「あなたをつかわす」

                      出エジプト記3・1‐15

 今日のこの場面において、神はモーセに御自身を現されます。そして、聖
書はその記述を通して、これを読んでいる私たちに、モーセが出会った主な
る神がいかなる御方であるかを明らかにしているのです。私たちが信じ、礼
拝している神、すなわち、モーセに御自身を現された神、イスラエルの神、
そしてイエス・キリストの父なる神とはどのような御方なのでしょうか。


●待ち伏せされる神

 「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを
飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレ
ブに来た」(1節)。

 モーセがミディアンの地に逃れてきて、四十年の歳月が流れました。彼は、
既に八十歳になっておりました。この人は、かつて若き日に、同胞であるヘ
ブライ人たちを助けようと思い立った人であります。彼は、正義を求め、不
義を憎んで激しく燃える心のゆえに、一人のエジプト人を打ち殺したのでし
た。それはヘブライ人を不当に抑圧するエジプトの権力に対する戦いの開始
でありました。しかし、すべて投げ捨てて立ち上がった彼の行動は、結局、
同胞の受け入れるところとはなりませんでした。モーセはそこで大きな挫折
を経験することになります。殺人者としての罪責を負った逃亡者として、ミ
ディアンの地へと逃れました。彼はそこで出会った祭司エトロのもとで、慣
れない羊飼いをして暮らすことになります。来る日も来る日も羊を追って四
十年、気付いてみれば、若き日に燃えていた炎は、もはやそこにありません
でした。私たちがこの場面に見るのは、かつての熱情を失った、燃え尽きた
人モーセであります。

 もちろん、それでも生きていくことはできます。彼と家族との平和な生活
がそこにはありました。彼にとっては、それで十分でした。確かに、今でも
エジプトにおいては同胞であるヘブライ人が苦しみあえいで生きています。
先のファラオが死んだ後も、奴隷の民を取り巻く状況は変わりませんでした。
しかし、彼にとって今やエジプトは遠い世界です。苦しむ人々も、遠くの世
界の人々です。彼らの苦しみに目を向けないで生きることはできました。彼
は羊と家族のことさえ考えていればよかったのです。そうしている限り、彼
も家族も平和でありました。

 しかし、神はモーセを小さな平和の中に留めておかれませんでした。神は
モーセの生活の中に入り込み、彼の向かう先に先回りされ、そこで待ち伏せ
されるのです。そんなことはつゆ知らず、モーセはその日も羊の群れを追っ
ておりました。彼は、牧草を求めて羊を追っているうちに、ホレブの山に行
き着きます。そこで彼は不思議な光景を目にしました。柴が燃えています。
しかし、柴は燃え尽きません。燃え尽きてしまった人モーセは、そこに燃え
尽きることない神の炎を見たのでした。

 神は、その炎の中からモーセに声をかけられます。「モーセよ、モーセよ
」。モーセが神を求め、神を知ったのではありません。神がモーセを知って
おられたのです。そして、神は言われました。「ここに近づいてはならない。
足から履き物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」
(5節)。

 モーセは神に会うためにそこに来たわけではありません。彼は牧草を求め、
羊を追ってホレブの山に来たのです。そこは彼の日常生活の場の延長でしか
ありませんでした。彼の予定としては、いつものように羊を飼い、そしてや
がていつもの場所に戻っていくはずでありました。しかし、人を待ち伏せし、
人の日常の生活の中に入り込まれる神は、その生活の場のただ中に、しっか
りと場所を占めてしまわれます。神は、こちらが知らずに立っている場所を
指し示して、「あなたの立っている場所は聖なる土地だ」と言われるのです。

 神はモーセに「履き物を脱げ」と命じられました。神の御前にあることを
知った時、人はそれまで自分の歩みを続けてきた足を止めて、履き物を脱が
ざるを得なくなります。そして、次に履き物を履く時には、自分の望むまま
の歩みを続けるためにそれを履くのではありません。神に遣わされた者とし
て歩み出すために履き物を履くことになるのです。モーセと神との出会いと
は、そのような出会いでありました。そして、その御方は、私たちにも出会
われ、私たちの生活の中に位置を占められる神なのであります。


●わたしがいるのだ、確かにいるのだ

 主に命じられて履き物を脱いだモーセに対して、主はさらに語りかけられ
ます。モーセは、その言葉を通して、神の炎がいったい誰に対して燃え上が
っているのかを知らされます。神のすべては、モーセが久しく忘れていた、
忘れようとしていた、苦しみ泣き叫ぶ人々へと向けられていたのでした。主
はモーセにこう言われたのです。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の
苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛
みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救
い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カ
ナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを
導き上る」(7‐8節)。

 これが、モーセが出会い、そして私たちに伝えられている神の姿です。私
たち人間の苦しみに目を留められる神の姿です。その御方は、嘆き叫び求め
る声に耳を傾けてくださる神なのです。この世における諸々の痛みを知って
くださる神なのです。そして、遠く天高いところにおられるのではなく、私
たちが這いつくばって生きているこの低きところに降ってきて、救い出して
くださる神なのです。

 そして、神は自らの名を次のように言い表されました。「わたしはある。
わたしはあるという者だ」(14節)。この言葉は、様々に訳し得る言葉で
す。また、豊かな意味の広がりを持つ言葉であろうとも思います。しかし、
既に見てきたことから考えて、単に哲学的な意味における「絶対的な存在」
ということではなさそうです。私の恩師であります左近淑という旧約学者は、
これを「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳しました。何と力強い名
でありましょうか。神は、目を留め、耳を傾け、そして降ってきて、たしか
に苦しむ者と共におられるのです。様々な神ならぬ諸力の支配下にあって、
最終的には罪と死の支配下にあって苦しみ嘆く人間と共におられるのです。
もっとも低きところにさえ降られ、人と共にいてくださり、「わたしがいる
のだ、確かにいるのだ」と語られる神なのです。


●あなたをつかわす

 そして、低きに降り給う神は、救いを実現するために、低きところにいる
人間を用いられるのです。主の御前において履き物を脱いだ人を、主は救い
の業のために用い給うのです。主はモーセに言われました。「見よ、イスラ
エルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼
らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのも
とに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(9‐
10節)。

 モーセはこの言葉に抵抗しました。モーセは自分の小さな平和の中で羊飼
いを続けられれば、それで十分なのです。それ以上の何をも欲しくはないの
です。かつてイスラエルの解放を思い立ったのは、もう遠い昔です。その時
の炎は、もはや残ってはいないのです。彼は言います。「わたしは何者でし
ょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプ
トから導き出さねばならないのですか」(11節)。しかし、主はモーセの
この問いに答えようとはされません。彼にただ一つの約束を与えられます。
「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わす
しるしである」と。

 主にとっては、モーセの内にまだ情熱が残っているかどうか、力が残って
いるかどうかは、どうでも良いことでありました。主にとって、モーセが
「何者であるか」は問題ではありません。人間から出たものはやがて消え去
っていくからです。モーセはそのことを既に知っているはずでありました。
ただ燃え尽きることのない神によって為されたことだけが残るのです。あの
燃える柴のように!ですから、神はモーセに言われたのです。「わたしは必
ずあなたと共にいる」と。モーセにとって重要なのは、彼が「何者であるか
」ではなくて、主が共におられることなのです。ですから、彼はただ、神の
御前に一度履き物を脱いだ者として神と共に生きていけば良いのです。神は、
遣わされ用いられる者にとっても、「わたしはある」という御方だからです。


 さて、この箇所を読みます時に、重なってまいりますのは、主イエスによ
って派遣される弟子たちの姿です。復活のキリストは、一度深い挫折を経験
した弟子たちを、再び集めて言われました。「わたしは天と地の一切の権能
を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子
にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命
じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・18‐20)。弟子たちは確
かにここで、低きに降られた神、十字架の低きにまで降られた神の御前にい
るのです。そして、低きに降られた神が、この世界において救いの御業をな
すために、弟子たちを遣わされたのです。「世の終わりまでいつもあなたが
たと共にいる」という約束をもって。

 教会の働きは人間の熱情と企てによって存続してきたのではありません。
人間の苦しみに目を留められ、叫びに耳を傾けられ、降ってきて救い給う御
方、「わたしはある」という御方の熱情によってなされた御業だけが残って
きたし、これからも残るのです。それゆえに、私たちが最初になすべきこと
は、モーセがしたことと同じです。まず主の御前において、今まで自分の思
いのままに歩き回ってきたその履き物を脱ぐことなのであります。