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「約束の聖霊を受けて」

2002年7月14日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 篠山ベテル教会 服部泰樹牧師説教
聖書 使徒言行録2:1‐13

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風 が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そ して、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。す ると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉 で話しだした」(使徒言行録2:1‐4)。

●教会の誕生

 今朝の聖書の箇所は、聖霊降臨の出来事です。使徒言行録2:2‐4の出 来事に目を留めますと、聖霊降臨の描写は大変不可思議な現象として描かれ ています。しかし、このところを科学的・物理的な検証を試みてもあまり意 味はないと思われます。なぜなら、そこに記されている現象そのものに意味 があるのではなく、その事柄の内容・本質にこそ意味があるからです。

 「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。『エルサレ ムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨ ハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けら れるからである』」(使徒言行録1:4‐5)

 待ち望む弟子たちに、目に見える形で、ハッキリとこの世に示された神な る主の御業、約束の成就だったことを忘れてはなりません。新しいイスラエ ル、教会の誕生という歴史のただ中に確かに起こり、示された一回限りの決 定的な出来事であった事を忘れてはならないのです。

 聖書は「五旬祭の日が来て」ではじまります。直訳すると「五旬祭の日が 満ちた時に」となります。その出来事は「五旬祭」の日に起こりました。で は「五旬祭」とはいったいどのような祭りなのでしょうか。「過越の祭り」、 「仮庵の祭り」と共にユダヤの三つの重要な祭りの一つに数えられている祭 りです。それらの祭りは一様に出エジプトの出来事に深く根ざしています。

 私たちは、この箇所を読み進める前に、出エジプトの二つの出来事を振り 返り、この日の意味をしっかりと理解しておくことが必要と思われます。

 簡単に振り返りますと、第一にそれは出エジプトにおける過越の出来事で す。ヨセフを通してエジプトに下ったイスラエルは多くの年月を経て、国中 に溢れました。主の恵みと祝福と思えるそのことは、ヨセフのことを知らな い新しい王の出現で一変します。王は、イスラエルの民を奴隷として扱い、 さらには、男児の殺害を命じました。モーセの生まれた時代はその最も激し く、悲惨な時代でした。罪と世の力が満ち満ち、救いなど、希望など全く見 えず、神なる主の御手も、ご計画も、支配も、あたかも存在しないかのよう な、ただ罪の世の現実だけが人を、人生を支配しているかのように思えるそ のただ中に、モーセは誕生しました。

 出エジプトにおける最初のクライマックスは過越の出来事に他なりません。 奴隷の地、エジプトの地からの解放の出来事だったのです。主の災いは家の 入り口の鴨居と二本の柱に小羊の血を塗ったイスラエルの民の家を過ぎ越し ました。小羊の血が流されることによって民の命は贖われました。救いの出 来事、それが過越の本質だったのです。イスラエルの民はこのことを記念し て「過越の祭り」を守るのです。

 主の時が、あたかもコップに一滴一滴注ぎ込まれ、やがて満ち、表面張力 で盛り上がり、最後の一滴が滴り落ちるに至って溢れ流れるように満ち満ち たのです。人の目には解らなくとも、その記憶からかき消されても、主の約 束は、救いは、一歩一歩、しかも確実に押し進められ、やがて主の時にそれ は実現したのです。

 第二にそれはシナイ山における律法の授与の出来事です。イスラエルの民 が主の宝の民、聖なる国民となった日、主の民イスラエルの誕生の出来事で す。主の律法を中心に新しい一歩をスタートする出来事です。ではなぜこの 出来事を今朝想起しなければならないのでしょうか。それは、「五旬祭」と いう祭りがどのような祭りであるかに起因します。「五旬祭」とは「過越の 祭り」から数えて五十日目(ギリシア語でペンテコステ)に祝う祭りです。 この祭りには二つの意味があります。もともとは収穫を祝い、その初物を主 に捧げる祭りでした。しかし、イスラエルの民は、この日をシナイ山で律法 が与えられた事を記念する日として大切に守るようになったのです。

 以上のことを踏まえて聖書に目を向けると一つの流れが見えてきます。

 「過越祭」すなわち出エジプトの出来事を、エジプトの奴隷、悲惨からの 解放の記念日とするなら、「五旬祭」の数十日前の出来事、イエス・キリス トが過越の祭りのただ中、弟子たちと共にされた最後の晩餐は「過越の食事 」に、そこから始まる十字架と復活は明らかに「過越祭」と結び合わされて います。それは神なる主の裁きは主の民の前を過ぎ越し、罪とそれゆえの死、 そしてあらゆる悲惨からの解放の記念日となったからです。だからこそ、私 たちは「過越祭」としてではなく、「受難節(レント)」そして「復活祭 (イースター)」としてそれらを祝うのです。

 そして、「五旬祭」すなわちシナイ山における「律法(十戒)の授与と契 約」を、主の民イスラエルの誕生の記念日とするなら、「聖霊降臨」は、そ の「五旬祭」に結び合わされています。この日こそ、新しい契約、新しいイ スラエル、教会の誕生の記念日となったからです。だからこそ、わたしたち は「五旬祭(ペンテコステ)」を「聖霊降臨祭」として祝うのです。「五旬 祭の日」に起こった出来事、それは一つには「新しいイスラエル・教会の誕 生」だったのです。

●約束を待つ

 では、その日彼らはどこで、何をしていたのでしょうか。「一同が一つに なって集まっていると」(使徒言行録2:1)と聖書は記します。彼らは、 イエス・キリストの言葉どおりエルサレムに留まっていました。

 かつての民は、モーセがシナイ山に登り、主との契約を交わしている時に、 皆一つとなって金の子牛を作り、それを自分たちを解放した神と称え、偶像 礼拝を捧げ、主の祭りと称して騒いでいました。

 しかし、その日、すなわち「五旬祭の日」に集まった人々はそれとは全く 違った人々でした。彼らは、「一同が一つになって集まり」(2:1)、 「心を合わせて熱心に祈っていた」(1:14)。聖書にはそう記されてい ます。そこには、皆が一つところに集まり、心を合わせ、熱心に祈る姿があ りました。約束をひたすら信じ、待つ姿があったのです。

 この両者の違いはどこから来るのでしょうか。一方は主の恵みに与りなが ら、なおも罪に満ちた、我欲と傲慢に満ちた人々です。では、「五旬祭の日 」にそこに集まったのはどのような人々だったのでしょうか。振り返ること 数十日前、イエス・キリストを見捨てた人々がまさに彼らです。裏切り、罪 の力に負け、世の力に敗北した人々、それがそこに集まった人々なのです。 自らの弱さを、罪を思い知らされた人々でした。希望を失い、絶望を味わっ た人々でした。自らの内に主に従い得る何ものも見出すことの出来ない、換 言すれば、自らにも絶望した人々であったろうと思うのです。彼らはもはや 自らの力で希望を見出すことの出来ない人々でした。その彼らに、復活のイ エス・キリストは四十日にわたって御自身を現し、約束をお与えになりまし た。先週お読みしたとおりです。

 両者の違いは、自らあらゆる可能性に頼る者と、絶望する者の違いです。 傲慢を身に負う者と、傲慢を打ち砕かれた者の違いです。この両者に主は約 束をお与えになりました。一方は約束を待たず、一方はひたすらそれを待っ たのです。以上が「五旬祭の日」において忘れてはならない事柄です。

●聖霊を受けて

 「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々 の言葉で話しだした」(使徒言行録2:4)。

 不思議なことがここでも起こります。聖霊に満たされた人々が他の国々の 言葉を話しだしたというのです。

 ここでも、私たちは旧約聖書の出来事を思い起こします。「バベルの塔」 の出来事です。創世記11章に記されているその物語は人間の傲慢、罪、混 乱、滅びを象徴する出来事です。神なる主が、言葉を混乱(バラル)させ互 いに言葉が聞き分けられぬようにされました。そして、その御手によって全 地に散らされ、人の計画が、傲慢が打ち砕かれたことが記されています。

 ある意味で、この箇所でも同じことが起こりました。彼らは異なった言葉 を話し始めます。その当時の世界中の言葉で話し始めたのです。ある人々に は確かに混乱(バラル)とその目に映りました。「酒に酔っているのだ」と 言ってあざける者もいた事を記しています。

 しかし、ここでは「バベルの塔」の出来事とは決定的に異なったことが起 こりました。多くの国から集まってきた人たちが、決して起こり得ないこと を目の当たりにすることとなったのです。彼らはそこで、母国語で「神の偉 大な御業」を聞いたのでした。それは、全地に散らされ、罪と死の支配のも とにいるすべての人に向かって福音が開かれた瞬間の出来事なのです。

 そして、それらの全ての出来事が人間の内から出たものでは決して無く、 いかなる意味においても人間の力、業ではないことを記すのです。聖霊の御 業であることを示すのです。

 「 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、 エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至 るまで、わたしの証人となる」(使徒言行録1:8)。

 今や主の約束の時が満ちました。そして、主の教会の上に約束の聖霊が降 臨したのです。そして、その聖霊によって世界に向かって宣教の働きがスタ ートしたのです。

 「五旬祭の日」に起こった出来事、そのもう一つには「全世界に向けての 福音宣教の開始」だったのです。

 今、私たちはその働きの結果として、実りとして、主の教会に連なってい ます。「五旬祭の日」に始められた聖霊の御業は今ここに、私たちの上に、 確かに成就しているのです。主の恵みと慈しみと愛と赦しは、その輝きを失 うどころか、現実のものとして、さらに光輝いているのです。私たちが今日 主の教会に連なり、新しいイスラエルの民とされているという動かぬ事実が、 そのことを証ししています。

 しかし、ひとたび世の現実に目を向けるならば、私たちを取り巻く世界は、 今なお主からほど遠く、世の支配と、罪の力に満ち、混沌と争い、あらゆる 悲惨が横たわるところであることも現実です。悲しみも、苦しみも、困難も、 絶えることはありません。

 だからこそ、私たちは主を見上げるのです。あの日あの時、確かに神の国 は到来したのです。そして、私たちはその住人とされたのです。朽ちるべき 身体を有していても、永遠に向かって開かれたその歩みを進めているのです。 天に国籍を持つ民として、一つとされているのです。

 「五旬祭の日」に集まった人々は、エルサレムに留まりました。そこは自 分たちの罪を思い出させる地でした。イエス・キリストを見捨て、裏切った 彼らにとって、居たたまれない地でした。また、なおも世の力が満ち、迫害 する者が存在し、弱さを痛感せざるを得ない土地でした。しかし、彼らは、 主の約束を信じ、エルサレムで待ったのです。ここに神の力は来ました。約 束の聖霊は降ったのです。

 今、私たちが置かれている現実は、少しも好転していないかもしれません。 弱さを思い知らされる日々かもしれません。だからこそ、かつてエルサレム に留まった人々の姿は、私たちに告げ知らされているのです。

 私たちは何を待つのでしょう。神の国の完成を、イエス・キリストの再臨 を、待ち続けるのです。それは主の時が満ちる時、必ず来るからです。

 私たちは、どのように待つのでしょう。主の教会に、皆が一つとなって、 心を合わせ、熱心に祈り、主を礼拝する民として待つのです。それは、主が 求められることだからです。

 私たちは何をして待つのでしょう。「主の御業」を告げ知らせて待つので す。福音を宣べ伝えて待つのです。

 この日も、私たちは恵みにより、主の招きのもとに集められました。イエ ス・キリストの十字架のもとに集まってきました。なおも世の現実は、私た ちを取り囲みます。罪の力は、私たちの弱さを痛感させます。迫害するもの も少なくないかもしれません。

 だからこそ、私たちは、目を、心を、天に、主のもとに向けるのです。 「聖霊の満たし」を、主の御力がこの身を覆うことを、願い求めるのです。  主はそれを必ず与えてくださるのです。キリストの教会のただ中に。

 
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