「天からのパン」
2002年5月19日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記16・1‐16
●不平を述べる民
今日の聖書箇所を読みましてすぐに気付きますことは、「不平」という言 葉が繰り返されているということです。この短い箇所に、新共同訳聖書では 七回、原文では、「不平」あるいは「不平を述べる」という言葉が八回も出 てきます。「不平を述べる」という行為は、私たちの生活において非常に身 近な行為です。この箇所において語られていることは、私たちにも深く関わ っている事柄です。
彼らの不平の言葉は3節に書かれております。彼らはモーセとアロンに向 かって言いました。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方 がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっ ぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会 衆を飢え死にさせようとしている」(3節)。
このような言葉が発せられたということは、次のいくつかの点を考えます と、たいへん驚くべきことです。
第一に、ここで不平を述べている人々は、出エジプトの出来事において神 の救いの御業を経験した人々であります。もともと彼らはエジプト人に仕え る奴隷でありました。彼らは苦しんでいたのです。「その間イスラエルの人 々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声 は神に届いた」(2・23)と書かれております。彼らが解放されたのは、 神がこの叫びに耳を傾けられ、恵みによって行動を起こされたからでした。 わずか一月ほど前に、彼らはその恵みを経験した人々なのです。
第二に、ここで不平を述べている人々は、葦の海の奇跡において神の恵み を経験した人々であります。背後からエジプト軍が追い迫ってきた時、彼ら の前に広がっていた葦の海は、彼らの終わりを意味していたはずでした。し かし、神はその海の中に道を開かれたのです。終わりを突き抜けてなお先へ と進み行く道を、絶望を突き抜けて進み行く道を、神は彼らの前に開かれた のです。彼らは、神の恵みによって開かれたその道を、確かに自分の足をも って歩いたはずでありました。
第三に、ここで不平を述べている人々は、かつて自らの口をもって、神の 恵みを高らかに讃美した人々であります。モーセとイスラエルの民がうたっ た讃美の歌が15章に記されております。彼らは主に向かってこう歌ったの です。「主に向かってわたしは歌おう。主は大いなる威光を現し、馬と乗り 手を海に投げ込まれた。主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いと なってくださった。この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。わたし の父の神、わたしは彼をあがめる」(15・1‐2)。
第四に、ここで不平を述べている人々は、この直前まで、泉のほとりに宿 営していた人々です。「彼らがエリムに着くと、そこには十二の泉があり、 七十本のなつめやしが茂っていた。その泉のほとりに彼らは宿営した」(1 5・27)と書かれています。そこへは雲の柱、火の柱が導いて来たのです。 すなわち、主が彼らを泉のほとりへと導いてくださったのです。彼らは直前 まで、その豊かさを経験していたはずでありました。
不平を述べているのは、そのような人々です。神を誉め称えたその舌の根 も乾かぬうちに、彼らは同じ口をもって不平を述べているのです。「我々は エジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っている のです。何という恩知らず。何という恥知らず。しかし、これは他人事でし ょうか。私たちは今日に至るまでの教会の歩みを思い、また私たち自身の生 活を思います時に、同様に恩知らず、恥知らずな姿を見出すのであります。 そして、ここに見るイスラエルの姿は、この午前の礼拝において、主の救い の御業をほめたたえ、主の泉のほとりに時を過ごしている私たちの、今日の 午後の姿であるかもしれません。
そして、また、同じように繰り返されている言葉があります。それは「主 が聞かれた」という言葉です。これは恐るべき言葉です。彼らはモーセとア ロンに対して不平を言っているのです。私たちが不平を言う時、私たちの視 界には人間の姿しか入っていないものです。しかし、モーセは言います。 「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べて いるのだ」(8節)と。主はイスラエルの民が助けを求める声を確かに聞か れました。同じ主は、民が不平を述べる声をも聞かれるのです。私たちは祈 る時、主が聞く耳を持っておられることを前提にしています。ならば、私た ちが不平を言っているときにも、主が同じように聞く耳を持っておられるこ とを前提としていなくてはならないはずです。
●パンを与え給う主
さて、イスラエルの民の不平を聞かれた主はどのようになされたでしょう か。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて 満腹にさせられる」(8節)とモーセは民に告げました。なんと主は、「エ ジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった」と言っている人 々を、主はなおも恵みをもって生かそうとしておられるのです。
モーセが民に告げたことは現実となりました。主の言葉のとおり、夕方に なると、うずらが飛んで来て、宿営を覆いました。朝には宿営の周りに露が 降り、その露が蒸発すると、うろこのような薄い食物が、大地の霜のように 地表を覆いました。彼らはそれをマナと名付けました。まさに、それは天か らのパンでありました。そして、実に彼らはその後四十年にわたって、荒れ 野の旅路において、この天からのパンによって生かされ、養われることにな るのです。
主がこのようにしてくださったのは、明らかに、ただ神の一方的な恵みに よるものでした。既に見てきましたように、彼らは決して、正しい人々、敬 虔な人々、信心深い人々ではなかったからです。彼らのありさまは、かつて エジプトにいた時と少しも変わってはいません。そのような彼らが、なおも 天からのパンを受けるということは、受けるべくして受ける当然の権利では ありませんでした。それは恵みであり、恵み以外の何ものでもなかったので す。その意味において、主がなされることは、出エジプトにおいても、その 後約束の地へと向かう旅においても、本質的には同じです。それは主の一方 的な恵みに他ならないのです。
しかし、そのように主が相応しくない者になおも恵みを示し給うところに は、主の目的があることを、私たちは知らねばなりません。12節において、 主は何と言っておられるでしょうか。「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、 朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたち の神、主であることを知るようになる」と主は言われるのです。パンが与え られるのは、単に満腹させるためではないのです。「わたしがあなたたちの 神、主であることを知るようになる」ことが目的であると語られているので す。パンを与えられた者は、そのことを知らなくてはならないのです。
「わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」。それは何 を意味しているのでしょうか。それは、言い換えるならば、私たちが恵み深 い主との命の交わりに生き、主を愛し、主を畏れ、主に信頼し、主に従って 生きるようになることに他なりません。それは、私たちが真に神の民として 生きるようになること、と言ってもよいでしょう。そのために、主はあえて 荒れ野に導かれ、荒れ野においてパンを与えられるのです。確かに、荒れ野 に導かれなければ分からないことがあります。荒れ野でなければ、人を本当 の意味で生かしてくださるのは主であることが、傲慢な私たち人間には、な かなか分からないものだからです。
このことが、後に申命記において別の言葉で表現されております。モーセ は四十年の地に、イスラエルの民にこう語りました。「あなたの神、主が導 かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを 苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどう かを知ろうとされた。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わ ったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、 人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるた めであった」(申命記8・2‐3)。
たいへん逆説的なことが語られています。主がパンを与えてくださったの は、人がパンだけで生きるのではなく、主の口から出るすべての言葉によっ て生きることを知らせるためであったと語られているのです。それゆえ、主 はただパンを与えただけではなく、民が従うべき命令をも与えられました。 主は、民がマナを蓄えることをお許しにならず、「毎日必要な分だけ集める 」(4節)ことを求められたのでした。すなわち、パンそのものに心を向け るのではなく、与えてくださった主に心を向け、日々主に信頼し、主に従う ことを求められたのです。主の言葉によって生きることにこそ真の生命があ ることを、彼らが知るためでありました。
出エジプト記に見るイスラエルの姿から明らかなように、もともと神の民 に相応しい者が神の民とされるのではありません。まことに相応しくない者 たちが、ただ神の一方的な恵みによって贖われ、救われ、神の民とされるの です。そのように救われた者にとって、荒れ野の旅というものは、真に神と 共に生きる神の民となるための通るべき課程であると言えるでしょう。そこ には神の教育があり、父の訓練があります。私たちもまた、その荒れ野の道 を通って、約束の地へと向かうのであります。