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「エフェソ伝道」

2002年9月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録19・1‐20

 今日与えられていますのは、パウロのエフェソ伝道を伝えている聖書箇所 です。特に目を引きますのは19節の言葉です。「また、魔術を行っていた 多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積 もってみると、銀貨五万枚にもなった」。これは驚くべき額です。約五万人 分の日当に当たります。それほどおびただしい数の魔術に関する書物がエフ ェソには存在していたということです。まさにエフェソ伝道は魔術との戦い であったことが分かります。「魔術」と言いますと、私たちに縁遠いことの ように思えますが、実はそうではありません。魔術的な行為との戦いは、福 音宣教の本質に属するのです。しかし、そのことについて考える前に、神が まずエフェソの教会をどのように備えられたかを見ておきましょう。

●ヨハネの洗礼

 エフェソの伝道は、パウロが開始したわけではありません。既にアポロが 伝道を始めておりました。アポロについては「彼は主の道を受け入れており、 イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていたが、ヨハネの洗礼しか 知らなかった」(18・25)と紹介されています。つまり、彼は主イエス を宣べ伝えながらも、洗礼者ヨハネの宣教の域を出てはいなかったというこ とです。

 アポロが知っていた「ヨハネの洗礼」については、ルカによる福音書を通 して知ることができます。「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に 行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3 ・3)と書かれています。これが「ヨハネの洗礼」です。悔い改めの洗礼は、 差し迫った裁きを背景として語られておりました。「斧は既に木の根本に置 かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」 (同3・9)。また、来るべきメシアは麦と殻を分ける農夫として描写され ています。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を 集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(同3・17)。 この裁きの日が来る前に、悔い改めて罪の赦しを受けるべきである。実に明 快なメッセージです。この使信は、彼の死後もヨハネの弟子たちを通して伝 えられていきました。

 アポロもまた、この使信を受け入れ、ヨハネの洗礼、すなわち悔い改めの 洗礼を受けた人でした。もちろん、彼は「主の道」をも受け入れていました から、罪の赦しをイエスの名によって宣べ伝えたことでしょう。また、再臨 のイエスこそ最後の審判者であると宣べ伝えたことでしょう。しかし、その 使信の中心は、神の裁きへの備えなのであり、ヨハネの宣教の域を出てはい なかったのです。

 パウロがエフェソで出会った弟子たちは、そのようなアポロの宣教を通し て洗礼を受けた人々であったと思われます。彼らもヨハネの洗礼しか知らな い人々です。彼らは来るべき裁きに備え、悔い改めにふさわしい良い実を結 ぶために努力していたに違いありません。これは現代においても見られる、 信仰生活の一つのパターンです。来るべき神の怒りから逃れるためだけの悔 い改め。裁かれて滅ぼされないために良い実を結ぼうとする努力。救いを確 保するための教会生活。もちろん、神の審判を軽んじてはなりません。しか し、ただ裁きを免れるための信仰生活ではあまりにも不健全です。

 パウロはエフェソの弟子たちの中に、そのような問題があることを見抜い たのでしょう。彼はやにわに尋ねました。「信仰に入ったとき、聖霊を受け ましたか」。すると彼らは答えます。「いいえ、聖霊があるかどうか、聞い たこともありません」。「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と尋ね ると、彼らが受けたのはヨハネの洗礼であるとのことでした。そこでパウロ は彼らにとって非常に大事なことを語り聞かせたのです。「ヨハネは、自分 の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの 洗礼を授けたのです」(4節)。

 悔い改めが信仰生活の全てではありません。その先があります。「イエス を信じる」ことです。既に来られたメシアなるイエスを信じるのです。それ は十字架にかかって罪を贖ってくださった苦難のメシアなるイエスを信じる ことだけではありません。復活して永遠に生きておられる主なるイエスを信 じることです。復活の主は信じる者に聖霊を注がれます。聖霊を満たしてく ださいます。そして、その神の御霊は私たちの内に住まわれ、この地上にお いて生きて働かれ、神の国・神の支配をこの地上に現されるのです。

 かくしてパウロが彼らに主イエスの名によって洗礼を授け、彼らの上に手 を置くと、彼らの上に聖霊が降りました。彼らは異言を話し、預言をし始め ました。しかし、大事なことは、超自然的なしるしそのものではありません。 彼らが終末の裁きだけを見ていた洗礼者ヨハネの使信から踏み出し、復活さ れた主イエスを信じ、既に始まっている神の恵みの支配のもとに生き始めた ということです。そして、終末まで続くこの地上における聖霊の働きに参与 するようになったということです。聖霊の働きに参与するということは、こ の世の魔術的なものとの戦い、悪しき霊との戦いに参加することでもありま した。そのことを次に見ていくことにしましょう。

●魔術との闘い

 冒頭にも触れましたように、エフェソにはおびただしい数の魔術に関する 書物が存在していました。それはエフェソに多くの魔術師がいたことを意味 します。

 魔術や呪術の根底にあるのは、超自然的な力、神的な力を支配して、自由 に用いたいという人間の欲求です。そのような神的な力を欲するのは、人間 の自然的な力では手に負えないこの世界の現実があるからです。ですから、 魔術とは、この世界の現実を自分の思い通りに支配したいという欲望の現れ に他なりません。言い換えるならば、それは自分を神の位置に置こうとする 欲求です。

 そのような欲望が満たされることによって増大するのは人間のエゴイズム でしかありません。人がたとえ超自然的な力を自由に用いることができたと しても、そのことが神への愛と従順に導くことは決してありません。むしろ、 それは神から人を引き離す力として働きます。魔術的行為の真の主体は神か ら人を引き離す力なのです。そのように人を神から引き離す力を、聖書的な 表現を用いて「悪霊」と呼ぶこともできるでしょう。悪霊は人間の欲望を満 たすことによって人を神から引き離すのです。

 そのような悪霊の現れは、現代社会において様々な形において見出すこと ができます。必ずしもオカルトや新興宗教など、宗教的な様相を帯びたもの ばかりとは限りません。時として自己啓発や自己開発といった非宗教的な仮 面をかぶって身近なところに存在するものです。いや、むしろ宗教的な様相 を呈していない諸々の悪霊の働きの方が深刻であると言えるでしょう。

 この悪霊との戦いこそ、聖霊に満たされたパウロとエフェソの教会が戦わ なくてはならなかった闘いでありました。そして、今日の教会の闘いでもあ るのです。それは神がその愛と恵みによってこの世界を治めるための闘いで あります。それは人間を解放して自由にし、真に神を愛し神に従う者とする ための、神の霊の闘いであります。人はどのようにして、この闘いを進めた らよいのでしょうか。パウロはどうしたのでしょう。

 パウロが行ったことは、エフェソにおいても、他の町においても、同じで す。彼は御言葉を宣べ伝えたのです。神の国を宣べ伝えたのです。イエスと いう御方の到来と共に、神の恵みの支配が、既に始まっていることを語った のです。しかし、この宣教は、他の場所と同じように頑迷なユダヤ人の抵抗 に遭いました。そこでパウロは会堂から離れ、ティラノという人の講堂に場 所を移します。そこは朝に夕に哲学が講じられていた場所であったと思われ ます。そこにおいて、パウロは毎日御言葉を語り伝えたのでした。その結果 を聖書は次のように伝えています。「このようなことが二年も続いたので、 アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉 を聞くことになった」(10節)。

 そして、11節以下の報告が続きます。「神は、パウロの手を通して目覚 ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行っ て病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」 (11‐12節)。これは10節から切り離してはなりません。これは神の 国のしるしなのです。神の国が宣べ伝えられるに伴い、神の国を指し示すし るしとして、恵みの支配の現実を、神自ら現してくださったのです。

 しかし、神の言葉を聞くことなく、神の国を求めることなく、悔い改めて 神に立ち帰ることもなく、ただ奇跡そのものに心惹かれる人々は、いつの時 代にもいるものです。パウロの時にもそうでした。そのような人々の中には、 各地を巡回しているユダヤ人の祈祷師たちもおりました。そのような中に、 祭司長スケワの七人の息子たちもいたのです。彼らは主イエスの名によって 神の力を自由に行使できると考えたのでした。彼らは「パウロの宣べ伝えて いるイエスによって、お前たちに命じる」と悪霊に向かって語りました。し かし、主イエスとパウロとの関係は、主イエスと彼らとの関係とは明らかに 異なります。スケワの息子たちは、かえってひどい目に遭いました。主は侮 られる御方ではありません。神は絶対的な主体であって、私たちがその権威 に服するとき、神は恵みをもって私たちを治め給います。しかし、私たちが 主人となって、神の力を利用しようとするとき、神は決してそれを良しとは されないのです。そのことによって人は自らに裁きを招くことになるのです。

 そのような不届き者らが一方におりましたが、他方において、信仰に入っ た大勢の人が来て、自分たちの悪行を告白し始めました。この「悪行」とは 前後の関連からすると、自分たちが関わってきた魔術的な行為のことであろ うと思います。魔術を行っていた者たちはその書物を皆の前で焼き捨てまし た。もはや必要ないことが分かったからです。人は神を信じ、神の御支配の もとに生きればよいのであって、自分が特別な力を得て現実を思い通りにし なくて良いことが分かったからです。

 神から人を引き離そうとする悪しき勢力の完全な敗北でした。人々は、解 放された者として、神と共に生き始め、真の救いを得たのです。それはすべ て、神の言葉の力によるものでした。それゆえ、ルカは20節にこう記して おります。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増 していった」と。そして、この力ある主の言葉が私たちにも与えられ、私た ちにもその宣教を委ねられているのです。

 
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