試 練ということを背景として語られております。この手紙の一章を読みますと、 例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜 びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っ ています」(1・2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と 認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1・ 12)と語られております。  この試練が、具体的にどのような状況を意味するのかは定かではありませ ん。恐らく、教会に対する迫害を彼らは経験していたことでしょう。あるい は、富める者や権力者たちによる抑圧に苦しむ貧しい人々がいたことでしょ う。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、そ の具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信 仰者はその信仰が問われます。試されるのです。この世はキリストを主とし 王として従っている世界ではありません。その中において、キリストに従っ て生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得ます。 その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。  そのような「試練」を背景として「忍耐しなさい」と語られております。 先週お話ししました「忍耐」が、おもに「留まること」と関係しているとす るならば、今週語られております「忍耐」は、おもに「待つこと」と関係し ていると言えるでしょう。7節で使われている「忍耐する」という言葉は、 「気を長く持つ」ことを意味する言葉です。  試練は永遠ではありません。すべての試練には終わりがあります。そのこ とを知っている人は、試練の中で耐え忍んで待つことができます。試練の向 こう側を考えることができます。私たちは、その終わりを聖書において教え られております。私たちが信じるキリストの再臨こそ、究極的にはすべての 試練の終わりです。もちろん、それは裁きの時でもあります。この世と一つ になり、神に敵対しているならば、キリストが到来するその時は、世と共に 裁かれる時となるでしょう。しかし、神を愛し、キリストを主とし、その御 体に連なり、主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ 最終的な希望であり、神の報いの時であり、試練の終わりの時に他ならない のです。ですから、ここで「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい 」(7節)勧められているのです。  それは農夫が忍耐強く実りの時を待つのと同じです。農夫は待つことを知 っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。 種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降りま す。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに 見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょ う。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐 しながら待つのです。  それは信仰においても同じです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、 神から引き離す誘惑ともなります。しかし、その誘惑に屈してはならないの です。ですから、ヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。もちろん、 これは信仰に関してのことです。信仰をしっかりと守らねばなりません。主 が定められた終わりの時まで、忍耐しつつ備えて待たねばならないのです。 ●互いに不平を言わないように  そして、次に、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに 不平を言わぬことです」(9節)と勧められています。実は、言葉に関する 戒めが出てくるのは、ここが初めてではありません。人間の舌というものの 恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。「ご覧なさい。どんなに小 さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』で す。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽 くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3・5‐6)。そして、 「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造 られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの 兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3・9‐10)と彼は 言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」 (4・11)と勧めているのです。  なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。 試練の時には、舌を制御することが、本当に困難になるからです。苦しみや 困難が、私たちを不平や不満で満たしてしまうということを、私たちはしば しば経験いたします。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野 の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。普段 は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。 普段なら全く気に留めないであろう他人の行為や言葉が、妙に気に障るよう になります。そのような経験はありませんか。しかし、普段ならば気になら ないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状 態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手にあると私たちは 思い込んでしまっているのです。  その結果、悪口が不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるよ うになります。教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は外 にではなく、内にありました。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、そ れは確実に教会の交わりを腐らせていくに違いないからです。崩壊は外から ではなく内側から起こります。もちろん、試練のもとにあった当時のキリス ト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違い ありません。しかし、不平や不満が互いの関係を絶て上げ、教会を建て上げ る力となることは絶対にないのです。  そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう 言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキ リストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立って おられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるの です。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私 たちが今しがたまで語っていたことです。いや、もう既にキリストは聞いて おられたのです。戸口におられたのですから。  私たちはその時、同じことを語り続けることができるでしょうか。不平を 言う時には、自分が正しいと思っているものです。その言葉を、裁く方、す なわち再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるならば、 キリストが来ておられない今、口にすることに何ら問題はないでしょう。し かし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみな くてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立って おられ今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは、 私たちにとっても大事なことです。 ●預言者たちを忍耐の模範としなさい  そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語 った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に 見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語 りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たち は悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は手軽な平和と幸いを求めまし た。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいこと を語る偽預言者の言葉の方を求めました。預言者たちは国家の滅亡を語りま した。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでし た。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。 彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言 葉の正しさは神自らが証明されます。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだ ね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに神の時を待つ 人々でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコ ブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。  さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたし たちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸 いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後に どのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言いま す。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考 えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということな のです。ヨブ記に出てくるヨブの最後の言葉は神に対する次のような言葉で す。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなた を仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改 めます」(ヨブ42・5‐6)。  苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じ る不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなります。しかし、苦し みは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契 機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時 を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐なの であります。