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「わたしは主(十戒1)」

2002年6月2日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記20・1‐11

 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目に、シナイの荒れ野に到 着しました。彼らはそこに天幕を張り、シナイ山に向かって宿営します。そ して、主はこのシナイ山において、モーセを通して民が守るべき戒めを与え られました。これらの戒めは「十戒」として知られています。出エジプト記 20章に記されております。私たちは、この十戒を今週と来週の二回に分け て学びたいと思います。

●わたしは主、あなたの神

 私たちは、まず与えられている戒めの内容に入る前に、その前文とも言え る部分に目を留めたいと思います。次のように書かれております。「わたし は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神であ る」(2節)。十の戒めはこれに続きます。

 主は戒めを先に与えて、「これを守ったら私はあなたを救い出す。これら を守ったらあなたの神となる」と言われたのではありません。主の救いが戒 めの前にあるのです。主の恵みが戒めに先行しているのです。ハイデルベル ク信仰問答では、第三部で取り扱われております。その部分は「感謝につい て」と題されております。このように、十戒に示されているのは、先行する 神の恵みに対する感謝の応答としての生活なのです。

 では、人はいかなる仕方において、神の恵みに応えて生きるのでしょうか。 ある時、一人の律法学者が主イエスに尋ねました。「あらゆる掟のうちで、 どれが第一でしょうか」。主イエスは次のように答えられました。「イエス はお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わ たしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思 いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟 は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟 はほかにない」(マルコ12・29‐31)。

 神の恵みに対する相応しい応答は、神を愛することです。そして隣人を愛 することです。そして、この二つの掟は、明らかに十戒の前半と後半に対応 しています。今日お読みしました十戒の前半には、心を尽くし、精神を尽く し、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することについて書かれております。 後半には、自分を愛するように隣人を愛することについて書かれております。 つまり、十戒には、神の愛に応えて、どのように神を愛したらよいのか、隣 人を愛したらよいのかが、記されているのです。

●神を正しく礼拝すること

 では、どのように神を愛したら良いのでしょうか。本日の聖書箇所から明 らかなように、それは単に情緒的なことではありません。十戒の前半部分が 示しているように、それは一言で表現するならば、「神を正しく礼拝するこ と」です。

 主は言われました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはな らない」(3節)。「わたしをおいてほかに」とは「わたしと並べて」とい う意味です。神を神として正しく礼拝するということは、神ならぬ何ものを も神格化し絶対化して神と並べないことを意味します。

 この世の中においては、そのような神格化・絶対化が、あらゆる対象にお いて起こります。天体や自然が神格化されます。人間が神格化されることも あります。人間の作った体制が、国家が、権力が、富が、イデオロギーが、 崇高な理想が、ある場合には芸術が、神格化され絶対化されることもありま す。人間はそれらに依り頼み、それらは人間を支配するようになります。

 しかし、神は私たちを他の何もの手にも渡そうとはされません。「あなた には、わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令は、「わた しは主、あなたの神」という神の激しい主張に基づきます。神は御自分の民 との関係をいいかげんにはなさいません。神は「わたしはあなたの神である 」と言われるのです。そして、そう語りかけられる者を完全に御自分のもの とされるのです。他の何者の手にも渡そうとはされないのです。それゆえ、 私たちが神を愛するとは、ただ神の御手にのみ自分自身を引き渡すことに他 なりません。それこそが、まことの神礼拝です。そこにおいて、私たちは、 自分自身を含め、神ならぬ一切を相対化するのです。

 そして、第二に主は言われました。「あなたはいかなる像も造ってはなら ない」(4節)。この像とは、5節に書かれているように、ひれ伏したり、 仕えたりする対象となる像のことです。礼拝に用いる像のことです。それら を造るなと主は言われるのです。

 古代オリエントにおいて、神の像は神の居場所を意味しました。像のある ところに神はおられ、像のないところに神はおられないと考えられたのです。 神の像の製造、それは神を限定する行為に他なりませんでした。いわば人間 の意思のもとに神を置く行為、神を人間の手に所有する行為に他ならなかっ たのです。

 神を所有したい、神を自分の思い通りにしたいという欲求は、古くから人 間の心の内に横たわる、根元的な欲求であると言えるでしょう。逆に言えば、 そのように所有できない、自分の思い通りにならない存在を、人は神として 認めたくないのです。ある人が聖書を読んでこう言いました。「こんなの私 の考えている神さまと違う!」そうです、聖書の神は、どう考えても私たち の思考の内に手の内に捕まえることはできません。人間の思い通りに表現さ れた神の像の前にひれ伏す時、人はもはや神の前にはいないのです。神なら ぬものに対してひれ伏しているのです。

 信仰とは、私たちが神を自分のものにすることではありません。私たちが 神のものとなるのです。聖書には、私たちを完全に自分のものとすることを 欲せられる神の意志が、非常に激しい言葉で表現されています。「わたしは 主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(5節)。「熱情の神」は、通 常「ねたむ神」と訳されます。この御方は、御自分の民を他の何者の手にも 渡そうとはされないのです。完全に御自分のものとしなくてはおさまらない 御方なのです。

 さらに第三に、主は言われます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えて はならない」(7節)。「みだりに唱える」とは、主の名の呪術的な使用で す。神々の名を呪術に用いるという例は、古代社会にはいくらでも見出され ます。なぜ、呪術を行うのでしょう。それは超自然的な力を思い通りに使用 するためです。これもまた人間の根元的な欲求です。主なる神は、主の名を そのような仕方で用いてはならないと命じられたのです。それは言い換える ならば、主の力を自分のために思い通りに用いようとしてはならないという ことです。

 主は、そのような形においても、人に所有されることを拒まれます。主が 人を御自分のものとされるのです。さらに言うならば、主が求めておられる のは、「わたし」「あなた」という言葉に見られるように、向かい合った人 格的な関係です。愛が成り立つのは人格的な関係です。これこそが神を神と して礼拝することに他なりません。私たちが神を「あなた」としてではなく、 自分の思い通りになる「それ」として捉えることを、主は良しとされないの です。

●安息日を聖別せよ

 そこに第四の安息日の掟が続きます。「安息日を心に留め、これを聖別せ よ」(8節)。安息日というのは、週の第七日目です。特定の日です。この ように、第四の掟は「時間」に関わっています。時間に関わっているという ことは、直接私たちの具体的な生活に関わっているということです。

 既に見てきました三つの戒めは、神を正しく礼拝することにおいて、私た ちは自分自身を神の手に、神《のみ》の御手にゆだねるべきことを語ってお りました。繰り返しますが、神が私たちのものとなるのではなく、私たちが 神のものとして生きるのです。そして、そのように生きるということは抽象 的なことではありません。単に「わたしの心はあなたのものです」というよ うな情緒的なことでもありません。これは具体的に私たちが生きる「時間」 というものに関わっているのです。

 主は、「これを聖別せよ」と言われました。聖別せよとは神のものとする ということです。七日間のうちの一日を神のものとするのです。これが神の ものとして生きるということと直接的に結びついております。それは少し考 えれば誰にでも分かることです。七日の一日をも神のものとせず、七日のす べての時を人間の思いと都合にまかせて用いておいて、あるいはそのような 時を積み重ねた人生を生きておいて、「私は神を愛してます。私は神のもの です」とはたして言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。神を愛 し、神を礼拝して生きるということは、私たちが生きる時間にも関わる、非 常に具体的なことなのです。

 しかし、ここで私たちは、最初に見ましたように、これらの戒めが先行す る神の恵みに基づいているということを忘れてはなりません。「安息日」と いう言葉は「止まる」という言葉に由来します。これは「動きなさい」とい う命令ではなくて「止まりなさい」という命令であり、「働きなさい」とい う命令ではなく、「休みなさい」という命令なのです。私たちが止まること ができるのは、神が先に動いていてくださるからです。私たちが休むことが できるなら、それは神が先に働いていてくださるからです。

 そこで、聖書は、さらに私たちの目を神の創造の業に向けさせます。この 天地の創造に関して、私たちは何もしていないのです。私たちが何もしなく ても、この天地は成り立ったのです。だから、私たちは休んでも大丈夫なの です。安心して時を神のものとして良いのです。

 キリスト者は、第七日の土曜日を安息日として聖別することに代えて、第 一日であり第八日である日曜日を主の日として守ってきました。それは私た ちの救いに関わる決定的なことが、既にあの週の最初の日、復活の日になさ れていると信じるからです。だから、私たちは安心して、この主の日を神の ものとするのです。こうして、私たちは安心して主のものとして生き、主を 愛し、主を礼拝して生きるのであります。

 
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