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「世の罪を取り除く神の小羊」

2002年1月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ1・29‐34

 私たちは毎週、礼拝において信仰告白を唱和し、私たちの信仰を言い表し ます。私たちは使徒信条において、ただ単に「我は神を信ず」と告白してい るのではありません。私たちはまた「イエスを信ず」と言い表しているので す。この一言がキリスト教信仰の輪郭を形成します。私たちは漠然と神を信 じるのではありません。同じように「神を信ず」という人々がいたとしても、 さらに「イエスを信ず」と言うかどうかで、そこに区別が生じるのです。そ れゆえ、私たちがイエスをどのように信じるかが決定的に重要になってまい ります。私たちがこの信仰に生きようとするならば、聖書がイエスという御 方について語る言葉に、真剣に耳を傾けなくてはなりません。今日の箇所も その一つです。聖書は私たちにあの御方を指し示してこう言うのです、「見 よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(1・29)と。

●メシアを待ち望んだ人々

 ヨルダン川におけるヨハネの洗礼運動が人々の注目を集めていた時、エル サレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わして、 「あなたはどなたですか」と尋ねさせました。少し前の19節に書かれてい ます。それに対して、ヨハネは「わたしはメシアではない」と公言しました。 「あなたはどなたですか」と問われて「わたしはメシアではない」と答える というやりとりは、私たちにピンとくるものではありません。メシア待望そ のものが私たちに身近かではないからです。しかし、当時の一般民衆にとっ て、メシアを待望する意識は、現実生活と深く結びついておりました。です から、力ある人物が現れると、もしかしたらこの人がメシアではなかろうか という噂が立つのです。それはヨハネについても同じでした。

 もちろん、当時の人々のメシア理解は様々でした。ある人々は単純に政治 的な解放者を待ち望んでいました。ローマの支配体制が打ち倒されること、 異邦人たちが滅ぼされることをひたすら望んでいた人々もいたことでしょう。 そのような様々な期待がすべてそのまま聖書において肯定されているわけで はありません。しかし、たとえそうであったとしても、彼らがメシアを待望 し続けてきたことを、私たちは決して低く評価してはなりません。なぜなら、 それは彼らが、少なくとも「自分たちは救われなくてはならない状態にいる 」ということを切実なこととして自覚していたことを意味するからです。自 分たちの現実の姿が、人間としても、神の民としても、本来あるべき姿では ないと認識していたから、神の救いを待ち望み、メシアを待ち望んだのです。

 既に諦めてしまっている人間は待ち望むことをいたしません。自分自身に ついても、この社会についても、「こんなものさ」と放り投げてしまってい る人は、救いを待ち望むこともないでしょう。真に待望する人、希望に生き る人となるには、二つのことが不可欠です。まず、自分自身についても、こ の世界についても、これは本来の姿ではない、本来あるべき状態ではないと いうことを真剣に受け止めることです。そして、第二に、決して諦めたり投 げやりになったりしないことです。私たちは、まず人間の現実を誤魔化さな いで、かつ諦めないで、しっかりと見つめるところから始めなくてはなりま せん。

●見よ、神の小羊だ

 さて、その上で、先のヨハネの言葉に目を向けてみましょう。彼は単純に、 「見よ、あの方こそあなたがたが待望していたメシアだ」とは言いませんで した。「世の罪を取り除く神の小羊だ」と言ったのです。ここに私たちが聞 くべきメッセージがあります。さて、「神の小羊」という言葉をもって、ヨ ハネは何を言おうとしていたのでしょうか。

 時は過越の祭が近づいていた頃でした(2・13)。過越祭というのは、 現在でも祝われているユダヤ人の祭りです。その祭りにおいて小羊が犠牲と して屠られます。ですから、ヨハネが語った「小羊」とは、まず過越の祭り において犠牲となる小羊を指していると考えてよいでしょう。

 過越の祭りが守られるようになったその由来については、詳しいことを申 し上げる時間がありません。聖書を一箇所引用して、大切なことだけを申し 上げます。出エジプト記12章21節から23節までをご覧下さい。

 「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、 家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取 り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。 翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を打つため に巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過 ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためであ る』」(出12・21-23)。

 イスラエルの民はエジプトの奴隷でした。彼らを解放するために、神はモ ーセを遣わされました。神はモーセを通して「わたしの民を去らせよ」とエ ジプト王に語ります。しかし、エジプト王はかたくなに拒み続けました。そ れゆえ最終的に神はエジプト全土に裁きを下されます。その際に神がイスラ エルの民に命じられたのが、先ほど読んだ言葉です。内容は単純です。羊を 屠って、その血を鴨居と入口の柱に塗ることを、神は命じられたのです。こ こで重要なのは「過ぎ越す」という言葉です。何が過ぎ越すのでしょうか。 神の裁きが過ぎ越すのです。イスラエルの民が良い人々であるから裁きが過 ぎ越すのではありません。神は羊の血を見られるのです。神の裁きは羊の血 をしるしとして、そこを過ぎ越すのです。このように、ヨハネが「見よ、神 の小羊だ」と言った時、それは神の裁きを過ぎ越させる犠牲の小羊を意味し たのです。

 しかし、これだけでは「世の罪を取り除く」という言葉が理解できません。 過越の犠牲には「罪を取り除く」という意味はないからです。そこで、もう 一箇所、イザヤ書53章6節から8節までをお読みします。

 「わたしたちは羊の群れ
  道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
  そのわたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
  苦役を課せられて、かがみ込み
  彼は口を開かなかった。
  屠り場に引かれる小羊のように
  毛を切る者の前に者を言わない羊のように
  彼は口を開かなかった。
  捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。
  彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか
  わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり
  命ある者の地から断たれたことを」。

 イザヤ書52章13節から53章全体にかけては、「苦難の僕の歌」と呼 ばれます。ここには一人の人物が屠られる小羊のように黙々と苦難を受け死 んでいく神の僕の姿が描かれています。その人が苦しむのは、その人自身の 罪のためではありません。「わたしたちの罪を主は彼に負わせられたのだ」 と歌われているのです。

 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とヨハネは言いました。「取り除 く」と訳されている言葉は、「担う」とか「運び去る」という意味の言葉で す。罪は水に流れません。罪は簡単には取り除かれません。誰かが代わって 担ってくださらなくては、運び去ってくださらなければ、罪は取り除かれな いのです。罪を代わりに担い、苦難の内に死んで行く、小羊のような一人の 人。ヨハネの言葉は、そのように罪を担う人を指し示しているのです。

 これがイエスという御方です。私たちの救い主は、まさに裁きを過ぎ越さ せた犠牲の羊であり、私たちの罪を代わりに背負い、屠り場に引かれ行く小 羊のように黙々と死んでいった、あのイザヤ書に描かれている神の僕に他な らないのです。

●私たちの救いのために

 先ほど、ユダヤ人のメシア待望について述べました。彼らは自分たちが救 われなくてはならない状態にあることを認識していたのだ、ということを申 しました。この国の多くの人において、その意識は極めて希薄であるかもし れません。しかし、考えてみますならば、その認識があろうとなかろうと、 現実は現実です。救いを必要としている人間の惨めな状態は、その現実から できるだけ目を背けていようと、それを何等かの形で誤魔化そうと、あるい は「どうせ人間なんてこんなものさ」と言って諦めようと、それで解決され るわけではないのです。そして、解決されていないなら、解決されていない という事実が暴露される時が来るのです。例えば私たちが人生の危機にさら された時、例えば病の床にあって自らの死と向き合うような時、自分が救い を必要としている惨めな状態にあり、その解決をなんら持ち合わせていない ことが明らかになるのです。

 私たちは最後まで自分自身を誤魔化し続けることはできません。私たちが、 誤魔化さないで、かつ諦めないで、自分自身とこの世とを見つめますときに、 その惨めな状態の根底に横たわっているのが、ここで語られている罪の問題 であることに気付きます。つまり、問題は私たちの置かれている境遇や周り の人々にではなく、私たちの罪にあるのです。真の悲惨は、私たちと神との 関係が壊れてしまっていることにあるのです。「道を誤り、それぞれの方角 に向かって行った」とイザヤ書に書かれておりました。神を離れ、神に逆い、 あるいは神を無視し、自分勝手に各々の道を進んでいることにこそ問題の根 があるのです。

 私たちは、そのような状態からこそ救われなくてはなりません。人間にと って最終的な救いとは、神との交わりが回復し、真実に神と共に生きるとこ ろにしかありません。そして、まさにそのために来られたのが「世の罪を取 り除く神の小羊」なる御方だったのです。私たちが真実に神と共に生きるた めに必要なのは、罪の赦しです。救いのために必要なのは罪が取り除かれる ことなのです。

 鴨居と柱に血が塗られた時、裁きは過ぎ越しました。私たちのために犠牲 の小羊となってくださったキリストの血によって、裁きは私たちをも過ぎ越 します。私たちに必要なのはキリストの血なのです。キリストを信じるとは、 キリストの血を塗られることに他なりません。神はキリストの血を見られま す。私たちはキリストの血のゆえに、もはや裁かれる者として神の前に立た なくてもよいのです。赦され、愛され、受け入れられた者として立てるので す。神と共に生きることができるのです。キリストが私たちの罪を担い、運 び去ってくださったからです。

 かつて植村正久は「『見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。この言葉を深 く味わったならば、一切の煩悶は残らず解決するだろう」と言いました。私 たちに与えられているこの言葉を真実に受け止め、味わい、そこに言い表さ れている恵みの内にこれからも共に生きていこうではありませんか。

 
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