台湾基督長老教会 陳天賜宣教師説教

         「団 体 の 力」

                         マルコ2・1‐12

 皆さんも本や劇で演出されたドラマを見たことがあると思います。それぞ
れの役がちがいます。ある人は主役で、ある人は脇役です。ドラマはたった
一人ではできません。物語をドラマで充分表現する為には、大勢の脇役が必
要です。役の大きい小さいは問題ではありません。どの役もとても大切なも
のです。私達の人生はまるでドラマのようだと言われます。自分に当たった
役は欲しくないし、他の人の役を妬むこともあります。台湾のことわざで言
うと、「人と較べると、死ぬほど腹立つ」と言うことです。

 キリスト者の持つべき考えは、神様から頂いた賜物は大小ではなく、それ
ぞれ違うが必要だ、ということです。責任を持って果たすならば神様が認め
てくださるのです。マタイ25・14‐30の例え話のように、五千タラン
トン貰った僕と二千タラントン貰った僕はともにそれぞれの責任を果たした
ので、主人は「忠実な良い僕だ。よくやった」と同じのように誉めたのでし
た。人生においては、頂いた役が望ましくなくても、神様や社会に認められ
るように、完全に責任をもってまっとうすることが大切です。

 キリスト者として私達は、普通の人よりもっと責任感を持つべきではない
かと思います。キリスト者は、二つの身分を持っているのです。それは社会
の民としての身分と神の国の民としての身分です。神様はキリスト者に両方
の責任を担うように期待しています。また、この両方の身分には関連性があ
ります。神様を真実に愛さなければ、人々に本当に愛す事はできません。逆
に言うと、人々を愛していなかったら、神様をどういう風に愛するのかわか
りません。1ヨハネ4・20には、「『神を愛している』と言いながら兄弟
を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目
に見えない神を愛することが出来ません。神を愛する人は兄弟をも愛すべき
です、これが、神から受けた掟です」とはっきり書いてあります。神様に対
する信仰は、真理を理解し、その真理を信じ、更にその真理を実践すべきで
す。神様の真理を実行することが出来なければ、キリスト者は、全世界を救
おうとする神様のご計画に協力する責任を負っているとは言えません。

 今日の聖書箇所の主役は他の人に手伝ってもらわなければならない中風の
人です。他の人のように生活が出来ません。通常、成長すれば自立生活をし
なければならないのですが、体の不自由な人にとっては難しいこともあるか
もしれませんし、ある人は失望あるいは屈辱を経験するかもしれません。健
康な人たちは、この人達の大変な環境を助けるべきではないかと思います。

 この可哀想な中風の人は、悲しみが絶えることない状態です。彼の人生は
困難も多く、思うようにいかないこともありますが、生きたいという願いは
人類共通のものです。彼はイエス様が奇跡や救いを行われると聞きましたが、
目の前でイエス様を見ることが出来ませんでした、幸いなことは、彼を助け
てくれる四人の男がいたことです。

 四人の男の力でこの不幸な人を助けたその行動は、団体行動でした。皆の
力で心を一つにして完成することが必要です。四人の男が心を一つにして、
異なった考えや自己中心な思いを取り除いてしまわなければ、目的を達成す
ることは不可能であったことでしょう。この人たちは友達を助けると決心し
ましたが、群衆に阻まれて、直接イエス様の前に運ぶことができませんでし
た。このような問題は私達の人生にも起こり得ます。理想やビジョンはさま
ざまな現実の問題によって妨げられます。特に神に奉仕しようとするとき、
同じように起こり得ます。

 「群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので」
と書かれています。目的は群衆に阻まれましたが、四人の男達の意志は消え
ませんでした。意志が強ければ強いほど人生の目的を達成する重要な力にな
っていきます。キリスト者は教会での奉仕の時にも、このような信仰を必要
としているのではないでしょうか。教会は伝道の活動を行うとき、色々な問
題に出会うとき、すぐに理屈をつけて、消極的な考えを持って、その活動を
やめてしまいます。問題が起こったからと言って、やめてしまっていいので
しょうか。人々は神の国の福音を必要としていないのでしょうか。伝道には
絶対的唯一な方法などありません。伝道の目標を達するのにいろいろ適切な
方法があるのです。神様の国は豊かなので、私達のせまい視野で神様の豊か
さを制限しないようにしましょう。妨げられたこの四人の男は、最後に「屋
根を壊す」という決定をしました。この行動はちょっと乱暴、不合理と見ら
れるかもしれませんが、大切な目的を達成するためにはこのような決断が必
要です。福音は私達の生活や文化と出会ったとき、対立や革命引き起こすこ
ともあり得るのです。そのような時には信仰と勇気の決断が必要となります。

 キリスト者の皆さんが覚悟しなければならないことは、私達と神様の間で、
しばしば様様な妨げが生じるということです。私達が恵みを頂く時に、試練
に遭うことも起こってきます。だから信仰によって戦い、主の御前に悔い改
めてやり直していくことが大事です。

 今日の社会は、いろいろな問題が起こっているので、改革の声がいよいよ
大きく叫ばれています。ここに私達には、社会の制度が完全なものではない
ことを知る事ができます。では神の名で設立された教会は完璧でしょうか。
教会の歴史には、否定できない腐敗の事実が記されているのです。イエス様
も汚れてしまった神殿で商売人達を大声で叱り、商売の台などをひっくりか
えされました。今の教会は昔より十分良くなったのでしょうか。イエスさま
を信じる者はバプテスマを受ける前だけ、罪を悔い改めればそれでいいので
しょうか。キリスト者になれば生活の中では、絶対罪を犯さないでしょうか。
もし、もう犯すことがないのだとすれば、罪の悔い改めの詩編を、毎週交読
をする意味がありますでしょうか。

 伝道の使命を果たそうとするとき、霊的な妨げがあります。それらの妨げ
はそのまま除かなければ段々芝生のように増えてしまうのです。だから、信
仰生活において躓いてしまわないように、いろいろな妨げに直面するとき、
勇気を出して突破しなければ、キリスト者の使命を達成する事は出来ません。

 中風を運ぶ四人の男達は、群衆に阻まれたので、イエスがおられる辺りの
屋根をはがして穴をあけて中風の人の床をつり下ろそうと決定したのです。
このような乱暴な行為は現代では、許されない行為だと思いますが、彼らは
情熱をもって信仰の行いをすることがどれほど大切であるかを私達に示して
います。この行動は今日の教会に特に欠けている積極的な行動ではないかと
思います。  

 教会が設立された目的は人々をイエスさまの御前に連れてくることではな
いでしょうか。現実には教会にも色々な問題があって、それが神様と私達の
あいだで隔てて、正しい関係が保てなくなってしまっている状態です。神様
は全世界の人々を救おうとはっきりと望まれていますが、私達キリスト者、
教会は、このままマイペースで進んで行ってよいものでしょうか。

 主イエス様がこの四人の男の深い思いを知られて、彼らとこの中風の人と
の信仰を認めて、不幸な中風の人を癒されました。この四人の力が、中風の
人をイエスさまの御前に来ることを可能としました。そして、四人の男達の
心と汗は、病人がイエスに癒されるという素晴らしい結果をもたらしたこと
を、聖書は私達に示しています。そして、イエス・キリストの罪の赦しと病
いの癒しの力を表わしています。

 教会の働きは一人だけで進められるものではなく、団体の協力が必要なの
です。神様が私たちと教会に望んでおられる事は、エペソ4章の中に書かれ
ているとおりです。「しかし、私たち一人一人に、キリストの賜物のかりに
従って、恵みが与えられています」(7節)、「そして、ある人を使徒、あ
る人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。
こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り
上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識におい
て一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさ
になるまで成長するのです」(11‐13節)。

 使徒もいるなら、預言者もいるし、福音者、牧者または教師などがおりま
す。キリストの体を造り上げるために、聖なる者達は奉仕の業に適した者と
されるのです。教会の牧師の大事な奉仕仲間は役員と教会員の皆さんです。

 モーセはイスラエル民族とアマレク民族との戦いの時、手を上げて祈りま
した。手を上げたらイスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢
になりました。モーセの手が重くなったので、アロンとフルはモーセの両側
に立ってモーセの手を支え、最後にこの戦いを勝ちました(出17・10‐
13)。教会は生き生きとして有機的な神の群です。成長すべきですし、ま
た繁栄すべきです。教会は神の家族の共同体です。団体で奉仕するのは当然
の原則です。教会員の一人一人を奉仕が出来るようになるまで訓練すべきで
す。一人だけでするのなら間に合わないし、終わらないのです。

 教会には神の家族を造ろうという強い願いが有ります。そして、子供達も
また教会奉仕ができたらいいと望んでいますが、まず大人達からしなければ、
彼らの模範となることができません。子供達にどのように教えたら良いのか
を心配する必要はないと思います。見て聴くだけで充分です。社会で話題に
なっているのは子供たちの行為です。ある学者は、研究の結果「大人の責任
だ」と言いました。誰でも子供に悪い事を教えたくないと思っているでしょ
うが、大人の悪い癖を子供たちは毎日まねているのです。教会の奉仕とは狭
い意味で言うと教会堂内で定められた礼拝の奉仕とか掃除の当番などです。
広い意味で言うとそれは、真理を生活の中に適用すること、人々に信仰を証
しし、分かち合い、伝道などをすることも含まれます。

 今日の教会は、神の愛があふれる具体的な共同体を築いていかねばなりま
せん。けれども、犠牲的な愛、互いに協力しあう心、信仰の勇気をもって大
胆に主に仕えていくのでなかったら、主の心を悲しませてしまう一方ではな
いでしょうか。

 信仰とは挑戦し、冒険することです、四人の男達は中風の友達を助けよう
としたが群衆に阻まれました。けれども、四人の男は屋根をはがして穴を開
けたのです。これは冒険的な行動です。神様が人々を救うための御業を教会
に与えておられるのですから、色々難しいことがあったとしても、信仰によ
って挑戦すべきではありませんか。

 神の家族を形成するにあたって、教会の役員や会員の皆様は牧師の強力な
助け手です。大人も子供もこれからもっともっと生き生きしている神の家族、
また共同体になってほしいと思います。最後にエフェソ4・15‐16をお
読みして終わりたいと思います。

「むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向
って成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合
うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分に
応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」