「悪魔の誘惑」                          マタイ4・1‐11  「さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の 子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信 仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに 同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わ たしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあ ずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこ うではありませんか」(ヘブライ4・14‐16)。  キリストは私たちと同じように試練に遭われました。「試練に遭う」とい う言葉が、本日の聖書箇所にも出てきます。ここでは「誘惑を受ける」と訳 されております。キリストは誘惑を受けられ、試練に遭われました。それは もちろん、メシアとして受けられた特別な試練であります。しかし、それは 同時に、「わたしたちと同様に」受けられた試練でもあるのです。 ●誘惑に屈したイスラエル  悪魔は主イエスに言いました。「神の子なら、これらの石がパンになるよ うに命じたらどうだ」(3節)。これが第一の誘惑です。これに対して、主 は申命記からの引用をもって次のように答えます。「『人はパンだけで生き るものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」 (4節)。主イエスの答えから、悪魔の第一の誘惑の本質が分かります。そ れは「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という真理から人を引 き離す誘惑であります。  主イエスが引用しました申命記には次のように書かれております。「あな たの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうし て主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒 めを守るかどうかを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あな たも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生き るのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあな たに知らせるためであった」(申命記8・2‐3)。  かつて神はモーセを用いてイスラエルの民をエジプトから導き出されまし た。そして、神はイスラエルの民を荒れ野へと導かれます。荒れ野には食物 がありません。イスラエルは飢えました。そこで神は飢えた民にマナを与え られました。しかし、逆説的ですが、神がマナを与えたのは、イスラエルの 民に、人はマナだけで生きるのではない、パンだけで生きるのではない、と いうことを知らせるためだったのです。人は神の言葉によって生きるのです。 それゆえ、神はマナを集めることについて条件を付けられました。「毎日必 要な分だけ集める」ということでした。二日分集めてはならないのです。た だし、安息日の前日だけは二日分集めてよい。その代わり、安息日には集め ようとしてはならない。それが神の言葉でした。彼らは、神に信頼し、神の 言葉に従って生きることを求められたのです。  しかし、彼らは神の言葉によって生きようとはしませんでした。イスラエ ルの歴史は、まさにパンのために神の言葉を放棄するという歴史となりまし た。彼らは国家の滅びに至るまで、「人は主の口から出るすべての言葉によ って生きる」ということを悟りませんでした。このように、主イエスが受け た悪魔の誘惑は、かつてイスラエルが陥った誘惑に他なりませんでした。  第二の誘惑も同様です。悪魔は主イエスを神殿の屋根の端に立たせて言い ました。「神の子なら、飛び降りたらどうだ。『神があなたのために天使た ちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは 手であなたを支える』と書いてある」(6節)。これに対して、主は次のよ うに答えられました。「『あなたの神である主を試してはならない』とも書 いてある」(7節)。このように、悪魔の第二の誘惑は、主を試みることへ の誘惑でありました。  主イエスが引用されたのは申命記です。その節全体では次のようになって おります。「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、 主を試してはならない」(申命記6・16)。マサでイスラエルは何をした のでしょうか。そこには民の飲み水がありませんでした。人々は渇きに苦し みます。彼らはモーセに「我々に飲み水を与えよ」と言いました。「なぜ、 我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇き で殺すためなのか」と不平を言ったのです。そこで主はモーセに言いました。 「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打 て。そこから水が出て、民は飲むことができる」(出エジプト17・6)。 こうして飲み水は与えられました。しかし、聖書は次のように続けます。 「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエル の人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モ ーセと争い、主を試したからである」(同17・7)。これがマサでの出来 事です。  「我々に飲み水を与えよ」というのは、「奇跡を起こして水を出せ」とい う要求です。既に、彼らは神の奇跡を数々経験してきました。苦くて飲めな い水を飲み水に変えられたこともありました(出15・25)。飢えた時に はマナが与えられました。しかし、いくら神の御業を経験しても、彼らは神 に信頼して生きるようにはなりませんでした。むしろ、「果たして、主は我 々の間におられるのかどうか」と言ってさらに奇跡を要求し、神を試すよう になったのです。  試練の中に置かれる時、試されるのは本来人間の側です。そこで信仰が問 われているのです。神への従順が問われているのです。神から離れているな らば、求められているのは悔い改めです。しかし、人は試される側、問われ る側に身を置くことを良しとしません。神を試みる側に立とうといたします。 神に立ち返り、神に信頼して生きるのではなく、神に愛と臨在の証拠を要求 するのです。「神はおられるのか。もしおられるならその証拠を見せてみろ 」と言い出すのです。ここにイスラエルの陥った誘惑がありました。  第三の誘惑も同様です。悪魔は主イエスを非常に高い山に連れて行き、世 のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言いました。「もし、ひれ伏してわ たしを拝むなら、これをみんな与えよう」(9節)。これに対して、主は答 えられます。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕え よ』と書いてある」(10節)。  主が引用したのは申命記6章13節です。その前後までを含めて引用しま すと、そこには次のように書かれております。「あなたをエジプトの国、奴 隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、 主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸 国民の神々の後に従ってはならない」(申命記6・13‐15)。ここから 分かりますように、この誘惑は、単にサタンを拝むことへの誘惑ではありま せん。主のみを拝むこと、主のみに仕えることから引き離す誘惑であります。 これもまた、イスラエルの民が陥った誘惑でありました。イスラエルの歴史 は、彼らを救い給うた主に背き、他の神々を追い続けた歴史でありました。 ●誘惑に打ち勝たれたキリスト  しかし、これらの試練と誘惑はまた、イスラエルのみならず、ヘブライ人 への手紙やマタイによる福音書が書かれた頃の教会や今日の教会にも共通す る経験であります。  初代の教会を考えてみてください。もともとユダヤ教の一派として見なさ れていたキリスト教会は、やがてユダヤ人のコミュニティから切り離されま す。ユダヤ人キリスト者たちは村八分です。生活必需品も手に入れることが 困難になります。たちまちパンの問題が生じます。パンの欠乏は神の言葉か ら人を引き離すかもしれません。事実、ヘブライ人への手紙を読みますと、 共に集まって礼拝をすることを止めてしまった人たちがいたようです。彼ら はまさに、「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と言い得る かどうかを問われることになったのです。  今日の私たちはどうでしょう。必ずしもそのような迫害を経験しているわ けではありません。しかし、誘惑の本質は同じです。困難が生じる時、困窮 の中に置かれる時、私たちは「こんなときに信仰どころではない、御言葉ど ころではない、礼拝どころではない」と言い出さないでしょうか。そこでも やはり「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と言い得るかど うかが問われるのです。第一の誘惑は身近です。  また、初代の教会においては、使徒言行録に見るように、著しい奇跡とし るしの業が行われておりました。しかし、奇跡が必ずしも主への信頼を生み 出すとは限りません。むしろ、主を試すことへの誘惑が起こってきたに違い ありません。それは今日の私たちにおいても同じです。いくら神の御業を体 験しても、いざとなったら自らの信仰が問われていることを忘れ、神を試す 側に身を起き始めるかもしれません。そして、自分の願うようにならなけれ ば神に背を向けて、「神も仏もあるものか」などと口走るようになるかも知 れません。第二の誘惑も身近です。  また、初代の教会はやがて皇帝礼拝の強制という厳しい試練のもとに置か れることになりました。そうでなくても、異教社会のしがらみの中にあって、 この世の力と繁栄を得るためには、神ならぬものを礼拝することをも良しと しなくてはなりません。その誘惑は大きかったと思います。それは今日の私 たちにおいても同じであろうと思います。主を礼拝し、主にのみ仕えるとい うことを犠牲として、他の何かを得ようとする誘惑は、悪魔の第三の誘惑と して、いつも私たちの身近にあるではありませんか。  しかし、今日、私たちは荒れ野で悪魔と戦っておられるキリストに目を向 けるようにと導かれているのであります。かつてイスラエルの陥った誘惑、 そして後の教会もまた受け続けることになる誘惑のただ中に、キリストは自 ら身を置いてくださったのです。そして、主イエスは悪魔の誘惑に打ち勝た れました。この荒れ野での勝利は象徴的です。それは主がその御生涯におい て、そして十字架と復活において、悪魔に対する完全な勝利をおさめられる ことを指し示すものでありました。  この御方こそ私たちの主であり、私たちの大祭司なのです。そして、聖書 は私たちにこう勧めているのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同 情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わた したちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあず かって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこう ではありませんか」と。