「エルサレム会議」                       使徒言行録15・1‐21 ●ただ主イエスの恵みによって  以前お話ししましたように、教会は当初ユダヤ人のみによって構成されて おりました。福音宣教の場所はユダヤ人の会堂でありました。キリスト者の 群れは人々からユダヤ教の一派と見なされていました。彼ら自身も自らをそ う見なしていました。しかし、やがてキリストの福音はユダヤ教の枠を飛び 出すことになります。隔ての壁を超えて異邦人にも福音が宣べ伝えられるよ うになりました。その中心となったのはアンティオキアの教会です。その教 会からパウロとバルナバが宣教の旅へと送り出されました。その結果、多く の異邦人が主イエスを信じ、洗礼を受け、主の教会に加えられました。その 様子は13章から14章にかけて記されております。  新たに教会に加わってきました異邦人キリスト者は、ユダヤ人キリスト者 にとってまったく異質な存在でした。同じキリストを信じる者とは言え、そ の生きてきた背景も置かれている環境もまったく異なります。一般的に言い まして、異質な存在が加わる時、そこには同化しようとする力が働きます。 教会においても、新たに加わった異邦人キリスト者という異質な存在を同化 しようとする力が働きました。本日お読みしました聖書箇所には次のように 書かれております。「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に 従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えて いた」(1節)。この「ある人々」とは、5節にあります「ファリサイ派か ら信者になった人」のようです。彼らは、モーセの慣習に従って割礼を受け、 律法を守って生きてきた人々です。言い換えるならば、神から律法を与えら れたユダヤ人であることを徹底的に意識して生きてきた人々です。そのよう な彼らが、異邦人キリスト者同化運動の急先鋒となったことは十分理解でき ます。  実際、彼らの主張は根拠なきものではありませんでした。福音のルーツは イスラエルの民にこそあるからです。神との契約も、神の国の約束も、メシ アによる救いの希望も、もともとは彼らに与えられ、彼らが保持し、彼らが 伝えてきたものです。聖書は彼らの書物でした。肉によればキリストもダビ デの子孫として生まれたのです。元祖キリスト教会は異邦人教会ではなくユ ダヤ人教会なのです。その教会に、異邦人たちはいわば後から加わってきた のですから、彼らはユダヤ人と同じようになって初めて主の教会の中に留ま り得るし、救いに与ることもできるという主張も頷けます。  しかし、ユダヤ人キリスト者が皆、そのように考えたのではありませんで した。「それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対 立と論争が生じた」(2節)と言うのです。そこでこの問題を協議するため に、エルサレムにおいて最初の教会会議が開かれました。それが本日お読み しました聖書箇所の内容です。  ユダヤ主義者たちが異邦人キリスト者を同化しようとしたのに対し、パウ ロとバルナバは、異邦人キリスト者は異邦人のままで良いと考えておりまし た。これはパウロやバルナバがユダヤ人としての意識に欠けていたからでし ょうか。いいえ、決してそのようなことはありません。パウロもまたファリ サイ派に属していました。彼はガマリエルという高名なラビの門下生であり ました。彼ほど自らがユダヤ人であることを意識していた人はいないと思わ れます。彼は、「わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、 キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思ってい ます」(ローマ9・3)とまで言うのです。にもかかわらず、教会にいる異 邦人キリスト者については、異邦人のままで良いと考えていたのです。いっ たい、同化を主張するユダヤ主義者とパウロとは、どこが違っていたのでし ょうか。  そのことを理解するために、私たちたちはパウロの自己理解を伝えている 聖書箇所を一箇所見ておきたいと思います。後にパウロはテモテに宛てた手 紙において、次のように書き記しました。「以前、わたしは神を冒涜する者、 迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行 ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、 キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。 『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実 であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる 者です」(1テモテ1・13‐15)。  パウロはユダヤ人です。彼は幼い時から律法を守ってきました。しかし、 パウロは、自分が神に受け入れられ、神の民とされ、救いの約束を与えられ ていることを、決して当然のことと考えてはいなかったのです。むしろ、彼 は驚きをもってその事実を見つめています。「罪人の中で最たる者」が、神 に受け入れられているとするならば、それは罪人を救うために世に来られた キリスト・イエスの恵みによるのであって、それは神の憐れみ以外の何もの でもないことを、パウロは知っていたのです。  今日お読みしました聖書箇所において、ペトロもまた同じことを言ってい ます。彼は自分自身の異邦人伝道における経験を、次のような言葉をもって 締めくくりました。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信 じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」(11節)。そう です、すべては罪人を救うために来てくださった主イエスの恵みによるので す。御自身を私たちの罪の贖いのために与えてくださった、主イエスの恵み によるのです。それは今日の私たちにおいても同じです。私たちが神によっ て受け入れられ、神の国を待ち望みつつ、こうして教会の中に存在して主を 礼拝しているのは、ただ主イエスの恵みによるのであり、神の憐れみによる のです。ペトロの言うとおりです。  しかし、残念ながら、その意識を私たちが常に保っているとは限りません。 まさか「教会の中にいてやっている」などと思っている人はいないでしょう。 しかし、「教会の中に自分がいることは当然のこと」と私たちは往々にして 考えているものです。そして、いつの間にか、自分を当然のごとく神の民の 中心に据えて、あのユダヤ主義者のように語っているかも知れません。異邦 人である私たちが神の憐れみによって神の民の片隅に存在させていただいて いることを忘れ、その驚くべき恵みに対する感謝も忘れ、神に対しても人に 対しても傲慢に振る舞っていることの何と多いことかと思います。私たちは、 このペトロの言葉をしっかりと心に刻みつけておく必要があるでしょう。 ●異なる者たちが共に生きるために  ところで、エルサレムにおいて行われたこの最初の会議の結論はどのよう なものとなったのでしょう。最後に語ったのは、ファリサイ派から信者にな った人々と比較的近い関係にあったと思われるヤコブでした。彼は、異邦人 が異邦人として神の民に加えられることは聖書の記述とも合致することを示 した上で、次のように提案しました。「それで、わたしはこう判断します。 神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。ただ、偶像に供えて汚れた肉 と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙 を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、 安息日ごとに会堂で読まれているからです」(19‐21節)。そして、こ の提案は皆に受け入れられ、これを決定事項として各地の教会に書き送るこ ととなりました。  この結論をどう思われますでしょうか。奇妙な結論だと思いませんか。偶 像に供えて汚れた肉と、みだらな行いとを避けなさい、という部分について はまだ分かります。異邦人キリスト者は回心の後もなお、異教的な祭儀と性 的な不道徳が深く結びついていた社会の中で生きていかなくてはならないか らです。しかし、その後の「絞め殺した動物の肉と、血とを避けるように」 という勧めについてはどうでしょう。これはユダヤ式の屠殺法によらない、 血が残っている肉を食べるなということのようです。「血を避ける」という 言葉も、レビ記17章11節に書かれている「血を食べるな」という規定に 関する勧めです。そうしますと、これはやはりユダヤ人たちが守ってきた律 法に関することです。結局はやはり、異邦人キリスト者たちにユダヤ人と同 じように生活することを求めているではありませんか。ペトロが言った「わ たしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これ は、彼ら異邦人も同じことです」というあの言葉はどうなってしまったので しょう。  しかし、ここで私たちは一つのことに注意しなくてはなりません。異邦人 キリスト者にそのようなことが求められているのは、そうしなければ彼らが 救われないからではありません。そうしなければ、彼らはキリスト者ではあ り得ないと言われているのでもありません。ヤコブはそのようなことを一言 も語ってはおりません。ヤコブが挙げているのは、まったく別の理由です。 「モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに 会堂で読まれているからです」。それが理由でした。要するに、どこの町に も、小さい時から安息日ごとにモーセの律法を聞いて育っているユダヤ人が いるということです。律法によって生きてきた人たちがいるということです。 これは、異邦人の町々において伝道するとしても、そこに設立された教会に 異邦人だけがいるとは限らないということを意味します。信仰者の共同体に は異邦人もいれば、今まで律法によって生きてきたユダヤ人キリスト者もい るということです。ユダヤ人と異邦人が共に教会生活をするのです。  そこで問題になるのは、「どうしたら救われるか」ではありません。どう したら、異なる背景を持つ者たちが共に生きることができるか、ということ です。例えば、教会では共に食事をします。古代の教会においては「愛餐 (アガペー)」と呼ばれ、重要な位置を占めていました。しかし、もしそこ に血抜きをしていない肉が異邦人の習慣に従って出されたらどうでしょう。 ユダヤ人は一緒に食事をすることができません。そこに偶像に捧げられ、そ の後に市場に出回った肉が出されたらどうでしょう。ユダヤ人は一緒に食事 をすることができません。それはユダヤ人の偏狭さの問題であって、ユダヤ 人が改めればよいことなのでしょうか。いいえそうではありません。聖書は まったく別の方向を指し示すのです。それは愛に基づく配慮です。愛に基づ く配慮は、時として自由の一部を放棄することを意味するのです。異邦人と ユダヤ人が主の御前において共に生きるために、異邦人キリスト者は愛に基 づく配慮をもって幾つかの事柄は避けてほしい。それがこの決定の真意に他 ならないのです。  このエルサレム会議の記事は、非常に重要な二つのことを示しております。 第一に、私たちは、何かを行い、あるいは何かを避けることによって救われ るのではありません。ペトロの言うとおり、私たちはただ主イエスの恵みに よってのみ救われるのです。しかし、第二に、私たちは、「何を行うべきか、 何を避けるべきか」をしっかりと考えねばなりません。それは救われるため ではなく、主イエスの恵みのもとにある異なる者たちが共に生きるためです。 主イエスの恵みによって救われた者たちには、愛に基づく行動が求められて いるのです。