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「隣人の命(十戒2)」

2002年6月9日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記20:12‐17

 先週に引き続き十戒を学びます。今週はその後半です。先週も申し上げま したように、十戒には先行する神の救いの恵みがあります。十戒に記されて いるのは、神の恵みへの応答としての生活です。神の恵みへの応答は、神を 愛し、隣人を愛することです。前半部分には、神を愛することについて記さ れておりました。後半部分には、隣人を愛することについて記されておりま す。

●神が与え給うた関係を重んじること

 主は言われました。「あなたの父母を敬え」(12節)。この戒めの言葉 を十戒の前半部分に数える人もいます。父母は家族という生活共同体におい て、神によって立てられた、神を代表する存在と見ることができます。そう しますと、父母との関係は、即神との関係を意味することになりますから、 むしろこの戒めは人との関係よりも、神との関係を表していることになるわ けです。このような見方は十分な根拠がありますし、前半後半五戒づつとな って形としても整います。

 しかし、やはり第一戒から第四戒までが直接的に神礼拝に関わっているこ とを考えますと、第五戒との間にはある区別があるようにも思えます。そし て、現実的には父母との関係もまた、その後に出てくるような殺人や姦淫や 盗みなどが入り込みうる人間同士の関係に他なりません。ということで、こ こではこの戒めを後半部分に入れて考えることにいたします。

 さて、そのようにこの戒めを後半部分に入れますと、ここで父母について 語っていること自体、大きな意味を持っているように思われます。いかなる 人にとっても、父母はある特定の個人です。しかも、それはある期間生活を 共有する、もっとも身近な個人です。隣人との関係について語る時、主はま ず目に見える具体的な特定の個人について語っているのです。

 博愛主義者になることは容易です。しかし、身近な個人を愛することは、 しばしば非常に困難です。世界の平和について語る人が、家族と平和である とは限りません。主はまず父母を指し示して言われます。「父母を敬いなさ い」と。

 「敬う」と訳されているのは「重んじる」という意味の言葉です。親が重 んじられるべき理由は特に記されてはおりません。これは、最終的には、父 母が重んじられるべき根拠が父母自身にあるのではないことを意味します。 そうではなく、根拠は主の命令にあります。主がそうお望みであるゆえに、 子は父母を重んじるのです。この場合、父母という隣人を愛することは、神 が与え給うた関係を重んじることに他なりません。

 ちなみに、これはしばしば「年老いた両親への尊敬と配慮」についての戒 めであると理解されてきました。確かに、親と子との関係は、互いの人生の 途上にて変化します。子が親に依存する期間が終わると、やがて親が子に依 存する期間に入ります。親が扶養し、養育し、教育する期間が永遠に続くわ けではありません。しかし、そのような関係の変化にかかわらず、子は父母 を重んじなくてはならないのです。理由は一つ、それは神がそう望んでおら れるからです。

 これは親もまた心に留めるべき神の言葉です。敬われるべき根拠を自分の 内に求め、子に対して一生懸命に自分自身を指し示している親は気の毒です。 親が子に指し示すべきであるのは、自分ではなく神なのです。神を指し示さ ないということは、父母が重んぜられるべき根拠を、親自らが放棄するする ことになるのです。

●神が隣人に与えられたものを重んじること

 次に短い言葉で表現された四つの戒めが続きます。「殺してはならない。 姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない 」(13‐16節)。ここには隣人の命、結婚、所有、名誉を重んじるべき ことが語られております。隣人を愛するとは、神が隣人に与えておられるも のを重んじることであります。

 主は「殺してはならない」(13節)と言われました。しかし、私たちは この戒めの言葉がある限定のもとにあることをも見落としてはなりません。 ここには法的手続きを経た死刑は含まれておりません。また、さらに困惑さ せられますのは、ここに戦争行為が含まれていないということです。実際、 同じ旧約聖書の中には、神が死刑を命じれられる場面や神が戦争を命じられ る場面が出てきます。これには誰もが抵抗を覚えることでしょう。そして、 そのような場面が、現代においてパレスチナで起こっている果てしない争い と重なってまいります。私たちは、旧約聖書に語られていることが、イエス ・キリストにおける啓示によって乗り越えられなくてはならない限界を持っ ていることを、やはり率直に認めなくてはならないでしょう。しかし、その 上でなおいくつかの点には注目しておきたいと思います。

 古代イスラエルにおいては、本来、死刑や戦争は、神の命令に基づいての み行われるものとされています。言い換えるならば、権力者の個人的な利益 のために死刑が行われてはならないし、単に国家の利益のために戦争が行わ れてはならないということであります。そのような力の行使は厳しく戒めら れております。まさに十戒の「殺してはならない」という言葉は、そのよう な人間の利益追求や怨念による殺人を禁止しているのです。

 そして、私たちが非常に抵抗を覚えるような極端な形ですが、神が死刑を 命じられたり戦争行為を命じられたりする記述は、そのように命を与え、あ るいは奪う権利を、あくまでも《神のみ》が保持しているという主張に他な りません。実際には、このことを認めないゆえに、もっと恐ろしいことが身 近な世界で起こっているではありませんか。隣人を愛することとは、まず命 についての最終的な権威をお持ちである神が与え給うた、隣人の命を重んじ ることです。

 次に主は「姦淫してはならない」(14節)と言われました。しかし、こ の戒めほど今日の社会に虚しく響くものはないかもしれません。二年ほど前、 不倫の末の心中を描いた渡辺淳一の「失楽園」が話題になりました。その本 につけられたキャッチコピーは「二人が育んだ絶対愛」でした。周りの人間 を不幸にしかしない行為のどこが「絶対愛」なのでしょう。しかし、結婚が 人間の必要を満たすための制度としか考えられず、性の交わりがエゴイステ ィックな欲求のはけ口でしかない社会では、それが「絶対愛」で通ってしま うのです。

 神は、結婚関係を外れた性行為を禁じます。それは姦淫は結婚を破壊し、 家庭を破壊するからです。姦淫が禁じられているのは、単に自分の結婚が壊 れるからではありません。他者の結婚を壊すからです。結婚の破壊は、姦淫 が表沙汰になった時に始まるのではありません。裏切りが生じた時点で既に 始まります。間違ってはなりません。結婚および性の交わりは、人からのも のではなく、神からのものです。それは神が祝福して与えてくださった神秘 に満ちた賜物です。それは神が与えた関係です。私たちはそのことに畏れを 抱かなくてはなりません。隣人を愛するとは、神が隣人に与え給うた賜物と 神の与えた関係を、畏れをもって最高度に重んじることです。

 主はまた「盗んではならない」(15節)と言われました。この戒めは、 もともと、人を盗むこと、すなわち誘拐することを禁じた戒めであったであ ろうと考える人もいます。誘拐するのは労働力にするためです。その場合、 その人から自由を奪うことになります。しかし、教会が伝統的にこれを「盗 み」の行為一般を禁じたものと理解してきたことも誤りとは言えないわけで、 その場合、奪い取られるのは自由だけでなく、所有一般ということになりま す。自由にせよ、所有物にせよ、真の所有者は神御自身です。その神が各々 に御心に従って分かち与えられるのです。隣人を愛するとは、神が分かち与 えられた隣人の所有を、真の所有者への畏れをもって、重んじることであり ます。

 主はさらに「隣人に関して偽証してはならない」(16節)と言われまし た。ここで語られているのは、もともとは法廷における証言のことです。法 廷における証言は、時として隣人の生死に関わります。ですから正しい証言 がなされることは重要です。しかし、偽りの証言が関わるのは単に刑罰だけ ではありません。根本的には隣人の名誉に関わります。偽りによって名誉が 奪われるのです。そして、そのような場面は、実は法廷以外にいくらでも見 出されます。無責任な小さなうわさ話という《虚偽の証言》によってさえ、 人の名誉は回復不可能なほどに損なわれ、人が死に追いやられることさえあ るのです。隣人を愛するとは、隣人の名誉を重んじこれを守ることでもある のです。

●先行する神の恵みに基づいて

 さて、最後に第十戒について考えましょう。主は言われました。「隣人の 家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを 一切欲してはならない」(17節)。第十戒は、このように、思考と欲望に ついて語っている点で、他とは異なると言えるでしょう。もっとも、この 「欲する」という言葉は、実際に奪い取る行為をも含むものです。しかし、 確かにここには人間の心の内に始まることについても語られているのです。

 私たちはここで、既に見てきました殺人や姦淫や盗みについても、問題は 既に行為として現れる前に心の中に始まっていることを考えさせられます。 使徒ヨハネはその手紙の中に「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ 3・15)と記しています。憎しみは既に心の中に始まっている殺人です。 主イエスも次のように語られました。「あなたがたも聞いているとおり、 『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな 思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである 」(マタイ5・27‐28)。そのように言われた時、確かに主は第七戒の 本質を語られたと言うことができるでしょう。

 十戒に先立って「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷 の家から導き出した神である」と語られておりました。この第十戒を読みま すと、改めてこの十戒が先行する神の恵みに基づいていることの重大さを思 わされます。これは神の恵みにあずかった神の民に与えられた戒めなのです。 隣人の家を欲するのは、自分の与えられている恵みの大きさが分からないか らです。

 私たちに必要なのは、隣人のものを自分のものにすることではなくて、既 に与えられている神の恵みを知り、それを喜び祝うことなのです。本当に欲 しなくてはならないのは、神の恵みを知ることであり、そして神の恵みの支 配が心の深き所にまで至ることなのです。その意味においても、やはり十戒 において求められている生活は、神を愛することについても、隣人を愛する ことについても、神の恵みに対する感謝の応答に他ならないのであります。

 
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