「サウロの回心」
2002年8月4日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録9・1‐22
いつでも主のなさることは私たちの思いを遙かに越えているものです。主 は、教会にサウロ(パウロ)を加えられました。主は、迫害されてきた共同 体に、よりによって迫害者を加えられたのです。主は、抑圧され虐げられ仲 間を殺されてきた人々の群れに、抑圧し虐げ殺してきた人物を加えられまし た。そして、彼らが共に主を礼拝し、共に福音を宣べ伝えることを望まれま した。これが本日の聖書箇所に見る、サウロの回心と受洗という出来事であ ります。私たちはこの意味するところをよく考えねばなりません。
●迫害者サウロ
サウロという人が初めて登場してきますのは、7章においてステファノが 殺害される場面です。「人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファ ノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証 人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた」(57 ‐58節)。そして、「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」(8 ・1)とも書かれています。
ステファノの処刑は、7章の記述を読む限り、明らかにリンチです。合法 的な処刑などではありません。しかし、ここに「証人たち」について書かれ ていることは注目に値します。律法に定められている通り、まず証人が最初 の石を投げたのです。少なくとも形においては、ステファノの殺害を、合法 的な処刑の形式で行ったということです。そこには彼らの正義の主張があり ます。ユダヤ人たちがステファノを殺したのは単に腹が立ったからではない のです。あくまでも彼らの正義に基づいての処刑だったのです。
ステファノが石で打たれて血みどろになって死んでいくのを冷静に見守り、 これに賛意を表明していたのが、このサウロという人でありました。なんと 残酷なことか、と私たちは思います。しかし、このサウロという人も石を投 げつけていた他の人々も、いわゆる悪人やならず者ではありません。恐らく そこにいたほとんどの人は、サンヘドリンの議員です。人々の尊敬を集める 指導者たちです。律法を守り秩序を大切にする正しい人々です。このサウロ という人などは、後に過去を振り返って「律法の義については非のうちどこ ろのない者でした」(フィリピ3・6)と言い切ることができた人でありま した。
実に、真の残酷さというものは、この世の悪人においてではなく、この世 の正しい人々において現れるものです。というよりも、本当に残酷なことは、 正義の名のもとにしか為され得ないと言った方が正確かもしれません。悪人 が自分の悪を知りながら、かつ残忍にはなれないものです。それは身近な人 と人との間にも、国家と国家の間にも言えることです。いじめにせよ、殺人 にせよ、戦争にせよ、そこにはそれなりの正義の理論があるものです。正義 の理論がある時に、人は自らの残忍さに気付かないまま、残酷なことをする ものなのです。
ステファノの殺害に賛成していたサウロは、徹底的に教会を迫害し始めま した。「一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わ ず引き出して牢に送っていた」(8・3)と書かれています。そして、つい に彼は迫害の手をシリアのダマスコにまで伸ばします。本日の聖書箇所に次 のように書かれておりました。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫 し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての 手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛 り上げ、エルサレムに連行するためであった」(1‐2節)。
迫害するのも楽ではありません。そこには相当な労力が要求されます。し かし、サウロは労をいとわずダマスコにまで向かおうとしていたのでした。 労をいとわずに人を苦しめ殺すのです。なぜでしょうか。それは迫害をする ことにおいてパウロは神に仕えていると信じていたからです。それが神の前 に正しいことであり、神の喜ばれることだと信じていたからです。
一般的に言いまして、それが神のためであるか否かにかかわらず、正義の ための行動には、不義なる敵に対する怒りの感情と共に、不思議な喜びが伴 うものです。それがたとえどんなに残酷な行為であっても、非情な行為であ っても、正義のための行動には喜びが伴うのです。そこで人は己の存在意義 を見出します。生きている実感を手にします。ですから、人はそこで労苦を 惜しみません。時にはそのために自らの命さえ投げ出します。
しかし、神はサウロが正義の闘士としてダマスコに到着することを望まれ ませんでした。そのまま彼が正義感に燃えたまま先に進んで行くことを許さ れませんでした。キリストが彼の行く手を阻みます。キリストはサウロを打 ち倒されたのです。
「ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの 光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わ たしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたで すか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエス である。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。 』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、もの も言えず立っていた」(3‐7節)。
パウロは地に打ち倒されました。そして、パウロが再び立ち上がった時、 パウロの目は見えなくなっておりました。彼は人々に手を引かれてダマスコ に向かうことになったのです。ここに描かれていますのは、単なる彼の身体 的な体験ではなかろうと思います。そこで打ち倒されたのは、自分がしっか りと立っていると信じて疑わなかったパウロなのです。これまで自分自身が 正しい者の側に立っていると信じ、他者を裁いて死に至らせていた人間が、 そこで打ち倒されたのです。そして、そこで盲目にされたのは、自分には正 しいことが見えていると信じていたパウロの目でありました。パウロは何も 見えなくなった時、その暗闇こそ、自分のこれまでの人生であったことに気 付かされたに違いありません。
しかし、打ち倒されて見えなくされて、暗闇の中に置かれて、それで終わ りではありませんでした。彼はそこで「サウル、サウル」という呼び声を聞 いたのです。それはサウロという存在をしっかりと受け止め、彼の罪を赦し、 再び立ち上がらせ、彼に未来を与えようとしておられるキリストの呼び声で ありました。主はサウロに言われます。「起きて町に入れ。そうすれば、あ なたのなすべきことが知らされる」と。主はサウロの未来を用意しておられ たのです。
●主によって備えられた出会い
一方、主はダマスコにいるアナニアという弟子にも、幻の中に現れました。 主が「アナニア」と呼びかけられると、アナニアは「主よ、ここにおります 」と答えます。すると、主は驚くべきことを彼に命じられたのです。「立っ て、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、 タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入っ て来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻 で見たのだ」(11‐12節)。
不思議な仕方で二人の人間が出会います。幻の中で相手が指定されるとい うような仕方で二人の人が出会うということは、そう誰もが経験することで はありません。しかし、全く予期しなかった出会いが、主によって準備され 与えられるということは、確かに私たちのしばしば経験するところです。そ して、主が備えられる出会いは、必ずしも人の目から見て望ましいものばか りとは限りません。アナニアにとってサウロが決して喜ばしい人でなかった ように。
アナニアには、サウロを拒否すべき、ありとあらゆる理由がありました。 アナニア自身はエルサレムにおける迫害を経験した人ではありません。しか し、ダマスコには、エルサレムから逃れてきた多くの人々がいるのです。ア ナニアの周辺には、この憎きサウロによって仲間を殺され、平和な生活を奪 われた、数多くの人々がいるのです。そして今や、アナニア自身にも迫害の 手が伸ばされようとしているのです。そのような男のもとへなど行きたいは ずがありません。
当然のことながら、アナニアは主に抵抗いたします。このサウロがいかな る人物であるかを主に説明して、主の導きに対して不平を申し述べるのです。 しかし、主は、「行け」と言われます。その理由は単純でした。「あの者は、 異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わた しが選んだ器である」(15節)と主は言われるのです。その人の過去がど うであれ、その人となりがどのようなものであれ、彼は主が選ばれた器なの です。「わたしが選んだのだ」――それ以上の理由は与えられませんでした。 それで十分なのです。
アナニアはサウロのもとに赴きます。そして、彼の上に手を置いて言いま した。「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエス は、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるよう にと、わたしをお遣わしになったのです」(17節)。「兄弟サウル」―― かつての迫害者サウルを、アナニアはそう呼びました。アナニアが特別に寛 容な人だったからではありません。彼が主の言葉を受け入れただけのことで す。主がサウロを選ばれ、彼に務めを託され、彼を教会に与えられたのです。 主がサウロを、アナニアのまことの「兄弟」とされたのです。その事実を、 アナニアは主の御前で受け止めたのです。
サウロの目からうろこのようなものが落ち、元どおり見えるようになりま した。そこで最初に見たのは、主にある兄弟の姿でありました。サウロは身 を起こして洗礼を受け、主の教会に加えられました。かくして、迫害してき た者が迫害されてきた者たちと共に、主を礼拝し、主に仕え、主を宣べ伝え ることとなりました。
このことを望まれ実現された主は、私たちの主でもあることを忘れてはな りません。このことが起こった初代の教会と今日の私たちの教会とは、同じ 主をかしらとする同じ教会であることを忘れてはならないのであります。