「シロアムに行って洗いなさい」                          ヨハネ9・1‐12 ●まだ日のあるうちに  「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられ た。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えない のは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。 』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯し たからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(1‐3節)。  一人の生まれつき目の見えない人がいました。主イエスは通りすがりに、 彼に目を留められました。弟子たちも彼に目を留めます。弟子たちは、この 人がなぜ生まれつき目が見えないのかを問いました。弟子たちは決して興味 半分で主イエスに尋ねたわけではないでしょう。それは主イエスが弟子たち の問いに真剣に応えておられることから分かります。弟子たちは、この世の 災いについて一般論を問うたのではありません。苦しみを背負った具体的な 一人の人を前にして尋ねたのです。なぜこの人にこのようなことが起こった のか、と。いったい誰が悪いのか、と。  私たちもまた、しばしば弟子たちのような問いを抱きます。具体的なこの 世における災い、理不尽な苦しみ、不条理な出来事を前にして「なぜ」と問 うのです。私たちの心は、原因を見出さなくてはおさまりません。一つの苦 しみがあるならば、それをもたらした悪人を見出さなくてはおさまりがつか ないのです。いったい誰が悪いのか。必ずしも答えが出るわけではありませ ん。その時私たちは、あるいは神を悪者にして解決しようとするかもしれま せん。  しかし、主イエスは、そのような悪人探しの問いに、答えを与えようとは されませんでした。主イエスは弟子たちと共に「なぜ」と問おうとはされま せん。主イエスもまた、そこにいる具体的な一人の人を見ています。その苦 しみに目を留めておられます。しかし、主イエスが考えているのは「なぜ」 ではなく「何のために」ということです。主は言われました。「神の業がこ の人に現れるためである」。  そして、主イエスの答えはさらに続きます。主は、「わたしたちは…」と 続けるのです。「なぜこんなことが起こるのか」「誰がいったい悪いのか」 とだけ問う人は、往々にして人や物事を外から眺めているものです。自分自 身が本当の意味で関わっているわけではありません。「神がいるならば、こ の世界にはどうして不幸があったり悲惨があったりするのか」と議論をしか けてくる人がいます。しかし、皮肉なことですが、本気でこの世の不幸や悲 惨と関わろうとしている人から、そのような質問を受けたことは一度もあり ません。恐らくそういうものなのだろうと思います。本当に自分の問題とし てとらえている人は、そこで「なぜ」と問うたり「誰が悪いのか」と問うて いるだけではなく、具体的な状況の中で「わたしたちは何をすべきなのか、 何ができるのか」と考えるからです。そうです、主イエスもここで「わたし たちは…」と語り始めるのです。  「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうち に行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世に いる間、世の光である』」(4‐5節)。  「神の業がこの人に現れるためである」と言われたその「神の業」を、わ たしたちはまだ日のあるうちに行わねばならないと主は言われます。ここに 語られているのは、神の業への人間の参与です。神の業は人間とは無関係に 現れるのではありません。神は御自分の御業をなすために人間の働きを用い られるのです。そこで主は一人の苦しむ人に対して何がなされねばならない かを、自らの行動をもって示されたのでした。続きをお読みしましょう。 ●神の業とは何か  「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目に お塗りになった。そして、『シロアム――「遣わされた者」という意味―― の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見え るようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に 見ていた人々が、『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言っ た。『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う 者もいた。本人は、『わたしがそうなのです』と言った。そこで人々が、 『では、お前の目はどのようにして開いたのか』と言うと、彼は答えた。 『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、「シロアムに行って洗 いなさい」と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになった のです。』人々が『その人はどこにいるのか』と言うと、彼は『知りません 』と言った」(6‐12節)  主は、土をこねて彼の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と 言いました。そして、彼がその通りにすると、その目が開かれたのです。こ れが主イエスのなされたことです。まさに、神の御業がそこに現れました。 主イエスの言われたとおりです。  しかし、神の御業は、ただ彼の目が癒されたことだけにとどまりません。 単に「めでたし、めでたし」で話は終わらないのです。その続きがあります。 実は、癒されたことによって、彼は今まで経験したことのないようなトラブ ルに巻き込まれるのです。この人は主イエスに敵対するユダヤ人たちの尋問 を受けることになります。そして、その結果、外に追い出されるのです。 「彼を外に追い出した」(34節)という言葉は、ユダヤ人たちが彼を会堂 から追放したこと、すなわちユダヤ人のコミュニティーから追い出したこと を意味します。彼は村八分になったのです。  そして、追い出されたこの人に、再び主イエスが会われます。彼は開かれ た目をもって主イエスを見、そして主の語りかけを聞くのです。「イエスは 彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あな たは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方は どんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あな たは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』彼が、 「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたし がこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるよう になり、見える者は見えないようになる」(35‐39節)。  ここに至って、彼に起こった神の業が何であるかが明らかになります。彼 に起こった神の業とは、「主よ、信じます」と言って信仰を言い表すに至っ たことであり、主イエスの前にひざまずいて、主を礼拝したということなの です。いわば、先に起こった奇跡的な癒しは、この信仰に関わることを指し 示す「しるし」に他ならないのです。そのことを考えながら、もう一度主イ エスがなさったこと、この人の身に起こったことを見ていきましょう。 ●シロアムに行って洗いなさい  すぐに気がつきますのは、ヨハネが「シロアム」という名前にかなりこだ わっているということです。この名前は二回繰り返されておりますし、わざ わざ読者にもその名前の意味が分かるように、ヨハネが解説を付記しており ます。シロアム――それは「遣わされた者」という意味でした。その名前に こだわる理由は明らかです。主が直前に「わたしたちは、わたしをお遣わし になった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」と言っているか らです。「遣わされた者」とは、この福音書において、他ならぬ主イエス御 自身です。キリストを象徴的に示しているのがシロアムの池なのです。この 物語は、一人の人がキリストを象徴する池で目の泥を洗い落としたら目が開 かれたという出来事を伝えているのです。  この人は「生まれつき目の見えない人」でありました。生まれつき目が見 えないということは、言い換えるならば光を経験したことがない、というこ とです。たとえ太陽の光が降り注いでいたとしましても、もしその目が閉ざ されているならば、その人は光を経験することはできません。その人は闇の 内を生きてきたのです。  さて、この福音書には「闇」という言葉が繰り返し出てきます。例えば、 この物語の直前の八章には次のような主イエスの言葉が出てきます。「わた しは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」 (8・12)。もちろん、そこで言われている闇とは、物理的な光を失って いることではありません。不景気で世の中が暗い、ということでもありませ ん。不幸の故に人生が闇であるということでもありません。もっと根元的な 光の欠如を意味します。それは人間が真に必要とする神の光、命の光を失っ ていることを意味するのです。  光を失っているとするならば、それは光を妨げるものがあるからです。聖 書は、弟子たちの問いとは異なる意味において、その光を妨げるものを「罪 」と呼びます。そうしますと、ここに出てきます「生まれつき目の見えない 人」は、生まれつき罪人である私たちすべての人間の姿を表していると言え るでしょう。かつてアウグスティヌスがこの箇所を講解して言いました。 「あの盲人は人類である」と。  私たちは、神の光を遮り闇をもたらす罪の問題を、自ら解決することがで きません。この人が自らの盲目をどうすることもできなかったようにです。 では、どうしたらよいのでしょうか。洗ってもらうしかないのです。ただキ リストを信じて洗っていただくしかないのです。そうやって神との間を妨げ る罪を取り除いていただくしかないのです。このことを実現するためにこそ、 「遣わされた者」なるキリストは来られたのです。そして、十字架にかから れたのです。私たちの罪が赦され、洗い流され、取り除かれるために、罪の ない方が贖いの血を流さなくてはなりませんでした。この罪のない方の流さ れた血潮によってのみ、私たちの罪は洗い清められるのです。そうして初め て光の内を歩み出すことが出来るのです。誰も永遠に闇の中をさまよって滅 びる必要はありません。いかなる人でも光の内を生きることができるのです。  「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうち に行わねばならない」と主は言われました。そう言われた主イエスは、「シ ロアムに行って洗いなさい」と告げたのです。いいえ、主イエスだけではあ りません。「わたしたちは行わねばならない」と主が言われたように、主の 弟子たちが、そして後の教会が同じように、シロアム(遣わされた者)を指 し示し、こう言い続けてきたのです。「シロアムに行って洗いなさい」と。 これが「日のあるうちに行わねばならない」神の業への参与であると信じて、 そうしてきたのです。主は「だれも働くことのできない夜が来る」と言われ ました。もはやその言葉を語り得なくなる時が来ます。聞き得なくなる時が 来ます。ですから、私たちは定められた終わりの時まで、これからも語り続 けるのです。「シロアムに行って洗いなさい」と。