「なぜ教会に十字架なのか」                       ヘブライ10・19-22  十字架は死刑の道具です。キリストは十字架にかけられて処刑されました。 教会は十字架にかけられた御方を宣べ伝えてまいりました。世の人から見れ ばまことに愚かなことを、キリスト教会は二千年の長きにわたって行ってき ました。どこの教会堂にも十字架がかかげられています。「なぜ教会に十字 架なのか。」これは最初の使徒たちの時代から今日に至るまで教会が語り続 けてきたテーマです。これが今日の説教題となっていますが、この一回の礼 拝において「なぜ?」の全てを取り上げられようはずもありません。私たち はいつものように一つの聖書箇所を共に読み、この箇所を通して主御自身が 十字架の意味の一面を明らかにしてくださることを願い求めたいと思います。 ●イエスの血によって  19節をもう一度お読みしましょう。「それで、兄弟たち、わたしたちは、 イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(10・19)。  ヘブライ人への手紙が書かれたのは大体紀元80年頃であると言われます。 既にエルサレムの神殿はありません。ローマの軍隊によって破壊されてしま いました。ですから、ここで「聖所に入れる」と言われているのは、エルサ レムの神殿の聖所に入れるということではありません。神に近づくこと、神 との交わりに入ることを意味します。著者はこの手紙全体を通じて、神に近 づくべきことを繰り返し語ります。22節の終わりにも、「信頼しきって、 真心から神に近づこうではありませんか」と勧めています。そして、その勧 めの根拠となることがらを、旧約聖書を引用しながら延々と説いているので す。  この手紙が書かれた頃、教会は既に大きな迫害を経験しており、なお様々 な困難の中にありました。キリスト者はそれぞれの試練の中に生きておりま した。そのような彼らに対して、この著者が語ろうとしているのは、「いか に苦難を切り抜けるか」ということではありません。「神に近づこうではあ りませんか」と語っているのです。  苦境から解放されること、背負っている重荷を取り除かれること、痛みや 悲しみが癒されることを私たちは求めます。求めて良いと思います。しかし、 それにもまして求めるべきことは、神に近づくことです。神との交わりに生 きることです。そのことなくして、私たちの存在の意味も、真の幸福も、苦 難に耐えさせる力も、最終的な救いも得られないからです。  では、人はどのようにして神に近づき得るのでしょうか。彼は言います。 それは「イエスの血によって」であると。この「血によって」ということを 理解するためには、少し時代を遡らなくてはなりません。モーセの時代まで 遡ることにしましょう。  出エジプト記25章以下には、延々と礼拝に関する規定が記されておりま す。イスラエルがエジプトから導き出された後、シナイ山で主がモーセに語 られる、という場面設定になっております。ここを読み始めたら、多くの人 は28章あたりで眠くなるに違いありません。それほど細々としたことが書 かれております。その最初に記されているのは幕屋の造り方です。礼拝の場 所をどのように作るか、その構造から材料に至るまで詳細な指示が与えられ ております。イスラエルの民にとって、神への近づき方、礼拝の仕方を徹底 して教えられることが重要であったということです。  礼拝についての考え方の基本は幕屋の造り方に現われております。幕屋は 三重構造になっております。一番外側には庭があります。そして、その内側 に聖所と呼ばれる部分があります。その聖所が、祭司たちの礼拝する場所で す。そして、聖所の奥に、垂れ幕によって隔てられた至聖所と呼ばれる部分 があります。この垂れ幕を越えることは、大祭司にしか許されておりません。 しかも何も持たずに入るわけにはいきません。ヘブライ人への手紙の9章に 次のように説明されています。  「以上のものがこのように設けられると、祭司たちは礼拝を行なうために、 いつも第一の幕屋(聖所)に入ります。しかし、第二の幕屋(至聖所)には 年に一度、大祭司だけが入りますが、自分自身のためと民の過失のために献 げる血を、必ず携えて行きます」(9・6-7)。  つまり特別に許された人だけが、しかも血を携えて初めて入れるのです。 罪ある者が至聖所に入るには贖いの血が必要なのです。罪を代わりに負って 死んでいく動物の血が必要なのです。  これらのことがらは何を意味しているのでしょうか。神はイスラエルの民 に、この幕屋の構造と祭儀を通して、二つのことを徹底して教えられたので す。第一に「神は聖なる御方であり、罪ある人間は近づくことができない」 ということです。第二に「神に近づき得るとするならば、贖いの血をもって 罪が赦されることによる」ということです。  罪に汚れた私たち人間が本来神に近づくことはできない、ということは、 言われてみれば当然のことです。罪の赦しなくして安易に近づくことのでき る神は、真の神ではなく、人の造り出した偶像にすぎません。人を殺すこと もできなければ生かすこともできない。人を裁くこともできなければ救うこ ともできない。それは偶像の神々です。私たちが近づくべき御方はそのよう な偶像の神々ではなく、私たちを裁くことができ救うこともできる生ける神 に他なりません。  ではどうしたらよいのでしょうか。私たちもまた動物の血を携えていくの でしょうか。聖書は言います。「わたしたちは、イエスの血によって聖所に 入れると確信しています」(19節)。つまり、私たちは神に近づくときに、 神を礼拝するときに、もはや動物の血を携えていく必要はないのです。キリ ストが既に完全な犠牲となってくださったからです。それがあの十字架の出 来事です。「(キリストは)雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の 血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを為し遂げられたのです」 (ヘブライ9・12)と書かれております。私たちが神に近づけるとの確信 は、ただキリストの血によるのです。他の何ものによるのでもありません。 ●開かれた道を通って  そして、さらに聖書は次のように語っています。「イエスは、垂れ幕、つ まり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてく ださったのです」(20節)。  この箇所を読みますときに思い起こされますのは、福音書に描かれていま すキリストの十字架の場面です。マルコによる福音書15章37節をお開き ください。次のように書かれております。「しかし、イエスは大声を出して 息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた 」(15・37-38)。  キリストの死にまつわる大変不思議な出来事です。ここで言われている神 殿の垂れ幕とは、先ほど幕屋のところで説明しました、至聖所を隔てている 垂れ幕に相当するものです。いわば聖なる神と罪ある人とを隔てていた垂れ 幕です。それがキリストの死とともに裂けたというのです。主イエスは神の 子であられるのに肉体を取られ人間となられました。そして、人間としての 肉体が十字架の上で裂かれて地上の生涯を終えられたとき、人と神とを隔て る垂れ幕も裂かれたのです。そのようにして、神に近づくことができる、新 しい生きた道が開かれたのです。  このように19節から20節、さらに22節までを読みますと、聖書が私 たちに示している一つのイメージが明らかになってまいります。古代の礼拝 の姿を通して、私たちが神に近づくということはどういうことであるかを明 らかにしているのです。  私たちは聖所に入っていきます。ここで「聖所」と呼ばれているのは、先 に述べた「至聖所」のことです。すなわち、私たちは垂れ幕で仕切られてい た場所に入っていくのです。すなわち、私たちは本来近づきえない御方に近 づいて行くのです。それが礼拝であり、祈りです。そして、かつて大祭司が 雄羊と雄牛の血を携えていったように、私たちもまた見えざるキリストの血 を携えて神に近づきます。キリストの血潮による罪の赦しなくして、罪人で ある私たちは神に近づき得ないからです。そして、私たちが聖所に入ってい くのは、キリストが開いてくださった道を通ってです。そこにあったはずの 垂れ幕は引き裂かれてしまいました。それは十字架において裂かれたキリス トの体です。私たちは裂かれたキリストの御体を通って、開かれた見えざる 道を通って、神に近づくのです。  そして、血を流してくださった御方は復活され、偉大なる祭司として仕え ていてくださいます。私たちのために主イエスが執り成していてくださるの です。そこで私たちはもはや良心のとがめによって苦しむ者ではありません。 特にこの大祭司のもとにおいて授けられる、「洗礼」という聖礼典が、見え る形でこの恵みを表わしています。「心は清められて、良心のとがめはなく なり、体は清い水で洗われている」(22節)と書かれているとおりです。 それゆえ、聖書は私たちに次のように力強く勧めるのです。「信頼しきって、 真心から神に近づこうではありませんか」と。  ヘブライ人への手紙の著者は、様々な迫害と試練の中にあって苦しむ人々 に、神に近づくようにと勧めます。神に近づくところに真の救いがあるから です。「なぜ教会に十字架なのか」。十字架にかけられたキリストによって、 私たちは初めて神に近づき得ると信じるからです。そして、そこにこそ真の 救いがあると信じ、その救いを宣べ伝えているからであります。