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「主の過越」

2002年4月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記12・21‐28

●義人はいない、一人もいない

 私たちは、無意識の内に、《強者対弱者》あるいは《抑圧する者対抑圧さ れる者》という構造を、単純に善悪の対立に置き換えてしまっていることが あります。勧善懲悪的な物語に馴染みすぎていることが一つの原因であるか もしれません。たいてい、そのような物語には悪しき権力者が出てくるもの です。その悪い奴らが弱い善人を苦しめます。すると、そこにいわば正義の 味方が現れます。そして、力ある悪人を退治して、弱い者たちを救うのです。 多かれ少なかれ、そのようなストーリー仕立てになっています。ですから、 私たちはいつでも人を「正しい者の側」と「悪人の側」に分けてしまうので す。

 そこに、私たち自身の経験も加わります。私たち自身が、自分より強い人 々に苦しめられる時に、私たちは思うのです。「わたしは《何も悪いことを していないのに》苦しめられている」と。あるいは、苦しんでいる人たちに 共感する時にも、私たちは思うのです。「この人たちは《何も悪いことをし ていないのに》苦しめられている」と。

 私たちが、出エジプト記12章を読みます時にも、無意識にそのような置 き換えをしてしまっているかもしれません。強者の側にいて抑圧しているフ ァラオとエジプト人は悪人である。ヘブライ人たちは苦しみを耐え忍んでい る義人である。そして、神は悪人であるエジプト人に裁きを下し、正しい者 たちを救い出されたのだ、と思い込んでいるかもしれません。その場合、神 は正義の味方の役割を演じたことになります。

 しかし、本当にそうなのでしょうか。私たちは、「抑圧されている者であ るか抑圧している者であるか」ということと、神の前において「正しい者で あるか悪い者であるか」ということは、別の事柄として考えなくてはならな いのではないでしょうか。

 あるいはこう言う人がいるかもしれません。「いや、これは善悪の問題で はない。信仰の問題なのだ。ヘブライ人たちは真の神を信じていたのであり、 エジプト人たちは神ならぬ偶像を拝んでいたのだ」と。本当でしょうか。実 は、そうではないのです。ここに見るのは、信仰と不信仰の対立ですらない のです。事実はそれほど単純ではありません。

 例えば、ヨシュア記24章をご覧ください。数十年後、彼らの子孫が約束 の地に入った時、モーセの跡を継いで指導者となっていたヨシュアは、それ までの神の恵みを回顧して、イスラエルの民にこう語りかけています。「あ なたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたた ちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕 えなさい」(ヨシュア記24・14)。このように、エジプトにいた彼らの 先祖は、明らかにエジプト人と同様、エジプトの神々に仕えていた者として 語られているのです。

 さらに、このことについて明瞭に語っているのは預言者エゼキエルです。 主はエゼキエルを通して、次のように語られました。「わたしがイスラエル を選んだ日に、わたしはヤコブの家の子孫に誓い、エジプトの地で彼らにわ たしを知らせたとき、彼らに誓って、わたしはお前たちの神、主であると言 った。その日、わたしは彼らに誓い、わたしは彼らをエジプトの地から連れ 出して、彼らのために探し求めた土地、乳と蜜の流れる地、すべての国々の 中で最も美しい土地に導く、と言った。わたしはまた、彼らに言った。『お のおの、目の前にある憎むべきものを投げ捨てよ。エジプトの偶像によって 自分を汚してはならない。わたしはお前たちの神、主である』と。しかし、 彼らはわたしに逆らい、わたしに聞き従おうとはしなかった。おのおの、目 の前の憎むべきものを投げ捨てず、エジプトの偶像を捨てようとはしなかっ た」(エゼキエル20・5‐8)。このように、イスラエルの民は、その正 しさにおいて、決してエジプト人たちに優る者たちではなかったのです。

 私たちは、この物語の中に、自分勝手な道徳的判断を入れてはなりません。 神は確かに、イスラエルの苦しみに目を留められ、彼らの叫び声を聞かれ、 その痛みを知られました(出3・7)。しかし、それは、彼らが苦しむ義人 であるから彼らの苦しみに目を留められたのではないのです。彼らが皆、神 を畏れる敬虔な人々であったから、神がその叫び声を聞かれたのではないの です。神が目を留められたのは、彼らの正しさではなく、《苦しみ》なので あり、神は信仰者の祈りの声に耳を傾けられたのではなく、《追い使う者の ゆえに叫ぶ彼らの叫び》に耳を傾けられたのです。

●ただ小羊の血に寄り頼んで

 つまり、これはヘブライ人が救われるにふさわしいから救われたのではな いのです。救われるにふさわしくない《にもかかわらず》救われた物語なの です。彼らがそのような者たちであるにもかかわらず、神は解放者としてモ ーセを立てられたのです。

 モーセと兄のアロンはファラオのもとに言って神の言葉を語りました。 「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ 野でわたしのために祭りを行わせなさい』」(出5・1)。ファラオは答え ます。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことを聞いて、イスラ エルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを 去らせはしない」(同5・2)。こうして、解放を迫る主と頑なに拒むファ ラオの戦いが始まります。

 今日、ここで詳しくお話しすることはできません。どうぞ出エジプト記7 章をご覧ください。そこには、主がエジプトに下された九つの災いが記され ております。たいへんドラマチックに描かれております。ナイルの水が血に 変わり、蛙やぶよやあぶが大発生し、家畜の疫病が蔓延し、腫れ物が人と家 畜に生じ、大きな雹がが降り、いなごが木の実を食い尽くし、三日間エジプ ト全土を暗闇が覆いました。そして、大事なことは、今日お読みしました箇 所が、それに続く十番目の災いに関わっているということなのです。

 これらの一連の災いが起こったとき、イスラエルの民は、そこに一体何を 見てきたのでしょうか。彼らは、そこ裁きの神を見たのです。生ける主が、 その大いなる力をもって裁きを下し給うことを見てきたのです。彼らは苦し みからの救いを求めました。生ける神は救いのために動き出されます。しか し、救いの神は、同時に裁きの神でもあるのです。その事実を、彼らは目の 当たりにしたのです。

 そして、イスラエルの民は、神の裁きが頂点に達する夜が来ることについ て告げ知らされました。その夜、神の裁きの御手がエジプト全土を行き巡る というのです。それはイスラエルの民にとって、待ちに待った救いの時であ ります。しかし、それは同時に、イスラエルの民にとって、最大の危機でも あるのです。なぜなら、神がエジプト全土を正しく裁かれるなら、ヘブライ 人だけが裁きを逃れる根拠は、もともとどこにもないからです。先にも言い ましたように、救いを求めていた彼ら自身、エジプト人に比べてなんら正し い人々ではないからです。

 ですから、そのような彼らが救われるためには、神の特別な憐れみと赦し が必要でありました。そうです、救いを求める者には、神の赦しが必要なの です。その人が救いを当然の報いとして主張できる義人でない限り、神の赦 しが必要なのです。それゆえ、主は自ら、モーセを通して、神の憐れみと赦 しの内に留まる道を示されたのです。

 モーセはイスラエルの長老をすべて呼び寄せて彼らに命じました。「さあ、 家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取 り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。 翌朝までだれも家の入り口から出てはならない。主がエジプト人を撃つため に巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過 ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためであ る」(21‐23節)。

 ここに語られていますように、主の裁きは《イスラエルの民》を見て過ぎ 越すのではありません。犠牲の小羊の《血を見て》過ぎ越すのです。「血を 御覧になって」という表現は重要です。これは、彼らが赦され裁きを免れる 根拠が、彼ら自身にないことを示しています。救いの根拠は、彼らのために 屠られた小羊、あがないの小羊の血にあるのです。

 神の憐れみと赦しの内に留まるためには、神が定められた仕方によってそ こに留まらなくてはなりませんでした。「それから、イスラエルの人々は帰 って行き、主がモーセとアロンに命じられたとおりに行った」と書かれてお ります。人は、自分勝手な方法によって、神の赦しと救いを得ることはでき ないのです。彼らは、主が言われた通り、家の柱と鴨居に血を塗り、その家 の中に留まらなくてはなりませんでした。もし誰かがその血に塗られた家か ら迷い出るならば、その途端にその人は救いの根拠を失い、神の裁きのもと に身を置くことになるのです。

 さて、後に洗礼者ヨハネが主イエスを指し示して、「見よ、世の罪を取り 除く神の小羊だ」(ヨハネ1・29)と言った時、ヨハネの念頭にあったの は、この過越の小羊であったに違いありません。そして、エルサレムにおい て過越祭が祝われていた時に、主は十字架において血を流して死なれたので す。この方こそ、まことに神が備え給い、十字架の上で屠られた、過越の小 羊に他なりませんでした。

 もし、あなたの内に、救いを受けることのできる何らかの根拠があるなら ば、その根拠に基づいて救いを求めたらよいでしょう。しかし、もしあなた が自分自身の正しさを根拠とすることができないならば、自分の外に救いの 根拠を求めなくてはなりません。かつてイスラエルの民が、鴨居と柱に塗ら れた血に寄り頼んだように、過越の小羊なる主イエスの血に寄り頼まねばな りません。そして、寄り頼んでよいのです。

 イスラエルの人々は、あの夜、入り口に塗られた血に寄り頼んで、安心し て家族と共に過越の食事を楽しみながら主の救いの時を待ち望みました。私 たちも、主イエスの血により頼んで、私たちの過越を祝いつつ、安心して主 の救い完成せられるその時を待ち望むのです。

 
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