「主はわが旗」
2002年5月26日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記17・8‐16
主イエスは、十字架にかけられる前夜、弟子たちと食を共にし、多くのこ とを語られた後、次のように言われました。「これらのことを話したのは、 あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦 難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨ ハネ16・33)。
あなたが教会に来られた理由が単に苦難を逃れるためだけであるなら、た いへん残念ですが、教会はあなたの期待に添うことができません。なぜなら、 キリストははっきりと「あなたがたは世で苦難がある」と言っておられるか らです。聖書は、世の苦難から逃れることよりも大事なことを教えます。そ れは、既に世に勝っている御方と共に生きることです。その御方から、「勇 気を出しなさい」という言葉を聞きつつ、その御方と共に生き抜くことであ ります。
●あなたがたには世で苦難がある
神を信じ神と共に生きることが、決して苦難を免れる手段とはならないこ とは、既に旧約聖書におけるイスラエルの民の物語が明らかにしております。 彼らは神によってエジプトから導き出されました。彼らは、神の臨在のしる しである雲の柱、火の柱に導かれて旅をしました。彼らは確かに神と共にあ りました。しかし、神が彼らに歩ませられた道は、約束の地に容易にたどり 着ける平坦な近道などではありませんでした。むしろそれは遠回りの道であ りました。しかも、食料にも水にも事欠くような荒れ野の道でありました。 そして、本日お読みしたところには何が書いてあるでしょうか。彼らはつい に外敵に襲われることになるのです。民の存在そのものが危機にさらされる ことになりました。これが聖書に見る神の民の歩みです。信仰者の歩みです。 これが神に導かれて生きるということです。このように、「あなたがたは世 で苦難がある」という言葉は、キリストの弟子たちだけでなく、既に旧約聖 書の民においても、そのまま当てはまっていると言えるでしょう。
今日の聖書箇所を見てみましょう。イスラエルの民を襲ったのはアマレク と呼ばれる人々でした。彼らはシナイ半島を移動する遊牧民です。荒れ野の 厳しい環境に生きる彼らが、数少ない水源や食料を確保するためには、往々 にしてそれらを他から奪い取らざるを得なかったのでしょう。(ミディアン 人という他の遊牧民がパレスチナにまで略奪に来る様子が、後の士師記など にも出てきます。)ここで、特に「アマレクがレフィディムに来てイスラエ ルと戦った」と書かれております。この書き方からすると、アマレク人たち は、神によってイスラエルに与えられた水源(6節)を奪いに来たというこ となのかも知れません。
いずれにせよ、彼らがイスラエルと戦いに出てきたのは、イスラエルが荒 れ野の旅のゆえに弱っていたためであろうと推測されます。後にモーセが申 命記において次のように語っているからです。「あなたたちがエジプトを出 たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと 出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をす べて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった」(申命記25・18)。この ような事情のもと、イスラエルの民は、にわかに召集軍を組織し、自らの存 亡をかけてアマレクと戦わざるを得なかったのでした。
モーセはヨシュアに命じました。「男子を選び出し、アマレクとの戦いに 出陣させるがよい」(9節)。これはたいへん厳しいことでした。イスラエ ルの民は、もともと戦闘の訓練を受けたことのあるような人々ではありませ ん。彼らはつい二月ほど前まで奴隷だったのです。武器も十分にそろってい たとは思えません。しかし、この聖書箇所を見るかぎり、民はヨシュアの召 集に応じたようです。彼らはアマレクと戦うために立ち上がったのです。
これは驚くべきことです。17章前半の彼らの姿とずいぶん異なります。 17章前半には、モーセに向かって不平を述べている民の姿がありました。 「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜ま でも渇きで殺すためなのか」(3節)と言って、彼らはモーセを石で打ち殺 そうとしていたのです。しかし、今や不平など言っている場合ではなくなり ました。アマレクが襲来し、しかも弱っている者たちが既に手にかかって滅 ぼされつつあるのです。そのような時に、不平を言ってモーセを石で打ち殺 しても何ら解決にならないことは明らかでした。いわば、彼らは強いられて、 戦いのために立ち上がらざるを得なかったのです。確かに、私たちにもその ような時があろうかと思います。もはや他人の責任にして不平を言っている 場合ではなくなる時があります。自ら苦難に立ち向かわざるを得なくなる時 が来るのです。
●わたしは既に世に勝っている
ところが、この物語はたいへん奇妙なことに、ヨシュアと彼の率いる兵士 たちの戦いにスポットを当ててはおりません。むしろ、私たちは戦場にでは なく、そこから遠く離れた丘の頂きに目を向けさせられるのです。そこには モーセ、そしてアロンとフルがいます。そして、さらに奇妙なことが物語ら れております。「モーセが手を上げている間、イスラエルは優勢になり、手 を下ろすと、アマレクが優勢になった」(11節)と語られているのです。
まことに愚かしい話ではありませんか。こんな漫画のような物語を、いっ たい誰が真面目に受け取めることができるでしょうか!しかし、この一見馬 鹿馬鹿しいような記述の中に、聖書の持つ重大な主張が込められているので す。事の成り行きは現場のみによって決定するのではない、という主張であ ります。聖書においては、まったく無関係に見える別の場所におけることが、 事態を左右するのです。
そのような例は他にもたくさん出てきます。後の時代、エリコに勝利した イスラエルの民が、アイという小さな町に敗北したのは、アカンという一人 の人物の罪が原因であったと聖書は語ります(ヨシュア記7章)。ソロモン の後の時代に王国が分裂したのは、単に政治的な理由ではなく、主に対する ソロモンの背信のゆえであったと聖書は語ります(列王上11章)。ヒゼキ ヤの時代に、アッシリアに包囲されたエルサレムが救われたのは、ヒゼキヤ が神殿に上って祈ったからだと聖書は語ります(列王下19章)。もちろん、 もっとも際だっているのは、主イエスの十字架でしょう。聖書は、私たちの 永遠の運命が、あのゴルゴタの上での出来事と結びついていると言うのです!
なぜ、丘の上のモーセと戦場で戦っているイスラエルの民とが結びつくの でしょうか。それは、そこにイスラエルの兵士とモーセだけがいるのではな いからです。彼らの間には、現実に生きて働き給う神がおられるのです。神 がおられる限り、戦いのゆくえは、ただイスラエルとアマレクの力関係だけ では決まらないのです。
丘の上に立つモーセの手に目を向けましょう。そこには何が握られている でしょうか。そこには神の杖が握られております。その杖は、葦の海が分か れた時、モーセの手に握られていた杖です。主はモーセに言われたのです、 「杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて海を二つに分けなさい。そう すれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる」(14・ 16)と。そして、そのとおりになりました。また、レフィディムで彼らが 渇いた時、主はモーセに言われました。「見よ、わたしはホレブの岩の上で あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むこ とができる」(6節)。モーセがその杖で岩を打つと、そのとおりになりま した。そして、今、モーセはその神の杖を高々と掲げて丘の上に立っている のです。
「あなたがたには世で苦難がある」。確かにそうです。神に導かれたイス ラエルの民もそうでした。しかし、イスラエルはその苦難においてこそ、生 ける主の恵みを経験してきたのです。絶望を突き抜ける道が開かれ、荒れ野 にある乾いた岩から水がほとばしり出るのを彼らは確かに経験してきたので す。そして、今、アマレクとの戦いの中にも、生ける主がおられるのです。 その戦いという現実の中に、主が介入されるのです。モーセの手に握られた 神の杖は、その事実を指し示しているのです。
そのような神の介入があるからこそ、モーセが丘の上に立って手を上げる ことに意味がありました。古来より、ユダヤ教の伝統においても、キリスト 教の伝統においても、手を高々と上げるモーセの姿の中に、人々は祈る人の 姿を見てまいりました。もっとも、この聖書箇所には、モーセが祈っていた と明示的に語られているわけではありません。しかし、確かにこの場面は祈 りの何たるかを鮮やかに示していると言えるでしょう。
モーセとヨシュアとは、場所は遠く離れていましても、共に戦いの中にい るのです。祈る者は現場において戦う者と共に、戦いに参与しているのです。 ですから、どんなに手が重くなろうとも、モーセの手は上げられ続けなくて はなりませんでした。そのために、アロンとフルがモーセを助けなくてはな りませんでした。モーセは石の上に座り、アロンとフルはモーセの両側に立 って、彼の手を支えます。丘の上で必死になって手を上げ続ける人、それを 必死になって支える人たち。人の目には、おおよそ彼らの行為は滑稽以外の 何ものでもありません。戦場の戦いとはまったく無関係に見えます。祈りは しばしばそのようなものとして人の目に映ります。しかし、そうではないの です。丘の上の彼らも、戦場のヨシュアも、共に生ける主のもとにいるので す。
それゆえ、戦いが終わった時、モーセはヨシュアの功績を称えたり、戦勝 碑を建てたりなどしませんでした。そうではなく、祭壇を築いて、それを 「主はわが旗」と名付けたのです。その旗は、いわば「勝利の旗」に他なり ません。主こそ勝利の旗です。祈りの丘と現場の戦場とが一つとなって勝利 が得られた時、そこにおける本当の勝利者が誰であるかは、誰の目にも明ら かであったに違いありません。それは生ける神なる主御自身に他ならなかっ たのです。
主イエスは言われました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇 気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。確かに、キリスト者であ ることは、苦難を免れることを意味しません。しかし、あのイスラエルの民 のように、私たちもまた、祈りと現実の苦闘とが一つとなる時に、そこで既 に世に勝っているキリストと共にあることを経験させていただけるのです。 私たちもまた、「主はわが旗」であると、高らかに宣言して生きることが許 されているのであります。