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「ペトロが見た幻」

2002年8月11日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録10・1‐35

 ナザレのイエスという御方はユダヤ人でした。その弟子たちも皆ユダヤ人 でした。最初に洗礼を受けた人々は皆ユダヤ人でした。福音の宣教の場所は、 ユダヤ人たちの会堂でありました。彼らはユダヤ教の一派と見なされていま した。事実、彼ら自身も、自分たちをそのように見ておりました。イエスを キリストと告白するようになっても、彼らはあくまでユダヤ人であり、ユダ ヤ人以外の何者でもなかったのです。

 そのように始まった教会の歴史の中に、私たちは存在しております。私た ちはユダヤ人ではありません。私たちはユダヤ人から見れば《異邦人》です。 異邦人が教会の中にいることを、私たちは特に不思議に思いません。ユダヤ 人がいたら不思議に思い、「なぜユダヤ人がいるのだろう」と考えるかも知 れません。しかし、本当は逆なのです。本来は、「なぜ異邦人がいるのだろ う」ということを考えねばならないのです。

 なぜ教会に異邦人がいるのでしょう。それはある時点で、キリストの福音 が、ユダヤ教の枠から飛び出したからに他なりません。隔ての壁を越えて、 異邦人に対する伝道が始まったからです。それは教会の大きな転換点でした。 いや、世界の歴史の大きな転換点であったと言っても良いでしょう。なぜな ら、キリスト教がユダヤ教の一派に留まっていたならば、世界の歴史はまっ たく違うものになっていたはずだからです。もちろん、日本に教会などあろ うはずがありません。私たちはキリスト者ではあり得ません。

 世界の歴史の大きな転換点――しかし、それは誰の目にも留まることのな いような、世界の片隅における小さな出来事でありました。何故に福音は異 邦人に伝えられることになったのか。何故に私たち異邦人が主を礼拝する者 とされているのか。そのことを考えながら、私たちはこの小さくかつ偉大な 出来事に目を向けたいと思います。

●ペトロの見た幻

 その日、ペトロは皮なめし職人シモンという人の家におりました。昼の十 二時頃のこと、彼は祈るために屋上に上がります。人々が昼食の準備をして いる時でした。空腹のまま祈っていたら夢心地になり、彼そこで一つの幻を 目にします。食べ物の幻です。彼は、天が開き、大きな布のような入れ物が 四隅でつるされて下りてくるのを見たのでした。「その中には、あらゆる獣、 地を這うもの、空の鳥が入っていた」(12節)と書かれています。すると 「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がしました。主の御 声でした。しかし、ペトロは答えます。「主よ、とんでもないことです。清 くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」(14節)。そこに 入っていたものは、律法において食べることが禁じられている「汚れた物」 だったからであります。

 ユダヤ人の食物規定は、レビ記11章などに記されております。動物であ るならば、ひづめが完全に割れており、反すうする動物でなければ食べては なりません。ですから、ブタは食べられません。らくだや岩狸もだめです。 鳥であるならば、禿鷲など猛禽類は汚れた物であり食べられません。爬虫類 も汚れた物と見なされています。トカゲは食べられません。ある食べ物は汚 れた物とされある食べ物は清い物とされる。その理由はよく分かりません。 しかし、現代においても正統派ユダヤ教徒はこの食物規定を厳格に守ってい ます。今の時代は加工食品が多いですから、その原材料にまで神経を使って 食物を選ばなくてはなりません。

 なぜ、この食物規定にそれほど神経を使わなくてはならないのでしょう。 それは、いわゆる「清潔・不潔」ということではないからです。これは神と の交わりに関係しているからなのです。食物のことだけでなく、一般的に旧 約聖書における「汚れ」とは、聖なる神との交わりが許されない状態を意味 します。汚れた物を口にするならば、自ら汚れた者となり、神との交わりが 許されない状態となるのです。しかも、この汚れた状態がどのように清めら れるのかは書かれておりません。その点、清めの儀式が定められている、死 体に触れて汚れた場合などとは異なります。ですから、律法に厳格に生きよ うとするならば、この食物規定には非常に神経を使うことになります。布に 入れられ下りてきた汚れた物を「屠って食べなさい」と命じられた時、「主 よ、とんでもないことです」とペトロが口答えしたのも無理ありません。

 ところが、主の答えは全く意表を突くようなものでした。「神が清めた物 を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(15節)と主は言われ たのです。そして、そんなやりとりが三度繰り返されたのでした。神は腹ぺ このペトロに食べ物の幻を見せられました。まったく冗談のような話しです が、実は、この幻にこそ、後の歴史を変えてしまうような決定的なメッセー ジが込められていたのです。

 ペトロはこの幻について思い巡らしておりました。するとその時、ペトロ を訪ねて三人の人が皮なめし職人シモンの家に到着します。聖霊はペトロに 語りかけました。「三人の者があなたを探しに来ている。立って下に行き、 ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ」 (19‐20節)。彼が階下に降りると、そこにいたのはユダヤ人ではあり ません。異邦人でした。彼らは、ローマの百人隊長コルネリウスが遣わした 人々です。「主がよこした者とは彼らのことだろうか…」。ペトロは釈然と しなかったに違いありません。彼は尋ねます。「あなたがたが探しているの は、このわたしです。どうして、ここへ来られたのですか」。すると、彼ら はペトロに次のように答えたのでした。「百人隊長のコルネリウスは、正し い人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人ですが、あなたを家に招 いて話を聞くようにと、聖なる天使からお告げを受けたのです」(22節) と。

 異邦人はユダヤ人にとって「汚れた人々」でした。ですから、正統的なユ ダヤ人ならば、異邦人を訪問することや食事を共にすることはありません。 この招きを受けたペトロが同行をためらったとしても不思議ではありません。 しかし、主はペトロに「ためらわないで一緒に出発しなさい」と言われたの です。ペトロは主の御声に従いました。彼らを迎え入れ、翌日彼らと共にカ イサリアに向けて出発したのです。

 カイサリアに到着すると、既にコルネリウスが親類や親しい友人たちを呼 び集めて待っていました。その道すがら、ペトロはあの幻について思い巡ら していたに違いありません。そして、ついに彼は、あの幻の意味をはっきり と理解するに至ったのでした。ペトロがどのように理解したのかは、28節 以下に語られています。彼は集まった人々にこう言いました。「あなたがた もご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりす ることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人を も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりま した」(28節)。

●神は人を分け隔てなさらない

 「どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならない」― ―このような言葉には注意が必要です。これは単に「皆同じ人間であり平等 なのだから差別してはならない」という意味ではありません。これをヒュー マニズムの次元で捉えてはならないのです。幻の中で主は何と言っておられ ましたか。「《神が清めた物を》、清くないなどと、あなたは言ってはなら ない」と言われたのです。「神が清めた物を」という言葉こそが、重要な意 味を持っているのです。

 かつて主イエスが罪人や徴税人たちと共に食事をしていたことを思い起こ してください。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たち を迎えて、食事まで一緒にしている」(ルカ15・2)と言って非難したの です。主はどうして非難されながらも、あえて罪人たちや徴税人たちと食事 を共にされたのでしょう。それは単に「皆同じ人間じゃないか」ということ で、そうしていたのではないのです。そうではなく、《彼らもまた神との交 わりへと招かれている者である》という意味において、食事を共にされたの です。

 神との交わりへと招かれているならば、そこには罪の赦しと清めが前提と されていることは言うまでもありません。神によって赦され、神によって清 められることなくして、神との交わりはあり得ないからです。そして、確か に主の食卓には、神の赦しの恵みもまたそこに伴っていたのでした。なぜな ら、そこには罪の贖いの犠牲もまた存在していたからです。招いてくださる 主イエス御自身が、贖いの犠牲に他なりませんでした。主は、罪の贖いのた めに十字架にかけられるべき御方として、罪人たちを招かれ、食事を共にさ れたのです。

 ただキリストの十字架による贖いのゆえに、人は神との交わりに入れられ るのです。ただキリストの十字架の贖いにより、人の罪は赦され清められる のです。ならば、そこにおいては、ユダヤ人も異邦人もありません。確かに ペトロが聞いた天からの声のとおりです。「神が清めた物を、清くないなど と、あなたは言ってはならない」のです。

 そして、ペトロは集まった人々に、さらにこう語りかけました。「神は人 を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を 畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(34‐35節)。

ユダヤ人と異邦人の違いだけでなく、この世には国籍の違いが存在します。 民族の違いもあります。あるいは、性別、年齢、社会的な地位、学歴の違い による区別が存在します。そして、これからも存在し続けることでしょう。 大事なことは、この世から一切の区別が消失し、一色になることではありま せん。違いがあって良いのです。異なっていて良いのです。区別があっても 良いのです。肝心なことは、「《神は》人を分け隔てなさらない」ことを知 ることです。神はそれら一切の違いを決定的に重要なものとは見なされない のです。

 神がそれら一切の違いを重要なことと見なされないのは、最終的に決定的 に重要なことが別にあるからです。それはその人と神との関係です。「どん な国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は…」と言われています。 「神を畏れる」ことと「正しいことを行う」ことは、別の二つのことではあ りません。一つの事柄です。それは、例えば、ここにいるコルネリウスやそ の友人たちのように、神に立ち帰り、神と共に生きようとしている、という ことです。神にとって決定的に重要なことは、人が神を畏れ、へりくだって 神と共に生きているのか、それとも神に背を向けて、あくまでも人間中心の 生を生きるのか、ということなのです。

 かくして、私たち異邦人にも福音が伝えられることとなりました。私たち もまた主によって受け入れられたのでした。まさに、私たちの存在そのもの が、「神は人を分け隔てなさらない」ことの証しに他ならないのです。

 
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