「ラザロよ出てきなさい」                        ヨハネ11・17‐44  ベタニアという村に、マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロ が住んでおりました。主イエスとその一行は、しばしばその家に立ち寄られ たようです。ユダヤ人たちの敵意に囲まれ、命さえ危ぶまれる緊迫した状況 において、主イエスが心から憩うことのできる、数少ない家の一つだったの でしょう。しかし、その家庭を、ある日突然、大きな悲しみが襲います。ラ ザロが重い病に伏してしまったのです。そして、彼はついに癒されることは ありませんでした。家族の願いも虚しく、死んでしまったのです。  昨日まで明るい笑顔が絶えなかった幸せな家庭が、翌日には悲しみのどん 底に突き落とされてしまっている。病や死など考えたこともなかった人が、 ある日突然、人間にとって避けられないその現実と向かい合わなくてはなら ない。確かに、そのようなことが、しばしば起こります。死は私たちが向か う先の方にあるのではありません。いわば私たちは死を背負っているのです。 死は人間を厳然として支配しているのです。私たちはその事実を忘れている だけです。忘れていても事実は事実です。ある日、私たちは気付かされるこ とになります。しばしばマリアとマルタの家庭に現れたような仕方において、 その事実に気付かされるのです。私たちはこの問題を避けて通ることはでき ません。ではその問題の解決はどこにあるのでしょうか。 ●わたしは復活であり命である  まず、どこに解決が“ないのか”を見ておきましょう。  主イエスが彼らのもとに到着した時、既にラザロは墓に葬られて四日も経 っておりました。マルタは主イエスが来られたと聞いて迎えに出ます。そし て言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は 死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも 神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」(21‐22節)。 主はマルタに言われます。「あなたの兄弟は復活する」。これに対してマル タは答えました。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」  マルタの口にした言葉は、ユダヤ教(特にファリサイ派)における正統的 な教理です。それはそれで間違ってはおりません。しかし、それはあくまで も「存じております」という程度の信仰告白です。これは日本人が漠然と 「天国」あるいは「極楽」について語るのと大差ありません。「天国のある ことは存じております」「極楽があることは存じております。」だからどう だと言うのでしょう。それが助けになるのでしょうか。マルタに関して言え ば、それが少しも助けになっていないのです。そのような一般的な死後の希 望に関する教理を知っていることは、彼女の救いとなっていないのです。そ れは私たちであっても同じです。いざ、自分の死、あるいは身近な者の死と いう現実に直面したとき、そのような漠然とした死後の希望は何の役にも立 ちません。  では、死の解決はどこにあるのでしょうか。  主イエスはマルタにさらに語りかけられます。「わたしは復活であり、命 である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる 者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25‐26節)。 なんという大胆な宣言でしょうか。そして、なんという大きな問いかけでし ょうか。「あなたはこれを信じるか」と主は問いかけられるのです。それは 「わたしは復活であり、命である」と宣言される主イエスを信じるか否かと いう問いかけに他なりません。単にある命題を信じるか否かではありません。 ある教理を信じるか否か、ということでもありません。この一人の御方、自 ら復活であり命であると宣言する御方を信じるか否かを問うているのです。 この問いに対して、マルタはこう答えたのでした。「はい、主よ、あなたが 世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」  こう言うと、マルタは家に帰ってマリアを呼びました。マリアは立って、 主イエスのもとに向かいます。彼女は主イエスを見るなり、足下にひれ伏し て言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は 死ななかったでしょうに。」マリアは、マルタとまったく同じことを口にし て泣きました。周りの人々も泣き叫んでいます。主イエスはこれを見てどう されたでしょうか。主は心に憤りを覚え、興奮し、そして主イエスもまた涙 を流されたのでした。  死の力が猛威を振るい、人間の生活を悲しみのどん底に突き落としてしま うのを目の当たりにする時、私たちはやり場のない怒りを覚えることがあり ます。興奮し、涙を流します。主イエスは、そのような私たちの怒りと悲し みを共有してくださいました。いや、私たち以上に、怒り、そして悲しんで くださるのです。主は、罪と死の力に支配された人間の悲惨な現実に目を留 められます。愛するゆえに、無関心ではおられません。愛するゆえに、怒り、 そして涙を流されます。人々は主の涙を見て言いました。「御覧なさい、ど んなにラザロを愛しておられたことか」と。いいえ、この涙はただラザロを 愛するゆえの涙ではありませんでした。それは彼らを愛するゆえの涙でもあ りました。それはすべての人を愛するゆえの怒りであり涙でありました。 「御覧なさい、どんなに私たちを愛しておられたことか!」  人は悲しみと嘆きの中で、その悲しみと涙とを共にしてくださる方に出会 うのです。そのように、私たちをこよなく愛したもう御方が、「わたしは復 活であり命である。あなたは信じるか」と問いかけてくださるのです。私た ちに必要なのは一般論としての教理や思想ではありません。私たちに必要な のは、キリストと出会い、この御方によって救われることなのです。 ●ラザロよ出てきなさい  主イエスは、ただ憤り、涙を流されただけではありませんでした。主は、 歩みを進めて墓の前に立たれます。主は「その石を取りのけなさい」と命じ られます。そして、人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、大声で 叫びました。「ラザロ、出てきなさい。」墓の中にキリストの声が響きます。 すると、死んでいたラザロが、手と足を布で巻かれたまま出てきたのでした。 このことについて、様々な説明や詮索は大した意味を持ちません。大事なこ とは、伝えられているこの出来事が、私たちに何を語りかけているのか、と いうことです。  既に触れましたように、ラザロとその家族は、死に支配されている悲惨な 人間の現実を示しております。私たちは確かにラザロであり、その家族です。 しかし、私たちは「死」という言葉をもって、単に肉体的な死だけを考えて いてはなりません。私たち人間にとって悲惨なことは、単に私たちが病気に なること、年老いること、そしてやがて肉体的に死に至ることではありませ ん。問題はもっと深いところにあるのです。  エフェソの信徒への手紙に次のような言葉があります。「さて、あなたが たは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2・1)。 「以前は死んでいた」というのは妙な表現です。明らかに彼らは私たちが通 常考えている意味で「死んでいた」のではありません。いわば、彼らは生き ながらにして死んでいたのです。罪と過ちによって死んでいたのです。それ は「霊的な死」です。そして、こちらの方が本当はよほど深刻なのです。な ぜなら、それは命の源なる神との断絶を意味するのであって、神と断絶して いるならば、肉体的に死ぬ前であろうが後であろうが、いずれにせよ、どこ にも希望はないからです。肉体的な死が悲しみであり絶望でしかないとする ならば、それは既に神と断絶して霊的に死んでいるからなのです。  墓の中のラザロは、罪と過ちによって死んでいる人間の状態を良く表して おります。私たちは皆、神によって尊い存在として作られ、神の命によって 生かされるべき、たった一度の尊い人生を与えられました。しかし、人は命 の源から離れ、その尊い姿を失い、命の輝きを失ってしまいました。死んだ 魚が流れに押し流されていくように、この世の悪の力に押し流され、自らの 欲望に振り回され、人生という器に愛を満たして生きるのではなく、そこに 憎しみと偽りを満たして生きております。マルタは「主よ、四日もたってい ますから、もうにおいます」と言いました。霊的に死んだ人間もまた同じで す。死んで四日もたった死体は腐って悪臭を放ちます。神から離れ、生き生 きとした命を失い、清さのかけらもない、腐って臭くなったような人生を生 きているならば、それは死体となったラザロと同じです。  しかし、あの時、あの墓の中にキリストの声が響きわたりました。キリス トは大きな声でラザロの名前を呼ばれたのです。「ラザロ、出てきなさい」 と。そして、ラザロは墓をあとにして出てきたのです。  「ラザロ、出てきなさい」――この呼び声は、十字架へと向かっておられ た方の叫びでありました。それは人間を支配する罪と死の力に対する、主の 命がけの戦いの中から発せられた言葉でありました。事実、この出来事のゆ えに、ユダヤ教当局は主イエスを殺すことを決定いたします。主はそうなる ことを承知の上で、ラザロを呼ばれたのです。いわば、主は自らの命とひき かえに、ラザロを墓から呼び出したのです。  そして、主は私たちをも呼び出されます。主は、罪と過ちによって死んで いた私たちを、墓から呼び出し、新しい命に生かすために、十字架の上で命 を捨てられたのです。十字架のキリストは、今日もなお大声をもって、この 世界に呼びかけておられます。キリストの大声は、教会の宣教の働きを通し て、まさに墓の中に、罪の死臭に満ちたこの世界の中に響き渡っているので す。キリストは大声で墓の外から呼んでおられます。「墓から出てきなさい。 墓の中はあなたのいるところではない。腐臭を放っているのはあなたの本当 の姿ではない。生き返れ!そして墓から出てきなさい!」と。もはや誰も死 の支配のもとに留まる必要はありません。主の呼び声に応えて、私たちが墓 の中からキリストのもとに出ていく時、私たちは生きるのです。真に生きる のです。神と結ばれ、永遠の命に生きるのです。そこにこそ私たちの死の最 終的な解決があるのです。