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「私たちを救い得る名」

2002年7月21日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録4・1‐22

 「ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき 名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(4・12)。

そのようにペトロは大胆に宣言しました。間違ってはなりません。これは幾 多の宗教論争を経てペトロが得た結論ではありません。様々な宗教を比較し て、自己の宗教の絶対性を主張しているのでもありません。この言葉は、単 純にイエスの御名のリアリティから来ているのです。彼らは、迫り来るキリ ストの圧倒的な愛のもとに、そして圧倒的な権威と力のもとに自ら生きてい るのです。

 聖書に見出される最も古い信仰告白は「イエスは主である」という表現で す。しかし、これは単に一つの思想を表現した文ではありませんでした。そ れは古代のキリスト者の最も深い《経験》に他ならないのです。そうであっ たからこそ、教会は語り続けてきたのです。「わたしたちが救われるべき名 は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と。

 私たちの教会には取り組むべき様々な課題があります。しかし、私たちに おいて初めから、そして終わりの日まで、最も重要な課題であり続ける一つ のことがあります。それは、イエスの御名について、このペトロやヨハネと 同じように語り得るようになることです。そして、そのように、語り続ける ことであります。それは本当の意味でイエス・キリストを知り、キリストを 体験し、イエス・キリストのリアリティのもとに生き続けることであります。

 そのようなキリストのリアリティをもたらしてくれるのは聖霊の御業に他 なりません。聖霊に満されることを求めることは、単に超自然的な不思議な 体験を求めることではありません。復活せられ高く上げられたイエス・キリ ストを、今、ここにおいて、この地上における現実として、知ることを求め ることなのであります。

 私たちは、今日、そのようにキリストを知り、そのようなキリストの現実 を身をもって証しした、「聖霊に満たされた」使徒の姿に目を留めたいと思 います。そして、私たちもまた同じ神の霊に満たされて生きることを、切に 願い求めたいと思うのであります。

●与えられた証しの機会

 本日は使徒言行録の4章をお読みしましたが、物語は3章から続いていま す。3章には一人の男が登場します。彼は生まれながらに足が不自由でした。 毎日神の神殿の前で物乞いをしていた人です。神殿の「美しい門」の前にい ながら、毎日、施しを得ること以上の何の期待もない、希望もない人であっ たろうと思います。しかし、その男にペトロとヨハネが出会います。ペトロ は言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。 ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(3・ 6)。そして、ペトロが右手を取って彼を立ち上がらせると、たちまち足や くるぶしがしっかりし、躍り上がって歩き出しました。こうして一人の人が イエスの御名によって癒されました。「そして、歩き回ったり躍ったりして 神を賛美し、二人と一緒に境内に入って行った」(3・8)と書かれていま す。彼は癒されただけでなく、自ら神に向き、神を誉め称えて生きるように なったのです。

 この出来事のゆえに、大勢の人々がその周りに集まってきました。ペトロ は集まってきた人々にキリストを宣べ伝えます。「あなたがたは、命への導 き手である方を殺してしまいましたが、神はこの方を死者の中から復活させ てくださいました」(3・15)と言って、復活した主なるキリストを宣べ 伝えるのです。そして、言いました。「だから、自分の罪が消し去られるよ うに、悔い改めて立ち返りなさい」(3・19)と。神の僕イエスが遣わさ れたのは、一人一人を悪から離れさせ、神が約束し給うた祝福にあずからせ るためだったのだ、とペトロは人々に語り、悔い改めを呼びかけたのです。

 この結果、多くの人々が信じ、主に立ち帰りました。しかし、このことを 喜ばない人々もいました。ユダヤの当局者たちです。ペトロとヨハネが民衆 に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来 ました。ペトロとヨハネは彼らによって捕らえ、翌日最高法院に引き出され て尋問されることとなったのです。

 どう考えても喜ばしい状況ではありません。これは、産声を上げたばかり の初代教会が直面した、最初の危機でありました。しかし、ペトロとヨハネ は、この不当な拘留を怒るのでもなく、事の成り行きを思って恐れるのでも なく、身に降りかかった不運を嘆いているのでもありません。彼らは、その まことに不幸な状況を、キリストを証しする機会としたのです。「議員、長 老、律法学者たちがエルサレムに集まった」(5節)と書かれています。彼 らが自ら進んでキリストのことを聞くために使徒たちのもとを訪れることは、 まずあり得ないことでした。しかし、奇しくも彼らは皆勢揃いして、キリス トを宣べ伝えるペトロたちの言葉に耳を傾けることとなったのです。そして、 現実にキリストによって癒され、その人生そのものが変えられた、一人の人 を目の当たりにすることとなったのです。

 この不幸な状況を、キリストを証しする機会とすることができたのは、ペ トロとヨハネが確かにイエス・キリストのリアリティに生きていたからであ ると言えるでしょう。権力者たちの敵意に囲まれて尋問されるというその場 面が、実はもっと大きな権威、キリストの権威のもとにあることを、ペトロ とヨハネは知っていたのであります。

●聖霊による自由と大胆さ

 そのようなペトロの言葉を聞いた人々は、「ペトロとヨハネの大胆な態度 を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエス と一緒にいた者であるということも分かった」(13節)と書かれておりま す。

 そこには驚くべき大胆さがありました。私たちは、この使徒言行録という 著作が、ルカによる福音書に続く第二巻として書かれていることを忘れては なりません。ルカは、自ら記した福音書において、まったく違ったペトロの 姿や他の弟子たちの姿を描いているのです。

 6節に「大祭司アンナスとカイアファ」の名前が記されています。彼らの 名前は、キリストが十字架にかけられるその前夜の出来事を思い起こさせま す。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連れて行かれた時、ペトロはその 後を遠く離れてついて行きました。人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて一 緒に座っていたので、ペトロも混じって腰を下ろします。するとある女中が、 ペトロをじっと見つめて言いました。「この人も一緒にいました中庭に入っ て行った彼をある女中が目にして「この人も一緒にいました!」そこで、ペ トロはすぐにその言葉を打ち消して言ったのです。「わたしはあの人を知ら ない」。なんと彼は同じことを三度も繰り返してしまうのです。三回目に主 イエスとの関係を否定した時、突然鶏が鳴きました。ルカはその時の様子を 次のように記します。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、 『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言 われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22 ・61‐62)。これが生来のペトロの姿であります。

 しかし、本日の聖書箇所に見るペトロは違います。ユダヤの権力者たちは、 ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしては ならない、と命令し、脅迫しました。するとペトロは答えるのです。「神に 従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてくだ さい。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないので す」(19‐20節)と。

 生来気の強い人がいれば、気の弱い人もいます。気が強いことは、ただ無 神経で思いやりに欠けるだけであるかもしれないので、必ずしもそれがその まま美徳であるとは限りません。ここに見るのは、ただペトロの気が強くな ったということでもなければ、彼が勇敢になったということでもありません。 問題は、ペトロとヨハネが、誰の権威のもとに生きているのか、ということ なのです。ペトロは確かに、神の右に座したもうキリストの権威のもとに生 きているのです。彼はキリストのリアリティのもとに生きているのです。そ して、信仰を告白する自由と宣教の自由とは、この世の権威の認可に基づく のではなく、このキリストの権威に基づくのであって、キリスト以外の誰も 奪うことはできないことを彼らは知っていたのでした。人は命を奪うことは できるかもしれないけれど、この自由を奪うことはできないのです。

 福音書のペトロと、ここにいるペトロとの間に、いったい何があったので しょうか。そこにはイエス・キリストの十字架、復活、昇天、そして聖霊降 臨がありました。ペトロは不甲斐ない自分を反省し、自己変革のために自分 に鞭打ち、頑張ってこのような大胆さを実現したのではないのです。これは 明らかに聖霊の賜物なのです。聖霊が、彼をキリストの権威のもとに生きる 者としたのです。

 そして、聖霊の与えた自由と大胆さには、限りない愛と赦しが伴っており ました。ペトロたちは不当に拘留されました。不当にも議会にまで引き出さ れました。主イエスに向けられていたユダヤ人指導者たちの憎しみは、使徒 たちにも向けられておりました。ペトロとヨハネは人々の敵意に囲まれて、 その真ん中に立っています。しかし、彼らは憎しみに対して憎しみをもって 臨みません。敵意に対して、敵意をもって臨みません。ペトロとヨハネは、 彼らの罪を指摘します。彼らがイエス・キリストを十字架にかけた事実を突 きつけます。しかし、それはあくまでも彼らにキリストを語るためでした。 救い主を伝えるためでした。自分を憎む者にも、危害を加えようとしている 者にも、救い主を証しするためでした。

 ペトロは言います。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わた したちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていな いのです」と。これは敵意から生まれる論争の言葉でも、自分の身を守るた めの弁明の言葉でもありません。ペトロは《わたしたち》の救い主について 語っているのです。その《わたしたち》には、明らかに今憎しみの目を向け ているユダヤの当局者たちも含まれているのです。大祭司アンナスもカイア ファも含まれているのです!

 これが聖書の伝えるキリストの証人の姿です。聖霊に満たされ、生けるキ リストのリアリティと共にある教会の姿です。私たちもそのような証し人と ならせていただきたいと思います。私たちも同じ神の霊に満たされて生きる ことを切に求めていきたいと思うのであります。

 
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