説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「幸いなるかな」

2002年2月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイ5・1‐12

 「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」 (5・3)。これが今日、私たちに与えられている御言葉です。

 マタイによる福音書の5章から7章にかけて、主イエスが山の上でされた 説教が記されております。「山上の説教」などと呼ばれます。その冒頭にお いて語られているのが、九つの祝福の言葉です。あるいは11節と12節を 除いて「八福の教え」などとも呼ばれます。今日は特にその第一の言葉を心 に留めたいと思います。

 これに類似する言葉はルカによる福音書6章20節以下に見られます。そ れは平野で語られたことになっているので「平野の説教」と呼ばれます。平 野の説教においては、若干言葉が異なります。「貧しい人々は、幸いである、 神の国はあなたがたのものである」(ルカ6・20)となっているのです。 「貧しい人々」にせよ、あるいは「心の貧しい人々」にせよ、そのような人 々を「幸い」と呼ぶことは、いささか奇妙に聞こえます。この言葉は私たち にとって何を意味するのでしょうか。

●弟子たちと群衆

 その言葉について考えます前に、私たちはまず、この場面を思い描いてみ ることにしましょう。主イエスの周りに大勢の群衆が集まっていました。彼 らは、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側 からイエスに従ってきた人々です。彼らの多くは、4章24節に書かれてい るように、いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てん かんの者、中風の者などであったと思われます。主は彼らを見て、山に登ら れました。そして、腰を下ろして口を開き、語り出されます。それが今日お 読みした場面です。

 注意深くここを読みますと、主の御前において、ある種の区別が存在して いることに気付きます。主は、集まってきた苦しみ悩む全ての者たちに語ら れたのではありません。「腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た 」(1節)と書かれております。そして、新共同訳には現れておりませんが、 2節には「そこで、イエスは口を開き、《彼らに》教えられた」と書かれて いるのです。つまり、主は直接的には「弟子たち」、すなわち、群衆とは区 別された弟子たちに語られたのです。

 これはルカによる福音書ではもっと明瞭になっています。次のように書か れているのです。「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」(ル カ6・20)。そして、「神の国は《あなたがたのもの》である」と直接的 に語られているのです。

 主イエスを取り巻く二重の輪が見えてきましたでしょうか。内側に主イエ スに近づいた弟子たちがいます。主は彼らに語られます。弟子たちは、主イ エスの語りかけを、自分自身への語りかけとして聞いております。その外側 に、群衆がいます。群衆は自分自身への語りかけを聞いているわけではあり ません。弟子たちに語られる言葉を「教え」として聞いております。聞いて その言葉を客観的に評価します。そして、その言葉に反応します。群衆はど のような反応を示したでしょうか。「山上の説教」の最後の部分には次のよ うに記されております。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆 はその教えに非常に驚いた」(7・28)と。彼らは驚いたのです。それ以 上でもそれ以下でもありません。

 このような映像を思い描きます時に、私たちはまず考えざるを得なくなり ます。私はどこに位置しているのだろうか、と。主イエスの言葉に魅力を感 じたり、感心したりすることはあるかも知れません。主イエスの言葉に驚嘆 することもあるかも知れません。しかし、大事なのは私たちが主イエスの言 葉をどう評価するかではありません。私たちがその言葉を自分への語りかけ として聞いているか否かということです。私は主イエスの正面に座っている のでしょうか。それとも、外から眺めながら聞いているのでしょうか。私た ちは弟子の位置にいるのでしょうか。それとも群衆の位置にいるのでしょう か。私たちはまず自らにそのことを問わねばなりません。

●貧しい弟子たち

 では、主の御言葉そのものに向かうことにしましょう。「心の貧しい人々 は、幸いである、天の国はその人たちのものである」(3節)。

 貧しいということは欠乏しているということです。それは他者によって満 たされなくてはならないことを意味します。貧しければ他者に乞わなくては なりません。頭を下げて、「憐れんでください」と言わなくてはなりません。 憐れみを乞わざるを得ない人は幸いでしょうか。私たちは通常そうは考えま せん。しかし、主は私たちの常識を覆されます。幸いなのは憐れみを乞う必 要のない人ではなくて、頭を下げて憐れみを乞わざるを得ないような人だと 主は言われるのです。

 それはそれで、主イエスの周りに集まった人々にとっては有り難い言葉で あったに違いありません。なぜなら、確かに主イエスの周りにいた群衆は貧 しい人々であったからです。彼らの多くは、経済的にも、健康的にも、精神 的にも欠乏の極みにあった人々でありました。実際に物乞いをして生活して いた人々もいたことでしょう。「憐れんでください」は彼らの日常の言葉で あったかも知れません。そのような彼らにとって、この主の言葉はなんと慰 めに満ちた言葉でしょう。

 しかし、先にも申しましたように、主イエスの言葉は、直接的には、その ような群衆に語られた言葉ではないのです。弟子たちに向けられているので す。主イエスの言葉を、自らへの語りかけとして聞いている弟子たちに、こ の「幸いである」は語られたのです。なぜ「弟子たち」なのでしょう。それ は遅かれ早かれ、彼らこそ自らの恐るべき根元的な貧しさと向き合わなくて はならないからです。

 弟子たちは、ただ「幸いなるかな」を聞くだけではありません。その先に 続く主の言葉があるのです。この5章から7章だけでも通して読んでみてく ださい。これを立派な道徳的な教えであると思っている人がおりますが、と んでもないことです。どう考えても、万人に適用されるべき普遍的な道徳で はありません。これらの言葉は、あくまでも主イエスの言葉を自らへの語り かけとして聞く人への言葉、弟子への言葉なのです。

 例えば、13節以下に次のような言葉が続きます。「あなたがたは地の塩 である」「あなたがたは世の光である」。このような言葉は、外から眺めて いる限りにおいては、美しい良い教えで済むのです。しかし、これを自分に 対する語りかけとして聞くならどうでしょう。私たちが主イエスによって、 実際に地の塩として、世の光として生きる人生へと引き出されるとするなら どうでしょう。「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。 人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるよ うになるためである」などと語られたらどうでしょう。たちまち、私たちは 窮地に立たされることになります。私たちの内には良きものが何もないこと に気付くからです。私たちは自分自身の貧困さ、さらには自分自身のどうに もならない罪深さと対面せざるを得なくなるのです。

 さらに私たちが主イエスの次のような言葉を聞くとしたらどうでしょう。 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。最も身近 な者さえ真実に愛することができないのに、いったいどうやって敵を愛した ら良いのでしょうか。私たちの心のどこを捜したら、そのような愛があると 言うのでしょうか。外から眺めている間は「愛の教え」に感動していられま す。しかし、自分に語りかけられたら、たちまち私たちは自分自身の愛の貧 困さと向き合わなくてはならなくなるのです。

 しかも困ったことに、これは《主イエスの言葉》なのです。口先だけの厳 しい教師の言葉なら、痛くも痒くもありません。偽善者呼ばわりして斥ける こともできるでしょう。「理想的ではあるけどね」と言って笑い飛ばすこと もできるでしょう。しかし、これは主イエスの言葉なのです。「あなたがた は世の光である」と言われた方は、自ら「わたしは世の光である」と語られ た方です。そして、そのように生きられ、そのように死なれた方です。敵を 愛しなさいと言われた方は、自ら敵を愛された方です。自分を十字架につけ た人々、罵り、嘲っている人々を愛し、彼らのために執り成し祈られた方で す。そして、復活されたキリストは、今も御自分の体である教会を通して、 罪にまみれたこの世界を愛の内に招いておられるのです。私たちは、この御 方と向き合い、この御方の語りかけを自らへの語りかけとして聞き始めるな らば、たちまち私たちは恐るべき根元的な貧しさを自覚せざるを得なくなり ます。私たちは天に向かって叫ばざるを得なくなるのです。「主よ、わたし を憐れんでください」と。

 いったい誰が好きこのんで自分の貧しさなど認めたいと思うでしょう。私 たちは元来、貧しい自分など認めたくないのです。「憐れんでください」な どと言いたくないのです。だから、群衆の位置に身を置いておく方が気が楽 なのです。いっそのこと、主イエスのもとを立ち去ってしまう方が気が楽で あるかも知れません。そこでは、自分の貧困さと向き合う必要もないでしょ う。それなりの善人でいられるかも知れません。他の人から親切だと言われ、 感謝され、喜ばれる人間でいられることでしょう。そのような自分自身を喜 んでいることができるかも知れません。そのほうがよほど幸せではないでし ょうか。自分の貧しさを認めて生きるより、よほど幸せではないでしょうか。

 いいえ、そうではないのです。主は言われるのです。「心の貧しい人々は、 幸いである。天の国はその人たちのものである」。自らの貧しさに嘆かざる を得ない人に対してこそ主は言われるのです。そのように、自分は最も天の 国から遠いと思っている人に対してこそ、主は言われるのです。「幸いなる かな!天の国はあなたたちのものだ」と。

 貧しい人は求めます。求めざるを得ません。求めなくては生きていけませ ん。だから神に求めます。神に依りすがるしかありません。一生、神に依り すがって、神の恵みに依りすがって生きていかなくてはなりません。「主よ、 憐れんでください」と一生言い続けながら生きなくてはなりません。しかし、 そのような貧困の極みにおいてこそ、人は天の御国を経験するのです。その 人にとって、天の御国は単に将来の希望ではありません。神は生きておられ、 その神が関わってくださり、恵みと命の支配のもとに生かしてくださること を、今この世界において経験するのです。  「心の貧しい人々は、幸いである、天の国は彼らのものである」。アーメ ン。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡