説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡

「キリストの証人ステファノ」

2002年7月28日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録6・1‐15

 私たちは今日、特にステファノという一人の人物に注目したいと思います。 彼については6章から7章全体に渡って記されております。7章の末尾を見 ますと、彼はリンチによって殺された人であることが分かります。彼は最初 の殉教者です。聖書において私たちに伝えられているこの人の生と死を通し て、私たちは何を聞き取るべきでしょうか。

●日々の配給の問題

 まず、彼が登場する背景を御一緒に見ておきましょう。使徒言行録6章は、 初代教会の中に生じたトラブルについて記しています。それはユダヤ人社会 に存在していた二つのグループの間で起こりました。二つのグループとは、 ヘブライ語を話すユダヤ人たちとギリシア語を話すユダヤ人たちです。前者 はヘブライ人と呼ばれ、主にパレスチナ出身のユダヤ人です。後者はヘレニ ストと呼ばれ、離散の地で生まれ育ったユダヤ人です。様々な異国の文化に 触れながら生きてきたヘレニストたちは、ヘブライ人と思想においても習慣 においても大きく異なります。自分を基準として異なる者たちを裁いたり見 下げたり排除したりということは人の常ですから、この両者の間にも根深い 緊張関係がありました。その亀裂が、残念ながら教会の中にも現れたのです。 きっかけは貧しい会員のための生活扶助における不公平ということでした。 日々の分配において仲間のやもめたちが軽んじられていると、ヘレニストた ちから苦情が出たのです。

 そこで使徒たちは、弟子をすべて呼び集めて次のような提案をしました。 「わたしたちが、神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ま しくない。それで、兄弟たち、あなたがたの中から、“霊”と知恵に満ちた 評判の良い人を七人選びなさい。彼らにその仕事を任せよう。わたしたちは、 祈りと御言葉の奉仕に専念することにします」(2‐4節)。一同はこの提 案に賛成しました。そして、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノと、ほ かにフィリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、アンティオキア 出身の改宗者ニコラオを選んで、使徒たちの前に立たせた。使徒たちは、祈 って彼らの上に手を置いた」(5‐6節)と書かれております。

 ここには身近な問題に向かう当時の教会の姿勢が良く現れております。問 題は生活扶助のことでした。いわばお金と食料の話しです。極めて日常的な 泥臭い話しです。しかし、彼らは、これを信仰の問題として受け止めたので す。「あなたがたの中から七人を選びなさい」と使徒たちは言いました。な ぜ七人なのでしょう。これは恐らくユダヤ教社会の伝統から来た数字だと思 われます。しかし、不公平の問題を解決するためであるならば、これは常識 的には賢い提案とは思われません。七人を選べば必ずヘブライ人かヘレニス トかどちらかが多くなるからです。両者の間の調整をするのならば、各グル ープから同数の代表者が出てきて制度を見直すべきではないでしょうか。

 要するに、同数の代表による政治的な解決などという考えは、初めから使 徒たちの頭の中にはなかったのです。これは信仰の問題として解決されるべ きだからです。キリストの権威のもとにある教会が、キリストの御心を尋ね 求めることによって解決されるべき問題なのです。ですから教会は、自分の グループに有利に動いてくれる有力者や弁の立つ人ではなく、「“霊”と知 恵に満ちた評判の良い人」を選ぶことを求められたのでした。自らキリスト の権威のもとに生活し、キリストの権威のもとにおいて考え判断することの できる人を選ばなくてはならなかったのです。

 結局、どのような人々が選ばれたでしょうか。5節に上げられている名前 は皆ギリシア名としての特徴を持っています。そこで、学者は異口同音に、 ここで選ばれたの恐らく全員ヘレニストであろう、と言うのです。常識的に はまったくあり得ないことでしょう。しかし、それが教会の下した判断であ りました。彼らは確かに「信仰と聖霊に満ちている人」を選び、この卑近な 日常の問題について、信仰と聖霊による解決を求めたのです。

●ステファノの殉教

 さて、そのようにして選ばれた人たちの一人がステファノでした。彼につ いては特に「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」と紹介されています。 6章8節以下を読みますと、ステファノもまた使徒たちと同じように、力あ る業をなし、キリストを証ししていたことが分かります。彼はヘレニストで ありましたので、ヘレニストが集まる会堂を中心に活動していたようです。 「『解放された奴隷の会堂』に属する人々、またキリキア州とアジア州出身 の人々などのある者たちが立ち上がって、ステファノと議論した」(9節) と記されております。彼が、会堂において聖書の解き明かしをしますと、そ こにいつも議論が湧き起こったのでしょう。

 やがて、ステファノには議論では勝てないことが分かりますと、ユダヤの 指導者たちは別の形でステファノの口を封じようと企てました。民衆、長老 たち、律法学者たちを扇動して、ステファノを襲って捕らえ、最高法院へと 引いて行ったのです。そして、偽証人を立てて、次のように訴えさせました。 「この男は、この聖なる場所(すなわち神殿)と律法をけなして、一行にや めようとしません。わたしたちは、彼がこう言っているのを聞いています。 『あのナザレの人イエスは、この場所を破壊し、モーセが我々に伝えた慣習 を変えるだろう。』」このように、ステファノは、かつて使徒たちがそうさ れたように、最高法院において裁かれることになったのです。

 さて、ここで私たちは、4章においてペトロとヨハネが取り調べを受けた 時とは、まったく違う状況にステファノが置かれていることに注意しなくて はなりません。かつて使徒たちが捕らえられた時には、少なくとも民衆は味 方でした。ですから、大祭司と仲間のサドカイ派の連中は、手荒なことはで きませんでした。ところが、今度は、民衆が扇動されて、敵に回っているの です。また、彼らは巧妙にも、「この男は、神殿と律法をけなしている」と 訴えました。神殿をけなすことは、祭司階級でありますサドカイ派の怒りを 煽ります。律法をけなしているという訴えは、ファリサイ派も見過ごしにで きません。どう見てもステファノを亡き者にすることができる状況は揃って います。

 恐らくステファノ自身も、自分が危険な状況に置かれていることを知って いただろうと思います。生きて仲間のもとへは帰れないかもしれないことを 予感していたに違いありません。事実、彼は石打ちの刑によって惨殺されて しまいます。しかし、そのような場面において、私たちは驚くべき言葉に出 会うのです。6章の最後には次のように記されております。「最高法院の席 に着いていた者は皆、ステファノに注目したが、その顔はさながら天使の顔 のように見えた」(15節)。人々が殺意と憎しみに満ちた顔を向けている 時に、彼の表情は「天使のように」としか表現できないほどに、天来の平安 と慈愛に満ちていたのでしょう。ステファノは、事実、自分を断罪しようと している人々に対して、敵に向かうように語りかけはしませんでした。彼の 発した第一声は、「兄弟であり父である皆さん、聞いてください」(7・2) という言葉だったのです。

 ここで私たちは再び、「信仰と聖霊に満ちている人ステファノ」という表 現を思い起こします。聖書は単に彼の人格的な徳の高さを賞賛しているので はありません。これは彼を支配し、キリストの権威のもとに生かし給う、聖 霊の御業によるのです。その事実は、彼が残虐な仕方で命を奪われる最期の 場面で、さらに明らかにされることになります。7章54節以下をご覧くだ さい。

 「人々はこれを聞いて激しく怒り、ステファノに向かって歯ぎしりした。 ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておら れるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが 見える』と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目 がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人た ちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を 投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの 霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪 を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、 眠りについた」(7・54‐60)。

 ここで、ステファノが特に、「天が開いて、人の子(イエス)が神の右に 立っておられるのが見える」と言っていることは重要です。「神の右に」と いう言葉は、単に場所を意味しているのではありません。王国において、あ る者が王の右の座に着いていると言われる場合、彼が王から全権を委ねられ た者であることを意味します。同様に、キリストが神の右におられるという ことは、復活されたキリストが、父なる神の全権を委ねられたお方として、 支配しておられることを意味するのです。復活したキリストが弟子たちに 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(マタイ28・18)と語 られたとおりです。

 ステファノがまさに殺されようとしていた時、彼が目を向けていたのは、 そのキリストの権威でありその支配でありました。人の目から見るならば、 支配しているのは人間の力です。人間の暴力です。憎しみと敵意です。この 聖書箇所に見るのは、力ある者たちが力ない者を支配し、その支配のもとに 抹殺しようとしている姿です。しかし、そのような現実の中で、聖霊に満た されたステファノは、キリストの御支配というもう一つの現実を見ていたの です。

 彼はリンチによって殺されました。しかし、彼の命は《奪われた》のでは ありません。彼に与えられている永遠の命はキリストの支配のもとにあった からです。それゆえ、ステファノは叫びました。「主イエスよ、わたしの霊 をお受けください」と。そして、さらに、かつてキリストがしたように、人 々のために執り成しつつ、死んでいったのであります。聖霊に満たされた人 の最期でありました。

 しかし、私たちはここで、殊更にステファノの英雄的な死を強調しないこ とにしましょう。彼が、もともと非常に卑近な日常的な問題を解決するため に選ばれたことを忘れてはなりません。日常の小さなことと、人生の最後の 大きなこととは、同一線上にあるのです。聖霊に満たされた人として日常的 な小さな事柄に関わることは、キリストに満たされた者として平安と喜びを もってキリストを指し示しつつ人生を完結することと、決して無関係ではな いのです。

 
説教 |  印刷 |  説教の英訳 |  対訳 |  連絡