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「東方からの来訪者」

2002年1月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ2・1‐12

 教会の暦では、1月6日のこの日を「顕現祭」あるいは「公現祭」と呼び ます。この日、世界中の多くの教会で、今日私たちが読みましたマタイによ る福音書2章の物語が読まれます。

 星に導かれて東方の博士たちがメシアを訪ねてやって来ました。クリスマ スのページェントとしてもしばしば演じられる場面です。一般的にも良く知 られている物語であると言えるでしょう。しかし、その神秘的絵画的描写の ゆえに、ともすると私たちの現実とはまったく関わりのない、おとぎ話のよ うなものとして受け止められかねません。

 しかし、キリストの物語は子供向けのおとぎ話ではないのです。神の御子 は、悲しみも痛みもない空想の世界にではなく、苦悩に満ちた私たちのこの 世界に入ってきてくださったのです。つまり、神はこの世界に関わってくだ さったし、今日にもなお私たちに関わってくださっているのです。聖書の物 語は私たちの日常との関わりにおいて読まれなければなりません。神の言葉 は、私たちの現実の中で聞かれねばならないのです。

●ヘロデ王の不安

 ここにヘロデという王が出てきます。そして、東方から来た博士たち、新 共同訳では「占星術の学者たち」が出てきます。彼らは皆、生身の人間です。 私たちと同じ人間です。ですから、ここに描かれている人々と私たちの間に は共通点があります。それぞれ、人間の姿を代表しています。私たちはヘロ デにもなり得るし、東方から来た学者たちにもなり得ます。

 物語の最初の部分をもう一度お読みしましょう。「イエスは、ヘロデ王の 時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者た ちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれ になった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見た ので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エル サレムの人々も皆、同様であった」(1‐3節)。

 クリスマスの物語は、まことの王が生まれた、という物語です。神がユダ ヤ人の歴史を通して、人類に与えて下さった、まことの王、それがイエス・ キリストであるというメッセージが語られているのです。私たちを治めてく ださる王が与えられるということは、本来喜ばしいことです。私たちは自分 自身をさえ正しく治めることができない者だからです。

 しかし、このまことの王の到来という出来事を前にして、人間の姿は二通 りに分かれました。まことの王を慕い求めて旅をしてきた人々と、この王の 到来を喜ばなかった人々です。

 王なるキリストの到来を喜ばなかったの人々の代表は、ヘロデ王です。ヘ ロデはなぜ喜ばなかったのでしょう。それはもちろん、自分の支配権が脅か されるからです。自分が王であり、また王であり続けようとする人とって、 他の王の到来は迷惑な話でしかありません。

 私たちも小さなヘロデであり得ます。私たちはそれぞれ自分の王国を持っ ています。自分の支配領域を確保したいと思います。最も小さい王国は自ら の人生でしょう。せめて自分の人生は自分のものだ、と言いたいものです。 そしてさらには、他人もまた自分の思い通りに動いてくれたらと願います。 そのような人にとって、まことの王の到来は喜ばしいこととは思えません。 「ヘロデ王は不安を抱いた」と書かれているとおりです。

 この「不安を抱いた」という言葉は注目に値します。ヘロデが不安を抱い たことには、その背景がありました。彼の人生には、絶えざる恐れがあった のです。彼はユダヤを支配する王でありながら、彼自身は純粋なユダヤ人で はなかったからです。ですから、この王は、権力を振り回す一方で、絶えず 自分の王位を脅かすものを恐れておりました。彼は、疑心暗鬼のゆえに、彼 が唯一愛していたはずの妻を処刑してしまいました。そればかりではありま せん。それから約二十年後、自分の息子たちをも次々と処刑せざるを得なか ったのです。彼は最後に、自分の長子を処刑し、その五日後に自らも病苦に さいなまれつつ死んでいきました。彼の一生は不安と恐れにさいなまれた一 生でありました。自ら王であり続けようとしたヘロデは、もう一方で恐れと 不安の奴隷であったのです。

 この意味においても、私たちはしばしば小さなヘロデです。私たちもまた、 自分が王であり続け、自分の思い通りに生きようとしますとき、その一方で 恐れと不安、ねたみと思い煩いに捕らえられていくのです。王であろうと望 みつつ、恐れと不安の奴隷になっていくのです。人間が互いに傷つけ合い破 壊し合ってきた歴史の背後にあるのは絶えることのない恐れと不安です。そ れがこの人間社会の実相です。まことの王なき人生であり、まことの王なき 社会であるとはそういうことです。

●東方からの来訪者たちの喜び

 次に東方からの来訪者たちに目を向けてみましょう。彼らは占星術の学者 たちです。彼らはペルシアの方から来たものと思われます。古くから天体礼 拝と占星術の盛んだったところです。彼らの運命を支配するのは太陽や月、 あるいは他の天体であると信じられておりました。そのように天体の支配の もとに運命が定められているゆえに、その運命を知ることが重要な意味を持 ったのです。

 人は一方において自分を王国の王座につかせようといたします。王であり 続けようといたします。しかし、もう一方で、自分が何か得体の知れないも のの支配下にあると感じております。それが何かは分からないけれども、そ の何かによって定められていることがあると感じております。自分の個人の 人生についてすら、いやそのうちのたった一日についてすら、完全には自分 の思い通りにならないことを知っているのです。何かに支配されている。人 は心の奥底でその事実を認めています。

 ですから、今日に至ってもなお占いの館はさびれません。予知能力をもっ た霊能者、お託宣を与えることのできる教祖はもてはやされます。いや、ま だ先を知ったら生きていけると思っている人はましでしょう。人によっては、 運命とか定めとかは絶望を意味するもの以外のな何ものでもありません。諦 めの中に生きている人がどれほどいることでしょう。自分の人生についても はや新しいことは何も期待できない人、この世界についてももはや新しいこ とを何も期待できない人の何と多いことでしょうか。これが定めなのだ、こ れが運命なのだと思ってしまうのです。得体の知れないものの支配下に身を 置いてしまうのです。それが幼稚な迷信のようなものであってもです。

 しかし、この学者たちは、そのような占いの世界から立ち上がったのです。 そして、まことの王を求めて旅に出たのです。長い長い旅であったことでし ょう。彼らがメシアの到来について、誰から聞いたのかは分かりません。ペ ルシアに移住したユダヤ人から伝えられたメシア待望の信仰であったのかも 知れません。しかし、大切なことは、彼らが古い生活を後にして旅だったと いうことです。そして、彼らはついにキリストを見出し、その前にひれ伏し 礼拝したのです。

 彼らは幼子キリストの前にひれ伏して拝み、黄金・乳香・没薬を献げまし た。これらの献げ物は、古くから、キリストがいかなる方であるかを示して いる献げ物であると言われてきました。すなわち、黄金はキリストがまこと の王であることを表し、乳香はキリストがまことの祭司であることを表し、 没薬はキリストの葬りを表すというものです。また、彼らの献げ物は、占星 術に用いられていた道具であるとも言われます。もし、そうであるならば、 彼らの献げ物は、同時に彼らの占星術行為の放棄をも意味したと考えること ができるかもしれません。

 いずれにせよ、彼らがメシアを求めて来訪し、幼子を拝んだということは、 彼らがもはや自分たちを星の支配のもとにある者とは見なくなったことを意 味するでしょう。得体の知れない運命のもとにあるものとして生きることを 止めたのです。まことの王に出会ったからです。そして、まことの王なるメ シアをお送り下さった神の支配のもとに生き始めたのです。ここに至って、 ついに彼らの旅は意味あるものとなりました。私たちにとっても、人生とい う旅路における最も大きな意味は、自らを献げて礼拝すべき御方を求めるこ とであり、まことの王を見出すことであると言えるでしょう。

 それにしましても、キリストの到来によってもたらされたヘロデと東方か らの来訪者たちの姿はきわめて対照的です。ヘロデは、身近にいる祭司長た ちや律法学者たちからキリストの到来についての聖書の証言まで聞いていた のです。喜びの知らせはすぐ身近にあったのです。しかし、ヘロデは王なる キリストを受け入れませんでした。ヘロデは「わたしも行って拝もう」と言 いましたが、その心にあったのはキリストを抹殺することでありました。

 一方、東方からの来訪者たちは、「喜びにあふれた」と書かれております。 喜びに溢れたのは、メシアを求め、まことの王に出会い、その方を礼拝した 人々でした。今日に至るまで繰り返しこの物語が語り伝えられてまいりまし た。神はこのようにして、今もなお、恐れと不安やもろもろの迷信的な虚構 の支配からキリストの支配へと、喜びと平和の満ちあふれるキリストの支配 へと、私たちを招いてくださっているのです。

 
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