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「幕屋の建設」

2002年6月16日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記25・1‐9

 私たちは今日、出エジプト記25章の冒頭部分をお読みしました。この章 以降には、幕屋の建設、契約の箱や祭具の製造についての指示が記されてお ります。そして、35章以下には、実際にその指示どおりに、イスラエルの 民が幕屋を建設し、祭具を整えた次第が記されております。実に細々とした ことが延々と書かれていますので、退屈に思う方もあるかもしれません。こ れまでの、エジプト脱出のドラマチックな物語とは対照的です。聖書通読を 試みる人は、たいてい最初にここでつまずきます。しかし、このような箇所 も聖書の一部です。軽んじてはなりません。私たちは、今日、特にこれらの 記述に関して三つのことを心に留めたいと思います。

●わたしが示す作り方に従って

 私たちはまず、幕屋の建設と祭具の製造が、《神の命令に従ってなされた》 ということを心に留めなくてはなりません。次のように書かれております。 「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさ い」(9節)。幕屋は礼拝の場所です。祭具は礼拝に用いるものです。礼拝 は神の関心事です。いかなる仕方で礼拝されるかに、神は極めて深い関心を 持っておられます。モーセを通して実に細々としたことを指示なさったほど に!

 この礼拝に関する記述が出エジプト記の最後の大きな部分を占めているこ とは注目に値します。出エジプト記と言いますと、エジプトに下された災い や葦の海の奇跡などが思い起こされますが、それよりも大きな部分が礼拝に 関する記述のために割かれているのです。ここに出エジプト記の重点がある ことは明らかです。イスラエルの民は確かに苦役から解放されました。しか し、神がイスラエルの民をエジプトから導き出されたのは、単に苦役から解 放するためではないのです。神はイスラエルの民に十戒を与えました。しか し、出エジプトの目的は、ただ律法に従順な民を生み出すことではないので す。神がイスラエルの民を神ならぬファラオの支配から解放したのは、この 25章以下の命令を与えるためでした。すなわち、まことの王である主を礼 拝する民とするためであったのです。彼らは主を礼拝する民となるために救 われたのです。

 主を礼拝する民とされた彼らに、主は幕屋と祭具の作り方を指示されまし た。彼らは、自分たちの宗教的欲求を満足させるために、自分たちの好みに 従って幕屋や祭具を作ることは許されませんでした。あくまでも神の命令に 従って作ることを求められたのです。既に申しましたように、礼拝に関して は、神の求めが先にあるからです。ですから、神の求めることが実現されな くてはならないのです。言い換えるなら、礼拝においては、人間の欲求の充 足や人間の願望の実現が第一のことではないということです。

 しかし、そんな当たり前のことが、しばしば忘れられてしまうことも事実 です。自分の願いや欲求が礼拝において満たされるかどうかが、一番大事な ことのように思ってしまいます。「どんな礼拝を《わたしは》望んでいるか 」ということしか考えられなくなってしまいます。

 実は、イスラエルの民も同じでありました。典型的な失態が、この後に出 てきます。イスラエルの民が、雄牛の鋳造を作って拝んでしまうのです(出 エジプト記32章)。彼らが雄牛を作ったのは、神が命じられたからではあ りません。その像は自分たちのために造ったものです。彼らは雄牛の前に祭 壇を築いて熱狂しました。彼らはこれを「主の祭り」(32・5)と呼びま した。しかし、いかに主の祭りとして熱心に行われましても、それは異教の 祭り以外の何ものでもありませんでした。そして、このような過ちがイスラ エルの歴史において繰り返されてきたのです。

 このような礼拝に関する指示が、あえて聖書の中に延々と記されている理 由がそこにあります。もちろん、ここに記されていることが、今日そのまま 行われるわけではありません。しかし、礼拝に関しては、神が求めておられ ることがあるのだ、ということを私たちが思い起こすためには、このような 箇所をじっくりと読む必要があるのです。

●わたしは彼らの中に住むであろう

 次に、私たちは、この礼拝の場所、「聖なる所」が、特に「幕屋」と呼ば れていることを心に留めたいと思います。「幕屋」と訳されている言葉は、 「住む」という言葉に由来します。「住まい」という日本語が一番ぴったり くるかもしれません。

 神は「住まい」を求められました。しかも、イスラエルの民の手によって 造られる住まいを求められたのです。主はその作り方まで指示されました。 しかし、その作り方に従って造り上げられるものは、決して巨大な神殿の類 ではありませんでした。まさに「幕屋」という訳語が示しているように、移 動可能な組立式のテントのようなものです。よりによって、どうして主はそ のような住まいを求められたのでしょうか。

 そもそも、神が住まいを必要とされること自体が奇妙です。預言者イザヤ の書には次のように記されております。「主はこう言われる。天はわたしの 王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿(直訳は 「家」)を建てうるか」(イザヤ66・1)。これが本当ではありませんか。 本来、人が神の住まわれる家など、建て得ようはずがありません。しかし、 それにもかかわらず、イスラエルの民に、主の方から、移動式の住居を造る ことを求められたのです。そして、言われたのです、「わたしは彼らの中に 住むであろう」と。

 主が住まいを求められたのは、明らかに御自分のためではありません。神 は人の手で造った住まいなど必要ではないのです。それを必要としていたの は神ではなく、むしろ人間の方です。イスラエルの民は、やがてシナイから 旅立って、約束の地へと向かいます。彼らは荒れ野の旅を続けます。彼らは 荒れ果てた大地の上で生きていかなくてはなりません。餓えががあります。 渇きがあります。争いがあります。他者の罪と自らの罪のゆえに苦しみます。 まことに大地の上で営まれる生活は苦悩に満ちています。しかし、主はその 同じ大地の上に建てられた幕屋に住まうと言われたのです。いわば、主は天 幕住まいの生活につきあってくださるのです。地上における生活に、主が徹 底的に関わってくださることを、地上の幕屋を造らせることによって、イス ラエルにお示しになられたのです。

 これがイスラエルの民が私たちに伝えてくれた、主なる神の姿です。そし て、私たちはさらにイエス・キリストにおいて、同じ主なる神の姿に出会い ます。私たちは、キリストにおいて、地上を歩まれる神に出会います。キリ ストにおいて、苦悩に満ちた地上の生を共有される神に出会います。いや、 罪の裁きとしての死さえも共有してくださる神に出会うのです。主は大地の 上に生きる私たちに、徹底的に関わってくださる御方です。

 さらに、私たちは教会において、同じ主なる神の姿に出会います。地上に おける信仰者の共同体は、まことに破れの多い幕屋です。荒れ野の幕屋より も、よほどこちらの方が見窄らしいに違いありません。しかし、この地上に 存在する教会に、信仰者の交わりの中に、主は住んでくださると言われるの です。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住 んでいることを知らないのですか」(1コリント3・16)。イスラエルと 共に荒れ野を旅された主は、私たちのただ中にもお住まいくださるのです。 そこには限りない主の謙りがあります。そして、限りない主の慈しみがあり ます。そのことのゆえに、この幕屋が「聖なる所」となり、地上に生きる私 たちの礼拝の場ともなり得るのであります。

●献納物を持ってこさせなさい

 最後に私たちは、主が「わたしのもとに献納物を持って来させなさい」と 命じておられることを心に留めたいと思います。それは幕屋や祭具を造るた めです。幕屋や祭具は、人々が進んで心からささげる献納物によって造られ るのです。

 当然のことながら、「進んで心からささげる」という行為は、神への感謝 から生まれるものです。神への感謝は、神の救いの恵みへの応答です。既に 見ましたように、神の住まいは神の命令に従って造られます。しかし、その 材料は感謝によって備えられねばなりません。神の家は、感謝と従順とが一 つとなるところに建て上げられるのです。

 救いの応答として自発的にささげられるべきものは、「金、銀、青銅云々 」と3節以下に記されております。それぞれ貴重な品々です。実際に、人々 がささげる様子を記した箇所を読んでみますと、例えば次のように記されて います。「心動かされ、進んで心からする者は皆、臨在の幕屋の仕事とすべ ての作業、および祭服などに用いるために、主への献納物を携えて来た。進 んで心からする者は皆、男も女も次々と襟留め、耳輪、指輪、首飾り、およ びすべての金の飾りを携えて来て、みな金の献納物として主にささげた」 (35・21‐22)。不必要なものや余り物を持ってきたのではありませ ん。まさに自発的にささげるということは、為しえる最高のものをささげる ことでもあったのです。

 しかし、考えてみますならば、人にとって最高のものであれ、いかにこの 世において貴いものであれ、それ自体が神の栄光に相応しいものなどあり得 ません。そもそも、天地の造り主であり、真の所有者であられる御方が、そ の住まいのために、どうして人から材料を提供されねばならないのでしょう。 イスラエルの民が提供し得るものよりも、はるかに良き材料を自ら用意する ことがおできになるのに!しかし、主はあえて民が進んで心からささげる献 納物をお用いになられたのです。主が献げ物を受け取ってくださること自体 が、主の恵みでありました。その住まいの建設に用いてくださること自体が、 主の豊かな恵みであったのです。

 「あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられる ようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、 イエス・キリストを通して献げなさい」(1ペトロ2・5)。後にペトロが このように書いています。この言葉によるならば、神の家を造り上げる材料 は私たち自身です。神の救いの恵みに感謝して、進んで心から献げる私たち 自身です。もとより、神の家を造り上げるならば、神御自身がもっと良い材 料を用意することはできるでしょう。にもかかわらず、主は私たちを神の家 を造り上げる石として用いてくださるのです。私たちが、地上における神の すまいの一部とされているということは、なんという光栄に満ちたことでし ょうか。

 
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