「嵐 の 中 で」                      使徒言行録27・13‐38  本日与えられています聖書箇所は、パウロがローマへと護送される途上に おける出来事を伝えております。パウロを乗せた船が暴風に襲われたという 話です。私たちは、今日、この箇所の中で、特に二つの言葉に心を留めたい と思います。一つは、25節の言葉です。パウロが同船している人々に語っ た言葉です。「ですから、皆さん、元気を出しなさい」。もう一つは、36 節です。「そこで、一同も元気づいて食事をした」。 ●元気を出しなさい  パウロの語った「元気を出しなさい」という言葉を理解するために、少し 遡って状況を捉えておきましょう。  航海の途上において、彼らは「良い港」と呼ばれるところに寄港しました。 既に秋も深まり航海が危険な季節に入っています。そこでパウロは人々に忠 告します。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ば かりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになりま す」(10節)。しかし、その港は冬を越すのに適していませんでした。結 局、大多数の者の意見により、出航することになったのです。  13節には次のように書かれています。「ときに、南風が静かに吹いて来 たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿 って進んだ」(13節)。順風です。順風が吹くと、人は「望みどおりに事 が運ぶ」と考えます。しかし、往々にして事は望みどおりには運びません。 「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下 ろして来た」(14節)と書かれています。  「風」の話です。この章においてルカは繰り返し「風」に言及します。 「風」は航海する者にとって、人間の力の及ばない自然の力の代表です。も ちろん、船のことだけを考えるならば、船に原動機が付けられた時点で、風 の問題は克服されたと言えます。しかし、人間が依然としてその力の及ばな い諸力のもとにあるという現実は変わりません。人の力を越えた力によって、 しばしば私たちの予定は変更され、あるいは中断されます。あるいは振り回 され、翻弄されます。時には危機的状況に置かれます。外なる力に対して、 我が身一つ守れない、自分の命さえ守れない者であることに、人は遅かれ早 かれ気付かされます。人間はいつの時代においても、自分が人生の主人であ るかのように傲慢に生きてきました。しかし、実際には主人になり得たこと などないのです。「望みどおりに事が運ぶ」と思って出航しても、エウラキ ロンが吹き下ろしてくるのです。  嵐に翻弄される船の上で、人々はどうしたのでしょう。18節以下には次 のように書かれています。「しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日に は人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨て てしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、 ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた」(18‐20節)。  望みどおりに事が運ぶと思っていたときには、積み荷や船具は極めて大切 なものでした。しかし、もはや望みどおりには進まなくなった時、これまで 大切であったものが、投げ捨てるべき重荷に変わります。今まで頼りにして いたもの、これさえあれば大丈夫と思っていたものが、実はいざとなると存 在そのものを支えるために何の役にも立たないことに気付かされます。彼ら は自らの手で、今まで彼らの生活を支えてきたもの、大切にしてきたもの、 頼りにしてきたものを投げ捨て始めます。そして、人が最後に投げ捨てるも の――それは自分の心の内にある希望です。彼らがすがりついていた、しが みついてきた、何とか辛うじて心の中に留めていた一縷の希望がありました。 しかし、それさえも、暴風が幾日も吹きすさぶ中にあっては、もはや何の役 にも立たなかったのです。  しかし、望みを失った人々のただ中に、パウロはまったく異なる姿で立っ ています。彼は人々に言いました。「皆さん、わたしの言ったとおりに、ク レタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいあ りません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失う が、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、 礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。 『パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、 一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。』です から、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告 げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に 打ち上げられるはずです」(21‐26節)。  パウロは、どうしたら助かるか、ということについて語っているのではあ りません。パウロがこれまで仕え、礼拝してきた神について語っているので す。どんなに風が吹きすさぼうが、波が翻弄しようが、変わることのない御 方について語っているのです。そして、その神からの言葉について語ってい るのです。  天使がパウロのそばに立ちました。それが幻だったのか、夢であったのか はよく分かりません。しかし、確かなことは、人々が自分の命を守ることに 必死であった時に、パウロは自分の命をゆだねるべき御方に向かっていたと いうことです。彼もまた嵐の中にありました。神に仕え、神を礼拝する者だ からといって、嵐を免れるわけではありません。同じように風に翻弄されま す。信仰者だからといって恐れや不安と無縁であるということはありません。 パウロも普通の神経を持った人間です。彼もまた他の人々と同じように恐れ ることもあるでしょう。望みを失ってしまうこともあるでしょう。しかし、 彼にはこれまで仕え、礼拝してきた御方がおりました。向かうべき御方がお りました。そして、彼は天使から「恐れるな」という言葉を聞いたのです。 天使からの言葉はすなわち神からの言葉です。それは神からの「恐れるな」 でありました。  私はここを読みながら自分自身のことを考えてみました。私は臆病な人間 です。恐れや不安を抱くこともしばしばです。その性質そのものは、信仰者 となってもたいして変わってはおりません。しかし、変わったことはありま す。私は自分が臆病であること、恐れを抱くこと、不安になることが気にな らなくなりました。「恐いんです。不安です」と訴えることのできる方がお られるからです。そして、私が恐れまいとする以前に、「恐れるな」と語り かけてくださる御方がおられるからです。  パウロは絶望した人々に「元気を出しなさい」と言いました。パウロが楽 天的であったからではありません。人並みはずれた強靱な精神力を持ってい たからでもありません。彼が仕え、礼拝してきた御方からの言葉を聞いたか らです。彼自身が「恐れるな」という言葉を聞いた者として、人々に語って いるのです。 ●一同も元気づいて食事をした  さて、船が漂流して十四日目の真夜中、船員たちはどこかの陸地に近づい ているように感じていました。水の深さを測ってみると、二十オルギィア (約37メートル)あります。もう少し進んでまた測ってみると、十五オル ギィア(約28メートル)になっていました。陸地に近づいていることは確 実でした。  その夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするよう勧めます。「今 日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきま した。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからで す。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33‐ 34節)。こう言ってパウロは、一同の前でパンを取り、神に感謝の祈りを ささげてから、それを裂いて食べ始めました。それに続いて、冒頭に挙げた 言葉が記されているのです。「そこで、一同も元気づいて食事をした」(3 6節)。  この言葉を理解するためには、正確に状況を捉えておかなくてはなりませ ん。陸が近づいてきたので、やっと安心して食事をすることができたのでし ょうか。やっと希望が見えてきた。確かにそうでしょう。しかし、この場面 はそれほど単純ではありません。この後の41節を読みますと、「船尾は激 しい波で壊れだした」と書かれています。嵐が静まったのではありません。 いまだに波は激しいのです。  しかも、30節以下にはたいへん奇妙なことが書かれています。「ところ が、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟 を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船に とどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」(30‐31 節)。いくら陸地が近づいたからといって、闇夜に、しかもまだ荒れている 海に小舟を出すということは、どう考えても自殺行為です。なぜ、そうまで して船員たちは船から逃げ出そうとしたのでしょうか。理由は自ずと明らか です。船に留まっている方が危険だと船員たちは判断したのです。船が既に 壊れかけていたのかもしれません。いずれにせよ、パウロも他の人々も、い まだ朝が明ける前、激しい波と風の中、船員たちが逃げ出したくなるような 船の上にいるのです。そのような船の上における食事なのです。安心できる 状況にあるから食事をしたのではないのです。  ではなぜ彼らは「元気づいて」食事をしたのでしょうか。その前にはこう 書かれています。「こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝 の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた」(35節)。ユダヤ人が 食事をする時のごく普通の所作です。しかし、ここであえて「パンを取り」 「感謝の祈りをささげ」「(パンを)裂いた」と書かれていることには注目 すべきでしょう。これらは皆、主イエスと弟子たちの最後の晩餐の場面に出 てくる言葉なのです。  パウロは、これまで幾度となく教会の兄弟姉妹と共に、主の晩餐を祝い、 パンを裂いてきたに違いありません。そのように、ここでも同じようにパン を裂いて食べているのです。つまり、パウロは教会においてキリストと共に あるのと全く同じように、この嵐の中の船においてもキリストと共にあるの です。人々はそこにただ単に《囚人パウロ》を見ているのではありません。 教会と共にあり、キリストと共にあるパウロを見ているのです。いや、パウ ロと共におられるキリストを見ているのだ、と言っても良いかもしれません。 彼らはそのキリストの臨在のもとにあったからこそ、「元気づいて食事をし た」のです。  こうして、護送される一囚人に過ぎなかったパウロが、嵐の中の船上にお いて、決定的に重要な役割を果たすことになりました。彼が優れた人であっ たからでもなく、彼が強い人であったからでもありません。彼が主と共にあ ったからです。彼の姿は、この世界のただ中に生きるキリスト者のあり方を 指し示しています。キリスト者は何をもって世に仕えるのでしょうか。キリ スト者は、真に神に向かい、キリストと共にあることによってのみ、この世 界において、与えられた役割を果たすことができるのです。