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「安息日」

2002年6月30日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 出エジプト記20・8‐11

 今日与えられています御言葉は、安息日について記している、十戒の中の 第四戒の部分です。既に四週間前に一度お読みしました。しかし、三か月に 渡って出エジプト記を読んでまいりましたその締めくくりとして、改めて安 息日律法を取り上げることは意味あることであろうと思います。エジプトか ら解放され主を礼拝する民とされたイスラエルと私たち自身とを重ね合わせ ながら、この御言葉の意味するとことを御一緒に考えたいと思います。

●神の御業を心に留める日

 主は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と言われました。以前申しま したように、「安息日」という言葉は「止まる」という動詞に由来します。 命じられていることは「止まりなさい」ということであり、「休みなさい」 ということです。そのようなことが命じられる理由については、11節に次 のように記されています。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべて のものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたの である」(11節)。このように、安息日律法の根拠として挙げられている のは、神の天地創造の御業です。

 安息日は、天地創造の御業を心に留めるべき日です。創世記一章は神によ る天地創造を、実に印象的な仕方で描いています。人間は最後に造られまし た。そして、すべてが創造され、備えられたところに、人間は置かれたので す。天地のすべてが造られた時、人はまだそこにいませんでした。人が働い たのではなく、神が働かれたのです。ですから、人間がこの世界を支えて保 っているのではなく、神が支えて保っているのです。私たちが自分で自分を 生かしているのではなく、神が私たちに必要なものを備えて生かしてくださ っているのです。たとえ神の創造を信じない人であっても、まさか人間が必 要なすべてを備えたと主張することはないでしょう。私たち自身、気付いた 時には、すべてが備えられていたのです。そのように、天地創造の素朴な物 語が伝えているのは、この世界を今もなお支え、私たちをその中に生かし給 う、神の愛と恵みに満ちた御業です。

 安息日は、そのような神の愛と恵みに満ちた御業を思う日です。そのよう な日が与えられているのは、私たちが真に安息するためです。神は七日目に 休まれました。神の安息がそこにあります。そして、神は御自分が安息され るだけでなく、その安息に私たちを与らせようとしておられます。私たちは、 最終的に、神の安息に完全な仕方であずかることが約束されております(ヘ ブライ4・1)。そして、私たちはその希望を抱きつつ、今この時から、安 息日において、神の安息に与りはじめるのです。

 ところで、十戒そのものは、出エジプト記だけでなく申命記の中にも記さ れております。当然のことながら、安息日についても命じられています。し かし、申命記の場合、安息日が命じられている理由が若干異なります。次の ように記されております。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、 あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを 思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう 命じられたのである」(申命記5・15)。このように、申命記において安 息日を守る根拠として挙げられているのは、神の救いの御業であります。

 安息日は神の創造の御業を思う日であると同時に、神の救いの御業を思う べき日でもあります。この世界は、神の愛と恵みに満ちた創造の御業によっ て造られた世界です。しかし、同時に、この世界は神の愛を拒否し、神に逆 らっている世界であり、それゆえに苦しみと悲しみに満ちた世界であり、神 の救いを必要としている世界です。そのような世界のただ中に、イスラエル の民もまた存在していました。そして、エジプトの国で奴隷であった彼らは、 主の力ある御手と御腕によって救われたのです。

 救われたイスラエルの民は何を見たのでしょうか。彼らは、天地の造り主 なる神は、力ある御手と御腕とを伸ばし給う御方でもあることを見たのです。 それゆえに、彼らにとって、天地創造の物語は、単なる世界の起源を教える 物語ではありませんでした。イスラエルにとって、抽象的な天地創造の概念 などあり得ないのです。なぜなら、彼らは造られた世界の中に手を伸ばされ る神、歴史の中に生きて働き給う救いの神を知ったからであります。そのこ とを知った民に、神の救いを思い起こす日として、神は安息日を守ることを 命じられました。この世界が確かに神の世界であり、神の愛の対象であるこ とを、神はイスラエルに現されました。そして、その安息日を守る民を通し て、この世界に現そうとされたのです。

 このように、安息日は神の創造の御業を思う日であり、神の救いの御業を 思う日であります。普段、人間は自分の働きについて思い巡らしながら生き ているものです。ある時は自分の働きの大きさについて誇り、ある時は自分 の働きの小ささについて卑下したり嘆いたりするものです。しかし、安息日 は、徹頭徹尾、神の御業について思い巡らす日であり、その御業のただ中に 自分があることを思う日であります。

 それは、週の第七の日を聖別するのではなく、週の第一日を聖別している 私たちにおいても同じです。教会は極めて早い時期から、週の第一の日を聖 別し、それを「主の日」として守るようになりました。それは、その日がキ リストの復活の記念の日だからです。

 キリストはこの世の赤ん坊と同じように、母の胎から生まれました。キリ ストの十字架はこの世界のただ中に立てられました。罪の贖いはこの世にお いて流されたキリストの血によってなされました。そして、キリストの復活 は、この世に生きる弟子たちに現されました。そして、彼らは復活の証人と してこの世に遣わされました。キリストにおいて起こった出来事は、この世 界が神の世界であり、神に愛されている世界であることを明らかに示してい ます。キリストにおいて起こった出来事は、神が救いの神であり、この世に 生きている私たちを罪と死の支配から救ってくださる方であることを明らか に示しているのです。ですから、復活の記念である主の日は、徹頭徹尾、神 の恵みの御業を思う日であります。それは安息日とは異なる日ではなく、む しろ安息日の意味するところが完全に実現される日なのです。

●人のために定められた安息日

 このように、安息日は何にもまさる神からの賜物です。命令であると同時 に賜物なのです。主イエスが「安息日は、人のために定められた。人が安息 日のためにあるのではない」(マルコ2・27)と言われたとおりです。あ るユダヤ教のラビが次のように書いていました。「安息日がなければ、ユダ ヤ人は消え去っていたに違いない。ユダヤ人が安息日を守ってきただけでな く、安息日がユダヤ人を守ってきたのである」と。それは真実な言葉です。 同じことがキリスト者についても言えるでしょう。キリスト者が主の日を守 ってきたというよりも、主の日がキリスト者を守ってきたのです。私たちに 与えられている「主の日」は神の賜物なのです。

 しかし、安息日が人のために与えられた神の賜物であることが、常に理解 されてきたわけではありません。マルコによる福音書3章1節以下には、次 のような出来事が記されております。「イエスはまた会堂にお入りになった。 そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日に この人の病気をいやされるかどうか、注目していた。イエスは手の萎えた人 に、『真ん中に立ちなさい』と言われた。そして人々にこう言われた。『安 息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救 うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々 を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしな さい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。ファリサイ派の人々 は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そ うかと相談し始めた」(マルコ3・1‐5)。

 憎しみと敵意とをもって安息日を過ごしている人々の姿がそこにあります。 彼らはこの世の悪人ではありません。秩序を乱す人々でもありません。むし ろ、真剣に安息日の律法を守ってきた人々です。「七日目は、あなたの神、 主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」という言葉を文字 通り真実に受け止め、何が「仕事」に当たるかを事細かに論じ、そして定め た禁止事項を真剣に守ってきた人々なのです。しかし、残念なことに、彼ら にとって安息日は賜物ではありませんでした。安息日の律法を真剣に守れば 守るほど、「守っている」という自分の行為にしか意識がいかなくなってい たのです。その安息日を与えてくださった神に、神の恵みの御業に目が向か なくなっていたのです。

 安息日を神の恵みとして受け止められなかった彼らは、目の前に起こって いる神の恵みの御業をも受け止めることができませんでした。安息日を神の 賜物として共に喜べなかった彼らは、神によって癒された人の喜びをも共有 することができませんでした。むしろ、彼らは敵意に満たされてその日を過 ごします。キリスト抹殺の相談をして過ごしたのです。何という安息日の守 り方でしょうか。しかし、主の日を守る私たちが、そうならないとは限りま せん。神の恵みの御業を思わず、主の日が恵みの賜物であることを忘れてし まうなら、私たちにも同じことが起こります。

 「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしては ならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の 門の中に寄留する人々も同様である」(10節)と主は言われました。主の 望んでおられることは、ただ人をストップさせることではありません。主が 望んでおられるのは、彼らが皆共に、神の恵みの御業を喜び祝うことです。 男女の奴隷が安息日を守るためには、主人が彼らを休ませなくてはなりませ ん。しかし、それはただ単に人道的見地から命じられているのではありませ ん。彼らが共に喜び祝うためです。そうです、家畜も含めて皆が共に神の安 息に与り、神の御業を喜び祝うようになることを、神は望んでおられたので す。そして、キリストの復活を記念して主の日を守る私たちに、神はなお一 層そのことを望んでおられるに違いありません。

 
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