「回復の約束」
2002年10月6日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ書30・1‐17
今日は預言者エレミヤの言葉をお読みしました。「イスラエルの神、主は こう言われる。わたしがあなたに語った言葉をひとつ残らず巻物に書き記し なさい」(2節)。私たちが読んでいるのは、そのような主の命令によって 書き記された言葉です。言葉が書き記されるのは、後の人が読めるようにす るためです。これらは繰り返し読まれ、聞かれるべき言葉だということです。 預言者エレミヤは歴史上のある時代に生き、ある特定の状況のもとにおいて 神の言葉を語りました。しかし、神の言葉は、その時代に留めておかれるべ きではなく、時代を超えて聞かれなくてはならないのです。ここに書かれて いる言葉は、エレミヤの時代からおよそ二千六百年もの後に生きる私たちに も語りかけられている言葉なのであります。
●運命の転換
書き記された言葉において、主はこう語っておられます。「見よ、わたし の民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は 言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させ る」(3節)ここで主は「国土に連れ戻す」と言っておられるのですから、 この言葉を最初に聞いた人々は、国土を失った人々であることが分かります。 彼らは国家の滅亡を経験した人々です。そして、今まで生きてきた土地から 捕らえ移された人々です。それがアッシリアに滅ぼされた北イスラエル王国 の人々を指すのか、バビロニアに滅ぼされた南ユダ王国の人々を指すのかは 定かではありません。これがいつ語られた預言であるかも定かではありませ ん。しかし、いずれにせよ、神の言葉は、亡国の憂き目を見た、苦しみの中 にある人々に向けられていることは確かです。
しかし、人は苦しみの中にあっても、苦しみと向き合って生きているとは 限りません。あえて苦しみと向き合わないで生きるという選択肢もあります。 苦しみを《苦にしないで》生きている人もいるのです。現在の苦しみを思わ ず、ただ未来の希望だけを考えて生きる生き方もあります。前向きな、たい へん結構な生き方です。エレミヤの時代にも、そのような人々は確かにおり ました。
その代表的な一人は、28章に出てくるハナンヤという人物です。彼もま たエレミヤのように預言者として人々に語りかけていた人であります。暗い 時代でした。エルサレムはバビロンの王ネブカドネツァルによって征服され、 ユダの王ヨヤキンとエルサレムの主だった人々がバビロンへ捕囚として移さ れ、主の神殿の祭具まで奪い去られてしまったのです。しかし、その暗い時 代にあって、ハナンヤはこう言って人々を励ましていたのです。「イスラエ ルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。 二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪っ て行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」(28・2‐3)。
実に前向きな人です。今の苦しみや惨めさに目を向けるのではなく、近い将 来の回復を信じて、明るい未来へと目を向けるのです。結構なことではない ですか。このような人は賞賛されるべきでしょう。この人によって、どれだ け多くの人が慰められ、励まされたか知れません。
ところが、なんと聖書は、ハナンヤのような預言者の言葉を「偽りの預言 」と呼ぶのです。そのような預言者たちに対して、預言者エレミヤは真っ向 から対立するのです。エレミヤが人々に語ってきたのは、彼らとは全く異な る言葉でありました。「主はこう言われる。主の神殿の祭具は今すぐにもバ ビロンから戻って来る、と預言している預言者たちの言葉に聞き従ってはな らない。彼らは偽りの預言をしているのだ」(27・16)。そして、彼は、 バビロンの王の軛を負うようにと語ります。捕囚は長くなることを語るので す。人々が現在の苦しみを忘れて未来へと希望を繋ごうとしていた時に、そ の希望を打ち砕くようなことを語るのです。エレミヤは人々を、その惨めな 現実と向き合わせるのです。このような根の暗い人は、人々から歓迎される ことはないでしょう。しかし、聖書はこのエレミヤのような人を真の預言者 として指し示すのであります。
なぜでしょうか。それは人々が明るくなったり元気になったりすることよ り、もっと大事なことがあるからなのです。それは真に救われることであり ます。そのためには、苦しみは苦しみとして、神の裁きは裁きとして、一度 しっかりと受け止められなくてはならないのです。
今日の聖書箇所においてもそうです。エレミヤはただ回復の預言を語るだ けではありません。5節以下に次のような言葉があります。「主はこう言わ れる。戦慄の声を我々は聞いた。恐怖のみ。平和はない。尋ねて、見よ、男 が子を産むことは決してない。どうして、わたしは見るのか、男が皆、子を 産む女のように、腰に手を当てているのを。だれの顔も土色に変わっている。 災いだ、その日は大いなる日、このような日はほかにはない。ヤコブの苦し みの時だ…」(5‐7節)。エレミヤは災いなる「その日」について語りま す。「その日」とは、神の裁きの日のことです。エレミヤはこれまでもそう であったように、ここにおいても神の裁きについて語っているのです。苦し みの時は、苦しみの時として受け止められなくてはならないのです。恐怖の みで平和がないのに「平和だ、平和だ」と言っていてはならないのです。神 の裁きは、神の裁きとして受け止められなくてはならないのです。そうして 初めてその先の言葉を聞くことができるのです。
人が神の裁きのもとにある人間の現実と向き合って、初めて聞くことので きる言葉が、その先に待っています。「ヤコブの苦しみの時だ」が最後の言 葉なのではありません。さらに主はエレミヤを通して語られます。「しかし、 ヤコブはここから救い出される」と。
エレミヤが「その日」について語り、神の裁きについて語っているとする ならば、「ここから救い出される」とは、単に苦しみから救い出されるとい うことではありません。本質的には神の裁きから救われるということです。 神の裁きから救われるということは、神に赦されるということです。最終的 に裁くことのできる御方だけが、赦すこともできるのです。最終的に断罪し 滅ぼすことのおできになる御方だけが、滅びから救うこともおできになるの です。エレミヤの言葉を聞いていた人々にとって、本当に重要なことは、単 に失われた国土を再び得ることではありませんでした。単に失われた繁栄を 再び取り戻すことではありませんでした。神の与えてくださる救いは、何も なかったかのように元どおりになることではありません。人間にとって本当 に必要なことは、神に赦され、神の裁きから救われることなのです。
その意味において、3節の「繁栄を回復する日が来る」という訳は、誤解 を招きやすいと思います。ここには捕囚の民が解放されて帰還し、国が復興 すること以上のことが語られているのです。この言葉と深い結びつきがある のは、申命記30章です。新共同訳では、そこにおいて同じ言葉が、「運命 を回復する」と訳されています。「わたしがあなたの前に置いた祝福と呪い、 これらのことがすべてあなたに臨み、あなたが、あなたの神、主によって追 いやられたすべての国々で、それを思い起こし、あなたの神、主のもとに立 ち帰り、わたしが今日命じるとおり、あなたの子らと共に、心を尽くし、魂 を尽くして御声に聞き従うならば、あなたの神、主はあなたの運命を回復し、 あなたを憐れみ、あなたの神、主が追い散らされたすべての民の中から再び 集めてくださる」(申命記30・1‐3)。ある人は先の言葉を「運命を転 換する日」と訳しました。神の赦しによって、神の救いによって、運命が転 換するのです。神との関係が変わることによって、運命が転換するのです。 そのことにこそ、人はは目を向けなくてはならないのです。それはただ惨め な現実から目を背け、苦しみから目を背け、手軽な癒しと安易な希望を頼り に未来に向かうこととは、根本的に異なることなのです。
●懲らしめ給う神・癒し給う神
こうして、神の与えようとしている救いが神との関係の回復であり運命の 転換であることを知る時に、神の与え給う苦しみの意味もまた明らかにされ てまいります。主は捕囚の民にこのように語りかけられました。「わたしの 僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、 わたしはお前を遠い地から、お前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは 帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。わたしがお前と共に いて救うと主は言われる。お前が散らされていた国々を、わたしは滅ぼし尽 くす。しかし、お前を滅ぼし尽くすことはない。わたしはお前を正しく懲ら しめる。罰せずにおくことは決してない」(10‐11節)。
たとえ捕囚の民であっても、どんな惨めな姿であっても、主は彼らを「わ たしの僕ヤコブよ」と語りかけられます。主は共におられるのです。わたし がお前と共にいて救うと言われるのです。しかし、彼らが知らなくてはなら ないことがあります。それは何でしょうか。それは神が彼らを正しく懲らし められたのだ、という事実であります。
ですから主はここで、言葉を控えることなく、過酷な懲らしめについて語 られます。それは懲らしめを招いた彼らの罪を明らかにすることでもありま した。「主はこう言われる。お前の切り傷はいえず、打ち傷は痛む。お前の 訴えは聞かれず、傷口につける薬はなく、いえることもない。愛人たちは皆、 お前を忘れ、相手にもしない。お前の悪が甚だしく、罪がおびただしいので、 わたしが敵の攻撃をもってお前を撃ち、過酷に懲らしめたからだ。なぜ傷口 を見て叫ぶのか。お前の痛みはいやされない。お前の悪が甚だしく、罪がお びただしいので、わたしがお前にこうしたのだ」(12‐15節)。
しかし、そう言いながら、彼らの打ち傷と切り傷を一番心にかけておられ るのは、懲らしめ給うた神御自身なのです。彼らの痛みは神の痛みでもある のです。それゆえに、懲らしめ給う神はまた、癒し給う神でもあることを明 らかにされます。懲らしめ給うのは滅ぼしてしまうためではありません。生 かすためです。真に生かすためなのです。それゆえ主は言われます。「さあ、 わたしがお前の傷を治し、打ち傷をいやそう、と主は言われる。人々はお前 を、『追い出された者』と呼び、『相手にされないシオン』と言っているが 」(17節)。
人から見るならば見捨てられた者のように見えるかもしれません。誰から も相手にされない、神からも相手にされない者であるかのように見えるかも しれません。しかし、神はあくまでも相手にされるのです。関わり続けられ るのです。無関心でいられないのです。そもそも、関心がなければ懲らしめ ることもしないのです。懲らしめ給う神はまた、癒し給う神でもあります。 そして、神の癒しと回復は、罪の赦しにおいて、既に始まっているのであり ます。