「寄留者モーセ」                      出エジプト記2・11‐25  先週、私たちはモーセの出生にまつわるエピソードをお読みしました。今 日の聖書箇所は、モーセが成人した頃の出来事を記しております。さて、彼 はどのような道のりを経て、イスラエルの解放者となっていくのでしょうか。 そう思って読み進んでまいりますと、たいへん意外な記述に出くわします。 後に偉大な働きをすることになるあのモーセは、ファラオの娘の養子として、 その若き日にエジプトにおける高度な教育を受け、厳しい武術の訓練を受け たことと思われます。しかし、ここには彼がいかに有能な人物として成長し たかということについて、何一つ記されてはいないのです。その代わりに書 かれていますのは、モーセによる殺人と死体遺棄事件です。彼は殺人犯とし てミディアンの地に逃亡するのです。そして、彼は八十歳になるまで、寄留 者としてそこに留まることになるのです。いったいなぜ、聖書にこのような ことが書かれているのでしょう。 ●戦いの開始  そこで私たちはここに描かれている出来事を現実的に丁寧に読んでいくこ とにしましょう。私たちはこの殺人事件が何であったのかを考える前に、こ れが何で《ない》かについて考えたいと思います。  まず、これがモーセの激情による衝動的な殺人ではないことは明らかです。 彼はカッとなってエジプト人を殺したのではありません。彼は冷静にあたり を見回し、誰もいないことを確かめています。しかも、彼は人を殺した後、 短時間の内に死体を隠匿しています。それは穴を掘りやすい砂地でなくては なりません。また、たとえ砂地であっても、大人の体を埋めるのは容易では ありません。素手で埋めるわけにはいかないでしょうから、道具もそろえて おかなくてはなりません。しかも、彼は翌日平気で歩き回っています。犯行 が明るみに出ていないことを前提として行動しているのです!このように、 モーセは、ある程度計画的にエジプト人を殺していることが分かります。  第二に、モーセの行動を、単に打たれていたヘブライ人に対する同胞意識 と同情によるものと見ることも正しくないでしょう。二日目に、彼はヘブラ イ人同志の争いに関与しているのです。明らかに一方が悪かったようです。 彼はその悪い方をたしなめるのです。また、ミディアンに逃げていった時に も、モーセは横暴な羊飼いの男たちから不当な扱いを受けていた娘たちを救 います。彼女たちはヘブライ人ではありません。こうして見ると、モーセの 関心事は単に民族問題にあったのではなく、広く正義が実現することにあっ たことが分かります。彼の行動は、ヘブライ人たちが不当に抑圧され、過剰 な労働を強いられている世界に、神の正義の実現を求めての行動であったで あろうと思われるのです。  このように見てきますと、私たちはこの事件の中に、一つの闘争の開始を 見ることができるでしょう。それは強大なエジプトの支配に対抗し、抑圧さ れているヘブライ人を救うための、正義のための闘争の開始です。「モーセ が成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服し ているのを見た」(11節)と書かれています。もちろん、今までヘブライ 人の重労働はいくらでも目にしていたに違いありません。しかし、この日に 彼が見たことは、彼の内で計画されてきたことが開始する、決定的な契機と なったということなのでしょう。  このモーセの行動については、後のキリスト者が次のように述べています。 「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと 思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手 のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです」 (使徒7・23‐24)。この時、モーセが四十歳であったというのは、出 エジプト記には出てきませんが、モーセの生涯120年を三分割して見る伝 統的な見方によっています。これによりますならば、モーセがこの時なした 決断は、今までの長きに渡るファラオの身内としての生活を拒否し、イスラ エルの民と苦しみを共にするという、まことに大きな犠牲を伴う決断であっ たことが分かります。それは、ファラオの宮廷に育ったヘブライ人という特 殊なアイデンティティを持ち、抑圧者とも被抑圧者とも深く結ばれていたモ ーセの、長きに渡る苦しみの末の決断であったことでしょう。こうして、彼 は抑圧されている者の救済と正義の実現のために、神の御前に自分の持てる 全てを捨てる覚悟をもって、その第一歩を踏み出したのです。 ●挫折と逃亡  さて、その彼の決断はどのような結果を生みだしたでしょうか。先に引用 しましたステファノの説教は次のように続きます。「モーセは、自分の手を 通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれる と思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイス ラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようと して言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。 』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。 『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺 したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃 げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をも うけました」(使徒7・25‐29)。  モーセは、彼の開始した闘争を理解し、戦いに加わってくれる同志を求め ていたに違いありません。しかし、彼を理解してくれる人はいませんでした。 無理もありません。同じヘブライ人でありながら、皆が苦しんできた時に、 モーセだけは労役を課せられることもなく、むしろファラオの娘の子として 宮廷の豊かさの中に生きてきたのですから。ヘブライ人たちにとって、モー セは所詮エジプト人の一人でしかなかったのです。仲間争いをしていたヘブ ライ人たちの一人が語ったように、彼らはモーセのリーダーシップなど認め てはいませんでした。  しかも、重大なことが明らかになります。まだ戦いの同志を得ないうちに、 彼の殺人が翌日には人の知れるところとなっていたのです。彼は反逆者とし てファラオに追われる身となりました。ヘブライ人たちの救済どころではあ りません。自分の身を守るために、彼は逃亡生活を余儀なくされたのです。  失敗でした。挫折です。彼の払った大きな犠牲も、人々のために身を捧げ た行為も、無駄になってしまいました。彼としては純粋に正義を求めて起こ した行動だったのです。もちろん、彼の犯した殺人そのものが肯定され得る わけではありません。しかし、決して私利私欲のために動いたのではありま せん。人々から感謝されることすら求めてはいなかったに違いありません。 献身が不徹底であったわけでも、努力が欠けていたわけでもありません。な のに、誰からも支持されず、理解もされず、ただ行動の結果としての負債だ け残ってしまいました。それを虚しく一人で背負って生きていかなくてはな りません。なぜか、彼の姿がひどく馴染み深く思えてきます。確かに、この 世にあって、モーセの挫折はなんら特別なことではないのかもしれません。  もっとも、モーセは全く虚無的になってしまったのではなさそうです。彼 の内に正義を求める心はまだ生きていました。ファラオの手を逃れてたどり ついたミディアンの地で、彼は不当な仕打ちを目にします。七人の娘たちが 井戸で水をくみ、父の羊の群れに飲ませようとしていた時、羊飼いの男たち が来て娘たちを追い払ったのです。モーセはそこで立ち上がります。モーセ は弱い者たちのために戦います。そして、彼女たちを救ったのでした。  このことをきっかけとして、モーセは娘たちの父であるミディアンの祭司 レウエルと知り合います。彼のもとにいる限り、モーセは安全でした。彼は レウエルのもとにとどまる決意をいたします。モーセはレウエルの娘の一人、 ツィポラと結婚し、その地に家庭を築きました。平和な日々が訪れます。し かし、モーセの心はミディアンの地にはありませんでした。彼の心は遠くエ ジプトを思います。エジプトにおいて過酷な重労働に苦しんでいる同胞を思 います。それゆえ、生まれてきた子供をゲルショムと名付けたのでした。そ の名の由来は、モーセが「『わたしは異国にいる寄留者(ゲール)だ』と言 ったからである」(22節)と説明されています。この時点で、彼はまだ戦 いを放棄してはいなかったのでしょう。彼にはまだ若さがあります。今日ま で培ってきたあらゆる力もあります。彼は再び闘争のために立ち上がる機会 をうかがっていたに違いありません。  しかし、なんとその後のモーセの日々は、23節の「それから長い年月が たち」という言葉で一くくりにされてしまっているのです。「長い年月」― ―どれくらいでしょうか。実に、次にモーセが登場するのは、モーセが八十 歳の時なのです!どういう事情であったのか分かりません。機会がなかった のか、モーセが早々に闘争の意識を失ってしまったのか。ともかく、彼が表 舞台に出ぬまま、長い年月が過ぎてしまったのです。そして、失われた日々 は決して戻っては来ないのです。モーセの若さも失われました。モーセの力 も大かた失われたことでしょう。  ああ、なんともったいない。神はもったいないことをなさるものです。あ の頃、喩えて言うならば、モーセはめらめらと燃え上がる松明のようでした。 モーセを用いて事を起こすなら、その時ではありませんか。今はどうでしょ う。燃え尽きた灰のようです。八十歳のモーセの言葉を聞いてみてください。 彼は神に言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに 行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのです か」(3・11)。これが燃え尽きた人の言葉でなくて何でしょうか。  しかし、人の目から見て終わりに見えることが、必ずしも神の目から見て 終わりであるとは限りません。いや、人の目に終わりに見える時が、神にと っては始まりなのです。そうです、神にとっては、これからのモーセが重要 なのです。かつて彼には、若さも能力も情熱も献身も、すべてそろっていま した。しかし、一つのことが足りなかったのです。それは、何かを為し得る ために必要と見えるそれら全てが、一度打ち砕かれ、焼き尽くされ、灰とさ れることでありました。そのようにして準備されたモーセこそ、民の解放者 として神が用いようとしておられた器だったのです。それは神の望まれるこ とが、人の正義感や熱情によってではなく、神の熱情と神の義によって実現 されるためでありました。