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「約束を待つ」

2002年7月7日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録1・1‐14

●大事なのは天国のことだけ?

 キリスト教が天国のことにしか関心がない人間を作り出す宗教であると思 っている人は少なくはないようです。私もかつてそのように思っていました。 その責任は教会の側にもあろうかと思います。実際、天国のことにしか関心 のないキリスト者というものが、キリスト教の歴史の中には存在してきたし、 今日も存在しているからです。簡単に言えば、次のような信仰の持ち方です。 「この地上に生きている間には苦しいことが多いけれど、ともあれ我慢して 生きましょう。天国に行ったら良いことが待っていますから。地上の生は通 過点に過ぎません。本質的に重要なものは地上にはありません。天にありま す。私たちの最終的な目的は天にあるのです」。そのような人にとって、例 えば、キリストを信じて罪の赦しをいただくことは、天国に入るための手段 に他なりません。キリストを信じる信仰は、天国に入るための入場券に喩え られます。この地上において為すべき最も大事な務めは、自分と同じように 天国に入るための入場券を、できるだけ多くの人に渡してあげることになる でしょう。事実、伝道とはそのようなものであると考えている人は、案外多 いものです。

 しかし、地上の生は、本当に単に天国に行くための通過点に過ぎないので しょうか。あるいは、古代のある教父たちが考えたように、刑罰の場、ある いは浄化の場でしかないのでしょうか。私たちが泣いたり笑ったり、怒った り喜んだりする、ごく当たり前のこの地上の生に、本質的な意義はないので しょうか。人間が地上において作り出す社会や様々な文化的な営みには、本 質的な意義がないのでしょうか。この地上において展開される人間の歴史に は意味がないのでしょうか。所詮暫定的なもの、滅び行くもの、消え去るも のでしかないのでしょうか。

 いいえ、どうも聖書そのものは、そのように語ってはいないようです。む しろ、その正反対です。聖書を素直に読むならば、この地上において営まれ る人間の生活に、この地上に起こる出来事に、聖書が極めて深い関心を持っ ていることが分かります。あえて言うならば、本来、キリスト教ほど、地上 の生を重く受け止める宗教はないのです。

 聖書の書き出しを考えてもみてください。「初めに、神は天地を創造され た」(創世記1・1)。これが聖書の最初の言葉です。神は天だけでなく地 も創造されたのです。聖書は、この地上の世界を、神が創造された世界とし て語るのです。聖書は創造物語において繰り返します。「神はこれを見て、 良しとされた」。この被造物世界は、本来、神の良しとされた良き世界なの です。

 そのような地の上にある世界のただ中にこそ、神は御自分の民を持とうと されたのでした。神は天使たちを集めて御自分の民としたのではありません。 歴史の中に現れたイスラエルの民を御自分の民とされたのです。そして、地 上に生きる彼らと共に住むと言われました(出25・8)。地上に作られた 幕屋をもって、神は御自分の住まいとされました。そのように神はイスラエ ルと共に歩まれ、彼らを約束の《地》に導き入れられたのです。神は彼らが 約束の地においていかなる生活を営むかに、深い関心を持たれました。神が 彼らに与えた律法は、天に行った時に必要になるものではなく、すべてこの 地上の生活に関わることでした。

 やがて、そのようなイスラエルの民の歴史を通して、神はこの地上にキリ ストを与えられました。御子なる神は肉体を取られ、私たちと同じこの地上 の生活を営まれたのです。この御子の受肉ほど、神がこの地上の生を徹底的 に重んじておられることを例証するものはありません。そして、神の愛は、 天においてではなく、この地上において現されたのです。罪の贖いの十字架 は、この地の上に立てられたのです。そして、復活したキリストは、この地 上に生きる弟子たちに現れました。キリストは、「四十日にわたって彼らに 現れ、神の国について話された」(3節)のです。

 こうしてさらに、キリストの昇天が続きます。9節にはこう書かれていま す。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、 雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(9節)。――おや?やっぱり 大事なのは「天」じゃないですか。最終的にキリストが帰って行かれたのは 天じゃないですか。キリストが取られたこの地上の生も、結局は通過点に過 ぎなかったではないですか。私たちも、キリストが最終的に帰って行かれた ところに目を向け、天を見上げて生きるべきではありませんか。

 いいえ、話しはそこで終わってはおりません。天を見上げていた弟子たち のそばに、白い服を着た二人の人(天使?)が立ってこう言いました。「ガ リラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて 天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様 で、またおいでになる」(11節)。キリストは行かれたままではありませ ん。再び来られるのです。キリストの昇天は、いわば「間奏曲」に過ぎない のです。

 もちろん、キリストの昇天とかキリストの再臨とかは、視覚的に考えるな らば、まったく信じ難いし、理解し難いことであろうと思います。上にその まま昇っていけば、天に行くのではなくて宇宙に出てしまうことは、小学生 だって知っています。しかし、この実に素朴な描写が意味するところは極め て明快であるし、重要なことであります。それは神の関心が最終的には天に のみ向けられているのではなくて、この地上に向けられているのだ、という ことです。正確に言うならば、神は天と地をあわせたこの被造物世界全体を 救いの対象としているのであり、そこにこそ神は究極の関心を向けておられ るのだ、ということです。

 このように、私たちがこの地上で営む生活は神の関心事なのです。私たち の人生は神の関心事なのです。私たちの余生が長かろうが、短かろうが、世 界中を駆け回っていようが、床の上に寝たきりであろうが、私たちのこの地 上における生活は、神の目に徹底的に重大な意義を持っているのです。この 地上で起こっているすべての出来事は神の関心事です。人間が作る社会も、 人間の文化的な営みも、この地上において織りなされる世界の歴史も、すべ て神の関心事なのです。

●聖霊を待ち望む

 それゆえに、私たちはキリストが教えてくださったように、「御国が来ま すように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタ イ6・10)と祈ります。間違ってはなりません。私たちは「天国に行けま すように。天国に入れますように」と祈っているのではありません。神の国 がこの地上に「来る」ことを祈り求めているのです。神の恵みの支配が、こ の地上に完全に打ち立てられることを祈り求めているのです。それはどうい う意味かと申しますと、天におけるように《地の上にも》神の御心が行われ るようになることです。罪と死の力が支配しているこの地上に、それゆえに 嘆きと悲痛な叫びに満ちたこの地上に、神の愛と恵みの支配が現実に打ち立 てられ、神の救いの御心が実現することを祈り求めているのです。私たちは、 自分がこの悲惨な世界から救われることを祈り求めているのではなくて、私 たち自身を含めたこの被造物世界全体が、罪と死から救われることを祈り求 めているのです。

 そのように祈りつつ、この地上の生活を真剣に重く受け止めて生きてこそ、 主イエスが弟子たちに命じられた言葉が、私たちにとっても大きな意味を持 つのです。主は弟子たちに次のように命じられました。「エルサレムを離れ ず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水 で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるから である」(使徒1・4‐5)。

 「父の約束されたもの」とは聖霊です。神の霊です。この地上において生 きて働き給う神の霊です。この地上に生きる私たちの内に住まわれ、私たち を神の宮となし、この地上に生きる私たちをキリストの体となし、私たちを 用いてこの地上に御心を実現し給う神の霊です。

 この地上における生活に大して意味がないならば、この世界がただ滅びゆ くだけの無意味な世界でしかないならば、聖霊を待ち望むことに意味はあり ません。天が私たちの究極の目標であるならば、地上に働かれる聖霊につい て考える必要もなければ求める必要もないのです。しかし、本気で「御心が 行われますように、天におけるように《地の上にも》」と願うならば、聖霊 の働きを求めざるを得ないでしょう。もしそうでないならば、自分の力で御 心を実現できると考えている、まったくの思い上がりか愚か者です。

 主は、「父が約束されたものを待ちなさい」と言われました。ここで「待 ちなさい」と言われていることは極めて重要です。第一に、《待つ》という ことは信じることに他なりません。信じない者は待つことができません。待 つべきであるのは、向こうから来るからです。こちらの努力によって、こち らから行って獲得するのであれば、待つ必要はありません。向こうから来る のを待つためには、信じなくてはなりません。約束してくださった方に信頼 しなくてはなりません。聖霊の満たしが純粋に信仰によることを、主イエス は弟子たちに示されたのです。ですから、弟子たちもまた漫然と待っていた のではありません。後に見るように、彼らは共に集まり、祈って待ち望んだ のです。神への信頼は、具体的には祈りとなって現れるのです。

 第二に、《待つ》ということは、完全に受け身になることを意味します。 聖霊なる神においでいただくのです。私たちが主なのではなく、聖霊が主な のです。「父の約束されたもの」と訳されているからと言って、聖霊を単な る非人格的な力やエネルギーのごとくに考えてはなりません。聖霊が一種の 力のようなものであるならば、私たちはそれをどのように用いるかを考える ことでしょう。しかし、聖霊が神であるならば、私たちは用いる側ではなく、 用いられる側にいることになります。私たちは支配する側ではなく、支配さ れる側にいるのです。私たちが祈り待ち望むべきことは、聖霊に完全に支配 していただくことです。この地上に神の支配が打ち立てられることを望むな ら、まず私たち自身が神の霊に支配されなくてはなりません。神の御心が実 現されることを願うなら、まず神の御心が私たちの内に実現することを願い 求めなくてはなりません。

 さて、私たちはこれから九月まで、共に使徒言行録を読んでまいります。 私たちは初期のキリスト者がこの地上においてどのように生き、そしてどの ように教会を形成し、宣教の働きを進めていったかを見ることになります。 しかし、ここに本当の意味で書き記されているのは、《聖霊が》この地上に いかなる形でその御支配を現し、御心を実現していったか、ということなの です。そして、それはこの時代に生きる私たちのただ中においても、聖霊が 為そうとしておられることに他ならないのです。

 
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