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「金の子牛」

2002年6月23日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記32・1‐14

 モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集ま って来て言いました。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。 エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったの か分からないからです」(1節)。

 モーセはどのくらい山の上にいたのでしょう。24章の最後にはこう書か れておりました。「モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四 十日四十夜山にいた」(24・18)。山の上では何が起こっていたのでし ょうか。出エジプト記の話の流れとしては25章以下が続きます。山の上で は、神がモーセに、幕屋と祭具の作り方などに関する諸々の指示を与えてお られたのです(25‐31章)。そしてさらに、神はモーセに二枚の掟の板 を与えられたのでした(31・18)。これが今日お読みした箇所の直前に 書かれていることです。

 このように、山の上では、イスラエルが神と共に生きるために、極めて重 要なことが語られていたのです。しかし、山の下にいたイスラエルの人々は、 モーセが帰るのを待つことができませんでした。イスラエルの民は、アロン のもとに集まり、「我々に先だって進む神々を造ってください」と願ったの です。アロンはこれに応えて若い雄牛の鋳像を造ります。そして、イスラエ ルの民は、その前に築かれた祭壇に献げ物をささげ、祭りを行ったのでした。

 彼らの行為は、明らかに十戒の第二戒に反しています。「あなたはいかな る像も造ってはならない」(20・4)と命じられているからです。十戒を 与えられた民が最初にしたこと、それは戒めを破ることでした。戒めを与え られながら、そして、それを守ると約束しておきながら(24・3)、実際 には守りませんでした。そのような姿は他人事ではありません。それはそれ として、私たちもまた身につまされる姿です。しかし、私たちは、彼らの問 題を、ただ単に「神との約束を破ったこと」であると考えてはなりません。 彼らの行為に現れた問題の根は、もっと深いところにあるのです。

●先立って進む神々を求めた民

 そもそも、彼らが神の戒めに反してまで、「先立って進む神々」の製造を 求めた理由は何でしょうか。彼らはこう言って願ったのです。「エジプトの 国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からな いからです」と。これが理由でした。

 ここで、モーセは「エジプトの国から我々を導き上った人」と表現されて います。それは間違いではありません。しかし、モーセは自分自身の力と働 きによって、彼らをエジプトから解放し、荒れ野の旅を導いたわけではあり ませんでした。それはモーセの業ではなく、神の御業なのです。神の恵みの 御業に他ならないのです。主はその事実を次のように表現されました。「あ なたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の 翼に乗せて、わたしのもとに連れてきたことを」(19・4)。イスラエル の民は、モーセを用いて彼らをエジプトの国から彼らを導き上ったのが神御 自身であることを、確かに見たはずでした。そして、彼らを導き上ったのが 神であるならば、約束の地へと導かれるのも同じ神なのです。そのような神 と民との関係は、本来、モーセがいるから成り立つのではありません。モー セがたとえどうなろうと変わらないはずなのです。

 しかし、イスラエルの人々には、結局はモーセしか見えていませんでした。 モーセの姿が目の前から失われることによって、そのことが明らかにされた のです。モーセは帰って来ませんでした。もしかしたら、二度と帰って来な いかもしれません。彼らは動揺しました。そして、モーセが失われることに よって、神の戒めに従った生活も、神の民としての秩序も崩壊してしまった のです。

 同じことが、私たちにも起こり得ます。結局は人間しか見えていなければ、 同じことが起こります。ナザレのイエスという一人の「人間」しか見えてい ないなら、教会の中に「人間の集まり」しか見えていないなら、同じことが 起こります。

 私たちが真に目を向けるべきであるのは、ナザレのイエスという一人の御 人格における、《神の》恵みの御業なのです。教会という人間の集まりを通 して、キリスト者というごく普通の人間を通して現される《神の》恵みの御 業なのです。私たちは、キリストにおいて、キリストの体である教会におい て、《神の》言葉を聞き、《神の》救いに与るのです。

 神への従順というものは、神の恵みの御業に目を向けてこそ初めて成り立 ちます。教会生活が、牧師や他のキリスト者との関係でしか成り立っていな いなら、その関係が崩れた時に、教会生活も崩れます。牧師や特定のキリス ト者が失われた時に、教会生活も失われます。神への従順が神の御業への応 答ではなく、ただ人との関係によって成り立っているならば、その関係が失 われた時に、神への従順も失われます。いや、それはもともと神への従順な どではなかったのです。

 モーセを見失ったイスラエルの民は「先立って進む神々」を求めました。 不思議だと思いませんか。モーセという指導者を失って、他の別の指導者を 求めた、というのならまだ分かります。神の言葉に従って生きるために、モ ーセに代わる他の人を求めたというのなら話はまだ分かります。しかし、彼 らは「先立って進む神々」を求めたのです。「先立って進む」と言いまして も、それは子牛の像なのです。子牛の像が先立って進むわけないじゃありま せんか。それは結局自分たちが運ぶのです。自分たちが望むところに運んで いけるものです。そのような像によって、人は従順を要求されはしません。 つまり、彼らはそこで従順を要求されない宗教を求めたということなのです。

 それは彼らの行為からも明らかです。彼ら子牛の像の前で「主の祭り」を 行いました。そこで彼らは犠牲をささげます。そして「民は座って飲み食い し、立っては戯れた」と書かれております。「戯れた」という言葉が性的な ニュアンスを持つことを、多くの学者は指摘します。恐らくそこで行われて いたのは乱交です。古代オリエントの豊穣神礼拝において決して珍しくはな かった行為です。それが主の名において行われたのでした。それが神の恵み の御業に対する応答ではないことは明らかです。このように、モーセが失わ れた時、神への従順も失われたのでした。神御自身に思いを向けていなかっ たからです。

●災いを思い直される神

 さて、山の上のことに話を移しましょう。7節以下には、山の上における 主とモーセのやりとりが記されております。主はモーセに言われました。 「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早く もわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、 いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から 導き上った神々だ』と叫んでいる」(7‐8節)。ここには主とイスラエル の民との断絶が言い表されています。もはや主はイスラエルの民を「わたし の民」とは呼びません。「あなたがエジプトの国から導き上ったあなたの民 」(直訳)と呼ぶのです。

 そして、神はそのような民に対する裁きを宣告されます。「わたしはこの 民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。 わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽く し、あなたを大いなる民とする」(9‐10節)。

 これに対してモーセは主をなだめて、民のために執り成しました。彼はあ くまでもイスラエルが神の民であると訴えます。「主よ、どうして御自分の 民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手 をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」(11節)。 そして、「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直し てください」(12節)と願い求めたのでした。この執り成しのゆえに、 「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」(14節) のです。

 それにしても、奇妙だと思いませんか。イスラエルの民を滅ぼし尽くして モーセだけを残し、彼から新しい民を造ると主は言われたのです。しかし、 もしそのつもりであるなら、どうして「直ちに下山せよ」とモーセに命じる 必要があるでしょうか。滅ぼされる民のところにモーセを戻らせても意味が ないでしょう。そもそも、どうして民を滅ぼそうとしていることをモーセに 告げる必要があるでしょう。どうして、裁きについてモーセに教えた上で、 イスラエルの民のもとに行かせる必要があるのでしょうか。神はすぐにでも イスラエルの民を滅ぼし尽くすことがおできになるのに!

 主はわざわざ御自分の怒りを露わにされ、イスラエルに対する裁きを宣告 されました。まるで、モーセが執り成すことを期待しているかのようです。 しかし、この箇所について思い巡らしていますと、聖書の他の様々な箇所が 思い浮かんでまいります。そう言えば、同じことを、主はイザヤになさいま した。エレミヤになさいました。エゼキエルになさいました。アモス、ホセ ア、ミカ、などなど、要するに預言者と呼ばれる人々に対して、主は同じこ とをなさったのです。民の罪を明らかにし、民に対する裁きを明らかにし、 それを語られた上で預言者を遣わされたのです。実に、ここに見る主の姿は、 聖書全体を貫いているのです。

 考えて見てください。山の上において、主はモーセに幕屋の作り方を語っ ておられたのです。主はモーセに「わたしのための聖なる所を彼らに造らせ なさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(25・8)と語っておられた のです。イスラエルの民が「神々を造ってください」とアロンに要求してい たときにです。主はイスラエルの民について「わたしはこの民を見てきたが、 実にかたくなな民である」と言われました。確かにそうなのだと思います。 しかし、主はそのような民のただ中に住み、彼らと共に歩もうとしておられ たのです。民が滅びることは、本来の神の御心ではないのです。神の御心は、 民が立ち帰って生きることなのです。

 最後に預言者エゼキエルの言葉をお読みして終わります。お聞きください。 「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜 ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、 立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たち は死んでよいだろうか」(エゼキエル33・11)。

 
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