「神の計らい」
2002年4月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記2・1‐10
私たちはこれから三か月に渡り、礼拝において出エジプト記を読んでまい ります。物語における中心人物はモーセです。今日、私たちはそのモーセの 出生について記した箇所を読みました。一読して分かりますとおり、この箇 所に神は現れません。言及すらされません。事の成り行きはすべて人間の営 みによって決定していくように見えます。確かに私たちが見ているこの世界 とは、そのような世界です。しかし、私たちが出エジプト記全体の中にこの 短い箇所を位置づける時、すなわち長い歴史の流れの中にこの一つの場面を 位置づける時、私たちはそこに驚くべき神の御手を見るのです。私たち人間 が神を意識する以前に、既に動き始めている神の御手があることを知るので あります。
●信仰によって
ヤコブと一族がエジプトに移住して四百年以上経った時のことでした。そ の子孫であるイスラエルの民がエジプトに増え広がるに従って、彼らの増加 をくい止めるための過酷な虐待が始まります。エジプト人はイスラエルの民 に強制労働の監督を置き、生活を脅かすほどの重労働を課しました。そして、 イスラエルの民の存在を脅かす暗黒はますます色濃くなってゆき、ついにフ ァラオの口によって恐るべき命令が下されるに至ります。その命令とは「生 まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かして おけ」(出1・22)というものでした。モーセが生まれたのは、実にその ような悲しみと嘆きに満ちた時代でありました。
誰でも良き時代に生きることを願います。親は生まれくる子供たちの時代 が良き時代であって欲しいと願います。しかし、実際、私たちは自分の産ま れてくる時代を選べはしません。子供たちについても、私たちの願いの通り にはなりません。私たちはしばしば自分の生まれ育った時代を嘆きます。あ るいは悲惨に満ちた世界に子供を送り出さなくてはならないことを嘆きます。
しかし、私たちは忘れてはなりません。神がモーセという人物を誕生させ たのは、イスラエルにとって最も暗い時代だったのです。悲しみと嘆きに満 ちた最悪の時こそが、モーセという人物を未来に向かって備えるべく、神が 選ばれた最善の時だったのです。
神の大きな計画は、一つの小さな家庭において始まりました。「レビの家 の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産ん だが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」(1‐2 節)と書かれております。
かわいい我が子を殺すことが忍びなくて、三か月の間隠しておいた。そん な彼らの行為は、誰でも理解できるでしょう。しかし、たいへん興味深いこ とに、後の時代の人々は、これをただ親としての自然な心情から生じた行為 とは見ていないようなのです。ヘブライ人への手紙には次のように書かれて おります。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって 隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」 (ヘブライ11・23)。つまり、この著者はモーセの両親の行為を信仰に よる行為と見ているのです。その重点は彼らが「王の命令を恐れなかった」 ことに置かれているのです。王を恐れなかったということは、言い換えるな らば畏れるべき方を畏れていたということであります。
モーセの両親に対するそのような見方はどこから来ているのでしょう。そ れは恐らく前の章からであろうと思われます。1章には二人のヘブライ人の 助産婦が登場します。一人はシフラ、もう一人はプアと言いました。奇妙で す。絶対的な権力を持っていたファラオの実名がついぞ記されていないのに、 むしろ一介の助産婦たちの名がこうして記されているのです。彼らはどのよ うな人物として特記されているのでしょう。「助産婦はいずれも神を畏れて いたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」 (1・17)と書かれております。彼らは真の支配者がファラオではなく、 神であることを信じていたのです。生命は神の支配のもとにあるのであって、 王の支配のもとにあるのではないことを、人間が自由にできるものではない ことを、彼らは認めていたのです。彼らは神を畏れるゆえに王の命令よりも 命を守ることを重んじたのです。そして、モーセの両親の決断と行為もまた、 そのような信仰によるものと見られているのであります。
もとより信仰による行為と言っても、エジプトの王ファラオの強大な権力 を前にして、奴隷の民の中にある一夫婦の為しえることなどたかが知れてい ます。彼らはファラオの家を覆す力もなければ、命知らずの勇者たちでもあ りません。せいぜい赤ん坊を隠すことぐらいしかできません。しかも一時的 にです。三か月後にはそれも不可能となってきます。
しかし、そのようにまことに小さな信仰の行為ではありましても、それが 神の計らいと一つとなって、神の大きな計画の一部を形作るのです。この家 族がいなければ、後のモーセはいないのです!
●神の奇しき計らい
さて、モーセを三か月間隠しておいた両親は、ついに隠しきれなくなった 時、手放すべき時が来たことを悟ります。彼らはアスファルトとピッチで防 水したパピルスの籠に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きまし た。信仰のゆえに手放してはならぬ時があります。しかしまた、信仰によっ て手を放し、神に委ねなくてはならない時があります。いずれにせよ、大切 なのは、単に人間の情によってではなく、神の支配への畏れと信頼によって 動かされていることです。
事態はどのように展開していったでしょうか。赤子の姉が遠くに立って様 子を見ております。すると、折しもそこにファラオの王女が水浴びをしよう と川に下りて来たのです。よりによって、命令を下した王の娘がやってきた のです。しかも、その王女によって、いともたやすく葦の茂みの間に置かれ ていた籠は見出されてしまいました。
最悪の展開です。しかし、神はしばしば最悪の展開をさえ用いて、事を先 に進め給います。王女は仕え女をやって籠を取ってこさせました。開けてみ るとそこには赤ん坊がおり、泣いています。王女の内に憐れみの情が起こり ました。彼女はふびんに思って言います。「これは、きっとヘブライ人の子 です」。彼女に赤ん坊を害する意思がないことを遠くから見てとったその子 の姉は、すかさず近づいて王女に申し出ます。「この子に乳を飲ませるヘブ ライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」王女はこの申し出を快く受け入れ ます。娘が連れて来たのは、その赤ん坊の実の母親でありました。王女は言 います。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。 手当はわたしが出しますから」。
「そんなうまい話があるものか」と思われますか。そうお思いになるのも 仕方ありません。しかし、確かなことは、もしあなたがこの話をそのように 思われるなら、仮に類似のことを体験したとしても、それを「うまい話」、 単なる幸運程度にしか考えないに違いないということです。そして、もう一 つ確かなことは、少なくとも、モーセの母はそのように事態を受け止めはし なかったということです。
もし彼女が、信仰によって三か月赤子を隠した人であるならば、そして信 仰によって赤子を手放した人であるならば、この出来事に身震いしたであろ うと思います。彼女の内に大きな喜びがあったとするならば、それは単に幸 運を喜ぶ軽々しい喜びではなく、ファラオの家さえ支配する生ける神の御手 に触れた者の畏れに満ちた喜びであったであろうと思うのです。
そのことは、その後彼女が再び得た赤子をどのように育てたか、というこ とから伺い知ることができます。彼女は「わたしに代わって乳を飲ませてお やり」と言われたのです。その男の子はファラオの王女に拾われたのであっ て、いわば既に王女の子なのです。彼女は、エジプトの王女の子の養育を託 されたのです。しかし、彼女は、エジプトの王女の子として、その子を育て はしませんでした。あくまでも生ける神に仕えるヘブライ人として育てたの です。
モーセは後にエジプトにおいて教育を受け、成人いたします。しかし、1 1節を読みますと、その時でさえ彼はヘブライ人たちを同胞として見ている のです。彼はあくまでもヘブライ人として生きているのです!先に引用しま したヘブライ人への手紙にも、「信仰によって、モーセは成人したとき、フ ァラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよ りは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけり をエジプトの財宝よりまさる富と考えました」(ヘブライ11・24‐26) と書かれております。明らかに、彼のヘブライ人としての意識は、母のもと で培われたものです。
幸運を喜ぶだけの人は、その出来事に伴う自らの責任を考えることはあり ません。この世界の中に神の計らいを見る人は、そこで自分に与えられてい る責任をも思うのです。こうして、神の計らいと人間の信仰による応答が一 つとなって、人の知恵によっては実現しようのないことが実現したのでした。 すなわち、《エジプトの王女の子として教育を受けるヘブライ人》という、 およそ歴史上に現れるはずのない人物が現れることになるのです。そして、 この神の計らいによる不可思議なことこそが、エジプトからのヘブライ人の 脱出という大きな計画における神の準備に他ならなかったのであります。
彼はモーセと名付けられました。その名の由来について、聖書は次のよう に説明しています。「王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわ たしが引き上げた(マーシャー)のですから』」(10節)。しかし、聖書 を読む私たちは知っています。モーセは《彼女が》引き上げたのではない、 ということを。《神が》彼女を用いてモーセを水から引き上げたのです。そ れはイスラエルをエジプトから「引き出す者(モーシェ)」とするためであ りました。