説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「永遠の命に至る水」

2002年3月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネ4・1‐30

 主はサマリアの女に言いました。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水は その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4・13‐ 14)。これが今日、私たちにもまた与えられている御言葉です。ここには 三つのことが語られております。

●この水を飲む者はまた渇く

 主は「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と言われました。「この水」 とは、そこにあった井戸の水のことです。すなわち、私たちが日々口にする 水と同じです。その水を飲んでも再び渇くことは誰でも知っています。過度 の渇きが死をもたらすことも知っています。ですから、人は繰り返し水分を 補給しなくてはなりません。主が語りかけたサマリアの女は、その井戸まで 水を汲みにきたのでした。水を汲みにくる作業は重労働であったと思います。 しかし、彼女は繰り返し水を汲みに来なくてはなりません。「この水を飲む 者はだれでもまた渇く」からです。

 今日の聖書箇所には、それが「ヤコブの井戸」であったと記されておりま す。彼らの先祖ヤコブに関する言い伝えがそこにあったことが分かります。 その井戸は、その信仰の先祖ヤコブにまつわる、いわば特別な聖なる井戸で ありました。彼女は、もしかしたらその特別な井戸から汲むために、わざわ ざ遠くから来ていたのかも知れません。しかし、それがどれほど特別な井戸 であっても、また彼女が特別な水であると見なしていたとしても、その水は この世の他の水と変わりません。この世の水ならば再び渇きます。「この水 を飲む者はだれでもまた渇く」のです。

 また、人が経験する渇きは、単に肉体的な渇きだけではないことを、私た ちは知っています。ここ数年、「いやし」ということがしきりに語られるよ うになりました。「いやしグッズ」が売られ、「いやし系音楽」が聴かれま す。あるいは「いやし系女優」などという言葉も耳にします。肉体的な渇き があるように、精神的な渇きというものがあります。この世の生活の中で、 私たちの心はしばしば傷つき荒れ果て、干涸らびてカサカサになってしまい ます。そのような心には、傷をいやし渇きを潤す何かが必要であると多くの 人々が感じております。しかし、なんらかの癒しが、ある人とってヤコブの 井戸の水のように特別なものであっても、その人は再び渇きます。それもま た事実です。

 このサマリアの女は、通常人が水を汲みに来る朝夕ではなく、昼の暑いと きにやってきました。人目を避けてでしょうか。彼女には五人の夫がいたよ うです。そして、今連れ添っているのは夫ではないと、主イエスに言い当て られました。まさか五人の夫とすべて死別したわけではなかろうと思います。 なんらかの理由で繰り返し結婚が破綻したのでしょう。どちらに問題があっ たのかは定かではありません。しかし、この人が結婚を繰り返したというこ とは事実です。人が結婚する時、そこには少なくとも何らかの求めと期待が あるものです。このサマリアの女にもあったと思います。しかし、その求め は満たされ続けることはありませんでした。彼女は求め、満たされ、再び渇 くということを繰り返してきたのです。

 彼女のように五回も結婚を繰り返す人は稀であろうと思います。しかし、 私たちは皆、ある意味では似たようなことをしているのではないでしょうか。 求め、満たされ、再び渇く。私たちはそれを繰り返します。あるいは、ヤコ ブの井戸の水で渇いたら、次はイサクの井戸の水を求めるかも知れません。 そのように次から次へと求める対象が変わることもあるでしょう。しかし、 主は言われるのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く」と。

●わたしが与える水を飲む者は渇かない

 そして、主は続けてこう言われました。「しかし、わたしが与える水を飲 む者は決して渇かない」。

 主イエスが与える水とは何でしょうか。それは10節において「生きた水 」と表現されています。「生きた水」というのは、ユダヤ人の間で一般的に 使われていた表現です。それは溜めてある水ではない、流れている水を意味 しました。泉から湧き出て、小川を流れくだっているような水のことです。 ですから、このサマリアの女は「どこからその生きた水を手にお入れになる のですか」(11節)と問いました。もちろん、主はそのような流れている 水のことを言ったのではありません。主は真に命を持っている水、命をもた らす水について語っているのです。14節にあるように、「永遠の命に至る 水」について語っているのです。

 問題は「命」に関する事柄です。主が関心を向けておられるのは、単なる 肉体の渇きではありません。先に触れたような精神的な渇きですらありませ ん。それはなお表面的なものです。主が問題にしているのは、根元的な命の 枯渇です。この女の人の不幸は、暑い真昼に水くみの労働をしなくてはなら ないことにあるのではありません。この人が結婚と離別を繰り返してきたこ とにあるのでもありません。命が枯渇していることにあると主イエスは見て いるのです。だから生きた水について語られたのです。

 命の枯渇とは何でしょうか。かつて預言者エレミヤはこう言いました。 「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨て て、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを 」(エレミヤ2・13)。つまり、命の枯渇とは、命の源である神との生き た交わりを失っていることに他ならないのです。それは生ける水の源を捨て て、自分のこわれた水溜を掘っているようなものです。それがかつてのイス ラエルの民の問題でありましたし、このサマリアの女の問題であり、そして 現代のこの世界の問題でもあるのです。

 であるからこそ、「わたしが与える水」と語られた、この「わたし」が重 要になってくるのです。私たちは「何を求めるか」ということに関して一生 懸命です。現代人はその「何か」を求めて必死です。しかし、本当に重要な ことは「誰に求めるか」ということなのです。主はこのサマリアの女に言い ました。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてく ださい』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその 人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたであろう」(10節)。

 声をかけられたのは主イエスの方からでした。主が低くなられて、彼女に 「水を飲ませてください」と言ったのです。しかし、そのように近づいて来 られた御方こそ、彼女が生ける水を求めるべき御方でありました。彼女はた だ知らなかっただけなのです。神の賜物を知らず、そこにおられるのが誰で あるかを知らなかっただけなのです。

 キリストは今もなお、御自分の体である教会を通して、この世界に関わら れます。人々に近づいて来られ、その人生に入り込まれます。そのようにし てキリストが近づいて来てくださったからこそ、私たちも皆こうしてここに いるのです。求めるべき御方は近くにおられます。そして、あのサマリアの 女は求めました。「その水をください」(15節)と言いました。もちろん、 彼女は自分が何を求めているのかを正確に知っていたわけではありません。 しかし、ともかく求めました。そして、彼女の人生における最も重要なこと が、そこから始まったのです。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かな い」と主は言われます。ならば、私たちがなすべきことは、その御方に「そ の水をください」と願うことなのです。

●わたしが与える水は泉となる

 そして、さらに主イエスはこう言われました。「わたしが与える水はその 人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。

 主イエスから生きた水をいただくということは、生ける水の源である神と の交わりを回復することです。まさに命の巨大な水源を持つ者となることで す。水源とつながっているならば、もはや壊れた水溜ではありません。そこ には泉がわき出ます。主イエスはそのことを「永遠の命に至る水がわき出る 」と表現されました。

 しかし、私たちはここで、「永遠の命に至る水」について語ることが主イ エスにとって何を意味したかを、改めて考えてみる必要があります。ヨハネ による福音書は、主がこの水を与えるために、最終的に何をしてくださった かということに、多くの紙面を割いているのです。それは主イエスが十字架 の上において御自身の命を注ぎ出すことでありました。

 この福音書だけが殊更に書き記していることがあります。主イエスが死な れた直後の出来事です。「イエスのところに来てみると、既に死んでおられ たので、その足は折らなかった。しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹 を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証しして おり、その証しは真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、 自分が真実を語っていることを知っている」(19・33‐35)。

 なぜこのようなことが書かれているのでしょう。それはこれが他の何にも まさって真理を雄弁に語る象徴的な出来事だったからです。水は血と共に流 れ出たのです。水だけではありません。血と共にです。血がなければ水はな いのです。血とは何でしょうか。血とは罪の贖いです。罪の赦しです。主イ エスの血なくして神との交わりの回復はありません。主イエスの血なくして 永遠の命もないのです。永遠の命に至る水は血と共に来るのです。主イエス の血による罪の贖いを受ける者は生きた水をも受けるのです。

 そして、主イエスによって与えられた生きた水は、ただ単にその人の内に 留まっているのではありません。「その人の内で泉となる」と主イエスが語 られた通り、その水はわき出て溢れ流れていくのです。泉は砂漠をオアシス に変えます。一人の人の内に命の泉がわき出ているならば、その泉は命を失 った世界を変容させるのです。その人の存在は、家庭を変え、学校を変え、 職場を変え、社会を変えるのです。

 「イエスは、一つの新しい宗教をこの世界にもたらしたのではなく、新し い命をもたらしたのだ」とある神学者は言いました。宣教とは、この命の伝 搬に他なりません。生ける水をあふれ流れさせるのです。涸れ井戸から一生 懸命くみ出して与えようとする人は、周りに泥水をまき散らすだけです。大 切なことは、主イエスから生きた水をいただくことです。この御方に求める ことです。神との豊かな交わりに生き、命の水を溢れ流れさせることです。 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る 」。アーメン。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡