「昼は雲の柱、夜は火の柱」
2002年5月5日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記13・17‐22
主イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗 闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8・12)。ちなみにこの言葉の 直前の部分は挿入されたエピソードですので、実際に語られた場面は「祭り が盛大に祝われる終わりの日」(7・37)ということになります。
この「祭り」とは「仮庵祭」のことです。ヘブライ語で「ハグ・スコト」 と呼ばれ、今日もユダヤ人の間で行われております。この祭りについては、 レビ記に次のように書かれております。「あなたたちは七日の間、仮庵に住 まねばならない。イスラエルの土地に生まれた者はすべて仮庵に住まねばな らない。これは、わたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出した とき、彼らを仮庵に住まわせたことを、あなたたちの代々の人々が知るため である」(レビ23・42‐43)。「仮庵」とは「ほったて小屋」のこと です。つまり、この祭りは、イスラエルの先祖がエジプトを出て、ほったて 小屋に住みながら荒れ野を旅したことを記念する祭りなのです。
主イエスの時代、その仮庵祭の第一日目に、神殿において特別の行事が行 われていたようです。神殿にあります「婦人の庭」というところに巨大な黄 金の燭台が四本ほど立てられまして、そこに30リットル近くの油が入れら れ火がともされるのです。その火はエルサレムを隅々まで照らすほどの輝き であったと伝えられています。
ところで、なぜ仮庵祭に火をともしたのでしょうか。それは今日の聖書箇 所と関係しています。21節以下をご覧ください。「主は彼らに先立って進 み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、 彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の 先頭を離れることはなかった」(21‐22節)。つまり、あの燭台の光は、 イスラエルの民が闇夜を旅した時に彼らを導いた火の柱を象徴するものだっ たのです。そして、この燭台が既に消えていたであろう祭りの終わりの日に、 主はこう叫ばれたのでした。「わたしは世の光である」と。
イスラエルは雲の柱、火の柱に導かれて約束の地へと旅をしました。私た ちは、世の光なる主イエスに導かれて、約束の御国へと向かいます。荒れ野 を旅するイスラエルの姿は、この世を旅する教会の姿でもあります。いにし えのイスラエルに私たち自身の姿を重ねつつ、今日の御言葉に耳を傾けまし ょう。
●遠回りの旅路
エジプトを出発したイスラエルの民が、約束の地、カナンの地に至る最も 近道は、地中海に沿ったペリシテ街道を行くルートでありました。しかし、 神は彼らをそこへは導かれず、葦の海へと通じる荒れ野の道へと向かわせら れたと書かれております。このように、エジプトを出た民について最初に書 かれておりますのは、彼らが遠回りをしたということなのです。
「遠回り」――それはイスラエルの旅を最も良く表現した言葉であろうと 思います。なんと、実際に彼らがカナンの地に入るのは、四十年を経て後の こととなるのです。いや、さらに言うならば、イスラエルの歴史そのものが、 曲がりくねった遠回りの道を歩んだ民の歴史であると言うことができるでし ょう。それは、キリストの教会においても同様です。あるいは、個人の人生 においても同じことが言えるでしょう。私たちはしばしば思います、なぜこ のような遠回りをしなくてはならなかったか、と。なぜなのでしょうか。な ぜ人はまっすぐにゴールに至ることができないのでしょうか。
私たちはその原因を、ある場合には、神に対する人間の不従順に帰するこ とができるでしょう。イスラエルの民が荒れ野を四十年さまよったことにつ いては、聖書は明らかに、それをもたらした人間の不従順について語ってお ります。また、約束の地に入った後、王国となったイスラエルは南北に分裂 いたします。そして、北王国も南王国もそれぞれアッシリアとバビロニアに よって滅ぼされます。南王国が滅ぼされる際、かつてソロモンによって建て られた神殿は破壊されます。破壊された神殿は、再びエルサレムに帰還した 捕囚民によって建て上げられます。しかし、その神殿もやがて失われます。 なんとも不毛な堂々巡りに見えます。聖書がそのような歴史の記述において、 人間の罪と不従順に言及していることは明らかです。
しかし、では神に従順であればすべてが順調に進み、近道を行くことがで きるのでしょうか。いや、必ずしもそうではなさそうです。少なくとも、今 日の聖書箇所はそのように語ってはおりません。神は民を、葦の海に通じる 荒れ野の道へと迂回させられました。それは決してイスラエルの民の不従順 の結果ではないのです。
●神の配慮と目的
むしろ私たちは、そこに神の配慮があったことを教えられております。地 中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは 後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へ と彼らを導かれたのだと言うのです。
私たちは後に、神の判断が間違ってはいなかったことを知らされます。民 には確かにその弱さがありました。荒れ野の旅路の厳しさの中で、彼らはこ のように不平を言い始めるのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかか って、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、 パンを腹いっぱい食べられたのに。…」(16・3)。このような弱さを持 つ民が、エジプトから解放された直後に戦いに巻き込まれたらどうなるか、 火を見るよりも明らかであったことでしょう。
神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。 もちろん、その神の意図は、人の目には隠されております。ですから、それ は人間にとってしばしば不愉快なことでしかありません。しかし、神の配慮 は後になって明らかになってくるものです。「神は彼らをペリシテ街道には 導かれなかった」と書かれていました。この「ペリシテ街道」(直訳すると 「ペリシテ人の地の道」)という呼び名はモーセの時代のものではありませ ん。後の時代のものです。そのように信仰の目をもって歴史を振り返る時に、 初めてそこに神の導きのおける特別な配慮があったことを見ることができた のでしょう。
さらに、私たちはあえて「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれているこ とをも見落としてはなりません。これは続く14章に直接関係します。葦の 海で何が起こるのでしょう。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追 い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥るのです。しかし、神の奇跡 により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。 これが後々まで語り継がれることになります葦の海での奇跡です。
それがいかなる事実であったのかは知る由もありません。しかし、いずれ にせよ、イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによること を経験するのであります。そして、さらに彼らはシナイ山に導かれます。そ こにおいて、彼らは神の恵みに基づいて十戒を与えられ、神との契約に入れ られるのです。
このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な 意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれました。 彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのです。 そして、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるもの でありました。彼らが進むべき道は、近道ではなく、「葦の海に通じる荒れ 野の道」でなくてはならなかったのです。
●神の約束に信頼して
さて、私たちはここで「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と 書かれていることにも注目したいと思います。モーセの行為の理由は、「ヨ セフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここ から一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせた からである」(同)と説明されております。そうしますと、ここでモーセは、 自分の先祖の誓いを果たしていることになります。
しかし、実は、このヨセフの言葉の前に、もう一つの言葉があるのです。 ヨセフは、この前にこう言っているのです。「わたしは間もなく死にます。 しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イ サク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50・2 4)。このように、人間の誓いの前に、神の誓いがあるのです。神の約束が あるのです。ヨセフが自分の骨について誓わせたのは、《神は必ず子孫を顧 みてくださり、約束の地に導き上ってくださる》という、神の真実への信頼 に基づいてそうしたのです。
ですから、モーセがヨセフの骨を携え上ったということは、単に誓いを果 たしたということではありません。これは、ヨセフの信仰を共有する行為に 他ならないのです。神の民は必ず約束の地に着くことができると信じている からこそ、骨を携えて上るのでしょう。そして、彼らが約束の地に着くこと ができるとするならば、それは彼らの力や強さによるのではなく、神の約束 によるのです。モーセもイスラエルの民も、ただ神の約束に信頼して、いわ ば骨と共に神の約束の言葉を携え上っているのです。
私たちは、神の救いの御業によるイスラエルの民の新しい出発が、信仰の 旅立ちが、直ちに約束の地における生活を意味していなかったことを忘れて はなりません。それは荒れ野の旅でした。遠回りに見える旅でした。しかし、 彼らには伝えられた神の約束の言葉がありました。ですから、彼らにとって 重要なことは、神の約束に信頼して、雲の柱、火の柱をもって導かれる主に、 安心して付いて行くことだったのです。
主イエスは言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗 闇の中を歩かず、命の光を持つ」。この言葉を与えられているキリストの教 会は、いかなる道を進むことになるのでしょうか。私たちは、いかなる旅路 を与えられるのでしょうか。迂回の連続なのでしょうか。厳しい荒れ野の旅 なのでしょうか。しかし、それがいかなるものであれ、私たちはそこに神の 配慮と目的があることを見失ってはなりません。私たちもまた、伝えられて いる神の約束にひたすら信頼して、終わりの日まで、導きの光なる主に従っ ていきたいと思います。