「派遣する教会」
2002年8月18日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生, 山本昇牧師説教
聖書 使徒言行録 13章1節~12節、44節~52節
◆ はじめに
今朝は交換講壇ということで、皆さんと神様に礼拝をささげることができ ますとことを感謝しております。
さて今朝は、皆様が続けて学んでおられる使徒言行録から「派遣する教会 」という題で本日の説教をとりつがせていただきます。使徒言行録13章を読 みますと、聖霊の導きに従って、バルナバとサウロを派遣する教会の姿を見 ることができます。しかし、著者であるルカは何をもってこれが聖霊による ことであると判断したのでしょうか。聖霊が働いておられるから、二人を派 遣したという説明だけでは、それはいかに二人を派遣することになったか、 その次第を述べるだけで、この派遣が聖霊によるものであるとどうしてルカ が確信をもっていうことかできたのか、という問いに対する答えにはなりま せん。少なくとも、ルカは、この二人の派遣が聖霊によるものであると判断 することができました。ルカが、この派遣を聖霊の導きであると判断した理 由が分かるならば、聖霊の導きに従うとは具体的にどういうことかが分かり ます。そこで、今朝はまずルカが、この派遣を聖霊の導きであるとどうして 言うことができたのかを、まずみことばから明らかにしたいと思います。結 論から言えば、「派遣する教会」の姿は、「聖霊に聞く教会」の姿として、 さらに「神に愛される教会」の姿となって現れてくるはずです。そして、こ のアンティオキア教会の姿から、現代の教会に、また、私たちに主が望んで おられることを確認したいと思うのであります。
◆アンティオキア教会の実状
まず2節ですが、ルカは、いつも通り、主を礼拝し、断食しているアンテ ィオキア教会の様子を伝えています。彼らは伝道をしようという思いから集 まり、その伝道計画が祝されることを願って主を礼拝し、断食していたわけ ではありませんでした。いつものように主に礼拝をささげ、断食していると、 彼らに、聖霊は、おそらく預言者のひとりを通してお語りになったのであり ます。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたし が前もって二人に決めておいた仕事に当らせるためである。」(13:2)
この「選び出しなさい」という言葉ですが、以前の協会訳では「聖別しな さい」と訳されていました。ギリシア語で「分けて取れ」という意味です。 つまり、聖霊は「わたしのためにふたりを差し出せ」と言われたのです。こ の時、驚きと不安が、アンティオキア教会を包んだに違いありません。逆説 ですが、聖霊のみ告げは、もしもアンティオキア教会に伝道計画があったと したならば、それをぶち壊した、と言えるかもしれません。
ですから3節は、この聖霊のみ告げに一同がさっそく答え、「断食して祈 り、二人の上に手を置いて出発させた」かのようですが、実際はそうではあ りませんでした。3節の「出発させた」は「解放した」という言葉が使われ います。つまり、ルカによれば、教会は二人を「送り出した」のではなく、 厳密にはアンティオキア教会での務めから彼らを「解放した」、主の任務に つくことを許したというわけなのです。こういうわけで、4節でルカは、二 人を派遣したのは、教会ではなく聖霊であると記すのです。
◆聖霊に聞く教会
このようにアンティオキア教会は、二人を派遣することに積極的であった わけではありません。使徒言行録を読むと分かりますが、異邦人に教会の門 を開いたのは、聖霊でありました。異邦人に福音が届いたとき、聖霊が彼ら の上に降り、彼らがイエス・キリストを信じた事実を前に、教会はそれを否 定できず、それを認めたにすぎません。にもかかわらず、初代教会がなぜこ れほどまでに伝道熱心な教会として語り告がれているのでしょうか。それは、 初代教会には聖霊の働きに対して非常に敏感に対応する姿勢があったからに ほかなりません。かくして「派遣する教会」は、「聖霊に聞く教会」であり ました。
そこで次に「聖霊に聞く」とはどういうことかを考えましょう。アンティ オキア教会は、教会の習慣に従って、共同の礼拝をし、断食をしています。 彼らは個人的な熱心さや、個人的な事情から、あるいはアンティオキア教会 の事情から、主に礼拝をし断食をしていたのではありませんでした。「礼拝 」と訳された言葉は「務め」を意味しますが、文字通り、彼らは神の民であ る教会の務め、義務を果していたのであります。「義務」という言葉を聞く と、拒否反応を示す方がおられるかも知れません。しかし、この場合の「義 務」とは、神様の恵みを受ける「義務」、礼拝に招いておられる神様に応答 する「義務」のことですから、別の言葉に置き換えるならば、それは「信仰 」であります。
多くの方が「イエス・キリストを信じる」ことを信仰だと考えておられる と思います。確かにそうです。しかし、ただ心でイエス・キリストを信じる だけなら、それは信仰ではなく「信心」です。イエス・キリストを信じてい ても、気分が乗らないから礼拝しないという人がいるならば、その人に信心 はあるかもしれませんが、それを「信仰」とは言いません。「信仰」とは聞 いて従うこと、ルカの言葉を借りるならば、使徒の教えを守り、相互の交わ りをなし、共にパンを割き、祈ることに熱心であることだからです(使徒2: 42)。
ちなみにローマの信徒への手紙12:1の「あなたがたのなすべき礼拝」、以 前の協会訳では「あなたがたのなすべき霊的な礼拝」と訳されていましたが、 ここで言う「霊的」とは「理に適う」という意味であることをしっかり押さ えておく必要があります。つまり、「霊的」とは、「聖霊に導かれるまま、 自由に、自発的に」という意味ではなく、みことばに適った、みことばに基 づいたという意味です。旧約聖書がどれほど幕屋や祭を規定しているかを思 い起こしてください。
それでもなお、心が伴わなくてもよいのかという反論があるかもしれませ ん。しかし、礼拝の心とは、みことばに基づいて動機づけられ、聖霊の働き に与ることによって形づくられるキリストの心のことであります。例えば、 茶道において、もてなす心、一期一会の心は作法という形を身につけること によって表現されます。それゆえ、礼拝において心が大切であるとは、私た ちの気持ちではなく、聖霊の働きに与り、私たちのうちに形づくられるキリ ストの心、すなわち、私たちの交わりが、大祭司である主イエス・キリスト の心、姿を写しとなることが大切であるということであります。
かくして、キリストの心をわが心とすること、キリストに倣うという課題 が私たちには与えられていると言えるでしょう。そのために「聖霊に聞く」 訓練が私たちに必要なことが分かります。その訓練こそ「断食」に他なりま せん。「断食」は、主に仕えるために行われるものです。教会で「断食」と 言えば、広くは「節制」「慎み」も含まれます。食べ物を食べないというだ けでなく、何を聞き何を聞かないか、何を見て何を見ないか、何を話し何を 話さないかといったことも大切な「断食」です。「断食」とは、聖霊に聞く 手段でした。ところが、人々は断食をすることばかりを考えて、主に聞くと いう本来の目的を忘れてしまいます。それで、預言者イザヤは次のような神 様の言葉を伝えなけばなりませんでした。
「わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び 目をほどいて/虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。更に、飢 えた人にあなたのパンを裂き与え/さまよう貧しい人を家に招き入れ/裸の 人に会えば衣を着せかけ/同胞に助けを惜しまないこと。 」(イザヤ 58:6 -7)
このイザヤ書の言葉について説明を加えませんが、こうした言葉を受けて 古代教会がどのように断食を考え、教えていたかを知るために、「使徒教父 文書」から断食について述べる個所を一つ紹介したいと思います。「使徒教 父文書」はだいたい新約聖書と同じくらいか、あるいは少し後に書かれた文 書です。その中の一つ「ヘルマスの牧者」という文書からの引用です。
「…断食を次のような仕方で守るべきである。何よりもまず、すべての悪 口とすべての悪しき欲望から自分を守りなさい。そして、この世のすべての 空しきことからおまえの心を清めなさい。おまえがこれを守るならば、この 断食が完全なものになるであろう。また、……お前が断食する日に、パンと 水以外のものはとってはならない。そして、お前がとるはずの食事から、そ の日に支出するはずの経費を見積もり、それを、やもめや、みなしごや、貧 しい人々に分け与えるべきである。」(「ヘルメスの牧者」第五のたとえⅢ 6-7、荒井献訳)
このように「断食」は、主の言葉に従って、自分のパンを分かち合うこと と深く結びついていました。この「断食」の教えに注目するとき、私たちは、 聖霊のみ告げを受けて、二人を解放するに至るまでのアンティオキア教会が 経験したであろう葛藤を追体験できると思います。アンティオキア教会にと ってなくてはならない二人を送り出すことは、アンティオキアでの伝道の進 展と教会の形成を考えると、とても大きな犠牲であったに違いありません。 しかし、彼らは自分たちの声、「二人にいてほしい」という願いを絶って、 聖霊に従い、神様にもっともよいものを差し出しました。彼らはバルナバと サウロという賜物を分かち合うことにしたのでした。み告げを受けてなお断 食し祈るのは、二人のためだけでなく、二人がいなくなる今後の教会のこと についても神様の恵みに委ねるためでした。こうした御心を求め、聖霊に従 って、なお祈る教会の姿に、ルカは聖霊の働きを、また、父なる神様に全く 従順であられたキリストの似姿を見たのでありました。
◆神に愛される教会
最後に「聖霊に聞く教会」は、「神に愛される教会」であることを述べた いと思います。「聖霊に聞く教会」は、キリストの心を心とする教会、キリ ストに倣う教会です。キリストの体である教会には、キリストの似姿が認め られるはずです。では、キリストの似姿は、どのようにして実現されるので しょうか。結論から言えば、「聖霊に聞く教会」は「神に愛される教会」で あるはずであります。その根拠は三位一体の奥義において明らかです。
父なる神は御子を愛するものです。ですから、御子にとって子であること は、父を愛することではなく、父から愛されることであります。父なる神様 の愛を心から受け取ることにおいて、御子は子であるのです。父なる神様は、 愛することによって父であることを、御子は愛されることによって子である ことを実現するからです。聖霊は、父と子の間柄ですから、父が子を愛し、 子が父から愛されることによってその交わりが深まれば深まるほど、聖霊は 充満することになります。これが三位一体の奥義です。
とすれば、神様とキリストの体である教会の関係は、父と子との関係に見 られるように、愛されることに教会の本来的な姿が実現することになります。 父なる神様に従順であられたキリストの生き方は、確かに表面上は神様を愛 し隣人を愛するものでした。しかしながら、その内的生活において、キリス トは御子として父から愛されるものであるという性格を失うことはありませ んでした。
では、教会が「愛されるもの」としての性格を有することを裏付けるみこ とばはあるのでしょうか。二つの個所を上げれば十分でしょう。
(1)まず一つは、復活されたイエス様とペトロの会話です。主は三度ペテ ロに「あなたはわたしを愛するか」と問われました。三度イエス様を知らな いと否定したペテロはこの時、「わたしは愛しています」と言えませんでし た。なんと答えたか。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存 知です」と答えています。つまり、イエス様とペトロの関係は互いに愛する 関係ではありませんでした。二人の関係は、イエス様がまずペテロを愛し、 その愛にペテロが応えることによって生まれた関係でした。
(2)もう一つは、マルタとマリヤの話です。イエス様一行をもてなすこと に忙しく心をとり乱してしまったマルタは、イエス様に愚痴を漏らしてしま いました。「主よ、私の姉妹は私だけにもてなしをさせています。何とも思 いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」一言で 言えば、「不公平だ」ということです。イエス様の足もとに座って話を聞い ているマリアを見て、マルタは妬みに駆られたのでした。
イエス様はお答えになりました。「マルタよ、マルタよ、あなたは多くの ことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけであ る。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」ここで押 さえておかなければならないのは、イエス様は二人を愛しておられたという こと、そしてマルタもマリアもイエス様を愛しているということです。しか し、マルタは自分の思いにまかせて、イエス様を愛しました。イエス様に喜 んでいただくためにどうすればいいか、心を煩わせました。それでイエス様 は「どうして、あなたはわたしのもとにきて、わたしが今、何を望んでいる のか、聞いてくれないのか」と言われるのです。イエス様にとって一番のも てなしは、彼女たちが自分を慕ってくれることだったからです。一方、マリ アは、ただイエス様の足もとに座ってイエス様の話を聞いていたわけではあ りませんでした。イエス様の求めに答えるためでした。つまり、マリアは愛 されることによって答えたのでした。二人の関係の深さは、しばしば二人が どれだけ沈黙に絶えられるかによって測ることができるものです。何かする ことで人は、二人の間にある問題から逃げる場合があります。実際、何もし ないで一緒にいることができるというのは、愛されているという確信がなけ れば絶えられないことです。
例えば、今日朗読された個所に登場してくる伝道を妨げた魔術師エリマ、 あるいは、ユダヤ人たちもまた、ある意味、その根において神様に愛される ことを望んでいる人たちでした。しかし、魔術師はその気持ちに偽って神様 を呪い、魔力をもって自分の貧しさを隠した人でした。一方、ユダヤ人たち は、神様の恵みを知りながら、恵みに根拠を置かず、契約に希望を置いたた め契約を守ることにいつも気を配らなければならなくなりました。結果、神 様に愛されたいという妬みは、律法を持たない異邦人への優越感となって現 れたのでした。ですから、異邦人も愛されているという福音を聞いたとき、 ユダヤ人たちの妬みは露になりました。妬みに囚われるとき、人は主の声を 聞くことができなくなるのです。
妬みとは、主に愛されたいという思い、神様に造られた人間の本性からの 願いに偽ることから生まれてくる衝動であります。
◆ 終りに
こういうわけで、「派遣する教会」は「聖霊に聞く教会」でした。「聖霊 に聞く教会」の姿は、御子イエス・キリストにおいて示されているように、 「神に愛される教会」でなければなりません。なぜなら、何をしようかと主 を喜ばせるために思い煩うとき、マルタのように妬みに駆られてしまうから です。主の愛を信じて、大胆にキリストの足もとに控えるマリアのように、 主に愛されること、神様との交わりを慕い求めることによってのみ、キリス トのからだである教会はみずからの本分に気づくのであります。現代の教会 は、聖霊に聞くことを忘れていないでしょうか。神を愛し隣人を愛せよとい う教えをもって、自分たちが思うもてなしに忙しく立ち働いているのではな いでしょうか。教会の本領は主に愛されることによって初めて発揮されてく るものです。主の足もとに大胆に出て、愛されましょう。