「獄中からの賛美」
2002年9月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録16・11‐34
●投獄されたパウロとシラス
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、 ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(25節)。獄中で賛美をうたっ て祈っている二人の姿は、使徒言行録全体の中においても特に印象的です。 ところで、彼らはなぜ獄中にいるのでしょう。これはパウロの第二回伝道旅 行の途上のことですので、私たちは単純に、彼らは信仰のゆえに迫害を受け ているのだ、と考えてしまいがちです。しかし、その点については注意深く あらねばなりません。実は、彼らは、キリスト教に対する迫害のゆえに投獄 されたわけではないのです。
事の経緯を見ておきましょう。彼らはフィリピに滞在中、占いの霊に取り つかれている女奴隷と関わり合いになりました。彼女はパウロとシラスの後 ろについて来て、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を 宣べ伝えているのです」(17節)と叫んでいたのです。そのようなことが 幾日も繰り返されました。彼女の言っていることは、言葉としては間違いで はないかもしれません。しかし、占い師がそれを語り、人々がその言葉を聞 くときに、その意味するところはキリストの福音とはまったく異質なものと なってしまいます。それは宣教の妨げでしかありませんでした。たまりかね たパウロは、その女を支配している霊に命じます。「イエス・キリストの名 によって命じる。この女から出て行け。」すると、即座に、霊が彼女から出 て行きました。
しかし、事はそれで終わりませんでした。この女奴隷は占いをして主人た ちに多くの利益を得させていたからです。彼女は悪霊から解放されて幸いで ありましたが、主人たちは占いによる金儲けの道が断たれたので不利益を被 りました。それゆえ、彼らはパウロとシラスを捕らえて広場に引き立ててい き、高官に引き渡して彼らを訴えたのです。これは利害の問題ですから、通 常でありますならば、訴えに従って正規の取り調べが始まるはずでした。と ころが、ここで異常な事が起こるのです。「群衆も一緒になって二人を責め 立てた」(22節)というのです。しかも、これがかなりの大騒ぎとなった ため、高官たちは群衆を満足させて鎮めるために、二人の衣服をはぎ取り、 「鞭で打て」と命じたのです。そして、パウロとシラスはさんざん鞭で打た れたあげく、牢に投げ込まれたのでした。
法治国家においてあるまじきこの異常事態は何故に起こったのでしょうか。 彼らがイエス・キリストを宣べ伝えていたからでしょうか。彼らがキリスト 者だったからでしょうか。いいえ、そうではありません。人々にとって、彼 らがキリスト者であるかどうかは、どうでも良いことでした。それは訴えた 人々の言葉から分かります。彼らは言いました。「この者たちはユダヤ人で、 わたしたちの町を混乱させております」(20節)。つまりパウロとシラス は、キリスト者であるからではなく、ユダヤ人であるゆえに酷い目に遭った のです。
このことについては、フィリピの町という特殊事情を加味して考えなくて はなりません。フィリピは12節にありますように、「ローマの植民都市」 でありました。そこはラテン語が語られ、ローマ法のもとに治められ、使用 される貨幣にもラテン語が刻まれている、さながら小さなローマともいうべ き町でありました。有力な住民たちは、ローマの市民権を持つ退役軍人など の入植者です。そのローマ人たちにとって、ユダヤ人は一つの被占領民族に 過ぎません。しかも、彼らの目から見てユダヤ人たちは、頑なに自らの習慣 に固執し、決してローマ帝国に同化しようとはしない特殊な人々として映っ ていたに違いありません。ローマ人たちの内に少なからず根強い反ユダヤ感 情があったことは、21節の「ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入 れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」という言 葉に現れております。しかも、パウロはフィリピにユダヤ人の会堂としては 成立していない「祈りの場所」(13節)しか見いだせませんでした。それ はユダヤ人が圧倒的に少数であったことを意味します。これがフィリピにお いてユダヤ人の置かれていた状況です。そのような事情のもとでこの事件は 起きたのです。
自分の仲間や自分よりも強い者によって不利益が生じた場合、そのことを 人々はある程度我慢するものです。この女奴隷の主人たちが、例えばローマ 皇帝の勅令によって不利益を被ったのなら、こんな騒ぎにはならなかったで しょう。しかし、人は自分が軽んじていたり、見下している者によって不利 益を被った時、それに我慢することができません。彼らにとって我慢ならな かったのは、よりによって《ユダヤ人》が占いの商売を邪魔し、損害を与え たということだったのです。そして、そのような差別意識に基づいた感情は 簡単に伝染するものです。火がつくと瞬く間に燃え上がります。直接損害を 受けたのでない群衆までパウロとシラスを責め立てました。その差別意識は 公職にある高官においても同じです。彼らは取り調べをすることなく二人を 鞭打たせたのです。
私たちは、これが福音宣教とは関係なく、キリスト教信仰に対する反対で もなく、まったく脈絡のないユダヤ人差別によるリンチであり投獄であった ことを良く考えてみる必要があります。人は自分が命がけで取り組んでいる 事業に伴う困難や苦難ならば、ある程度耐えられるものです。理想的な社会 を実現するために、あるいは革命を起こすために、自らの血を流し、拷問を 耐え忍んだ人々は決して少なくはありません。高い理想があるならば、その 実現のために苦難を耐え忍ぶことは、人に誇りと喜びさえ与えるものです。 その一方で、実に耐え難いのは、意味のわからない苦難です。価値あること とは結びつかない苦難や不当な仕打ちには我慢がなりません。しかし、私た ちが経験する苦悩の圧倒的大部分は、そのような意味や価値とは直接結びつ かない苦悩によって占められているのではないでしょうか。
この章のパウロとシラスもまた、そのような全く意味のない、不当な仕打 ちでしかない、ユダヤ人差別の結果でしかない苦しみの中に置かれているの です。そして、彼らは――主を賛美していたのです!
なぜ、パウロとシラスは、獄中において賛美をしていたのでしょう。答え は至って単純です。それは彼らが神に向かっていたからです。誉め称えられ るべき方に向かっていたから誉め称えていたのです。彼らはなぜ祈っていた のでしょう。それは彼らが神に向かっていたからです。祈りを聞いてくださ る方に向かっていたからです。彼らは、牢獄の外において神を礼拝していた ように、牢獄の中において礼拝をしていただけです。それ以上でもそれ以下 でもありません。
彼らにとって、自分が受けている苦難に意味があるかどうかなどというこ とは、大して重要なことではなかったに違いありません。意味は神さまが考 えてくだされば良いのです。彼らにはもっと大事なことがありました。牢獄 の外にある時と同じように、牢獄の中においても、彼らが神の御前にいると いう事実です。主の御前にいることが許されており、そこにおいても主を礼 拝することができるという事実です。四方を壁に囲まれていても、愛する主 に近づくことができるという事実なのです。
●看守の回心
物語はさらに続きます。その夜、突然、大地震が起こりました。地震は自 然現象です。しかし、地震がその夜に起こったことは、神の奇跡的な介入で あると言っても良いでしょう。26節の「突然」という言葉や、「たちまち 牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった」という描写などは、 これが神の奇跡的な介入であることを強調しているように思います。
しかし、奇跡や超自然的な現象によって、人が神に出会うとは限りません。 少なくとも、牢を見張っていた看守は、この驚くべき出来事は見ましたが、 そのことによって神には出会ったわけではありません。彼にとっては、牢の 扉が開いていること自体が重大なことでありました。囚人たちが逃げてしま ったと思った看守は剣を抜いて自殺しようとしたのです。
この看守にとって大きな出来事は、地震そのものではなく、地震の後に起 こりました。彼は闇の中から大声で叫ぶ声を聞いたのです。「自害してはい けない。わたしたちは皆ここにいる」というパウロの声を聞いたのです。し かし、重要なのはその言葉そのものでも、囚人が逃げなかったという事実で もありませんでした。そうではなくて、死を免れた看守は、神と向き合うこ とになったのです。パウロとシラスが闇の中において誉め称えていた、その 生ける神の御前に自分が引き出されていることを悟ったのです。ですから、 彼は囚人が逃げなかったことを単純に喜びませんでした。彼は震え上がった のです。彼が震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言いいました。 「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。
人が真に生ける神の御前にある自分を意識し始める時、そこでは一つの問 いが決定的に重要なものとなります。この私は神に受け入れられるのか、そ れとも罪人として神に裁かれ滅びるのか、ということです。言い換えるなら ば、この私は赦されるのか、それとも赦されないのか、救われるのか、それ とも救われないのか、ということです。ですから、そこであの看守は問わざ るを得なかったのです。「救われるにはどうすべきでしょうか」と。
「どうすべきでしょうか(何を行うべきでしょうか)」と彼は尋ねました。 しかし、パウロはこの問いに直接答えませんでした。なぜなら、救いは何ら かの行為と引き替えに得られるものではないからです。大事なことは「何を 行うか」ではなくて「誰を信じるか」です。罪人を救うために世に来られた 御方を信じることです。パウロは答えました。「主イエスを信じなさい。そ うすれば、あなたも家族も救われます」。
パウロとシラスは看守とその家族に主の言葉を語りました。彼らは主を信 じて洗礼を受けました。そして、「神を信じる者になったことを家族ともど も喜んだ」(34節)と書かれております。彼らはその後、どうなったので しょうか。私たちには知る由もありません。ただ、彼らが生まれたばかりの フィリピの教会において、他のキリスト者と共に礼拝を守っていくことは、 彼らの生活に少なからぬ困難や苦難をもたらしたであろうことは想像できま す。
しかし、彼らの生活の中に苦難があるかないか、その苦難に意味があるか ないかは、彼らにとって決定的に重要なこととはならなかったであろうと思 うのです。なぜなら、彼らは「神を信じる者となったこと」を喜んだのであ って、苦難がなくなったことを喜んだのではないからです。そのような彼ら にとって大事なことは、パウロとシラスにとってそうであったように、彼ら が神の御前にあるということであり、神に赦され受け入れられた者として神 の御前にあるということであったに違いありません。