「新しい契約」
2002年10月13日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ書31・31‐34
私たちはこの後、聖餐を行います。聖餐において、いつも読まれる聖書箇 所があります。コリントの信徒への手紙(1)11章23節以下の部分です。 「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。 すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげ てそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの 記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯 も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約 である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われま した。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来 られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリント11・23‐ 26)。ここに「新しい契約」という言葉が出てきます。私たちは聖餐に与 るたびに、私たち自身が神との「新しい契約」の関係にあることを確認して いるのです。今日は、こうして「新しい契約」を思いつつ共に聖餐にあずか ることの意味を改めて御一緒に考えたいと思います。
●新しい契約と古い契約
旧約聖書において「新しい契約」について語られているのは、本日お読み しましたエレミヤ書31章31節以下です。「新しい契約」について語られ るのは、当然のことながら、それに対して「古い契約」があるからです。新 しい契約を理解するためには、まず古い契約を理解しておかなくてはなりま せん。
古い契約については「かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの 地から導き出したときに結んだもの」(32節)と表現されています。これ は主が、エジプトから導き出された民と、シナイにおいて結ばれた契約のこ とです。この契約において中心的位置を占めるのは十戒です。神の恵みによ って救われた民は、シナイにおける契約により、十戒を持つ民とされました。 十戒の内容は、神を愛すること、そして隣人を愛することとしてまとめられ ます。神は地上に十戒を持つ民が存在することを望まれました。それは、こ の地上において、神を愛し、互いに隣人を愛する民が存在することを神が望 まれたということを意味します。そして、彼らが神の律法を持つ民とされた のは、彼らが地上の諸国民の祝福となるためでありました。
しかし、今日の聖書箇所において、「彼らはこの契約を破った」と語られ ております。確かに私たちが旧約聖書に見るのは、「この契約を破った」と いう短い言葉に要約される、イスラエルの民の歴史であります。契約という ものは、両者の真実において成り立ちます。片方が破ればそれで終わりです。 終わりのはずでした。しかし、神の目的は人間の不真実によって挫折するこ とはありません。エレミヤは、契約の終わりとしか見えない、国家の滅亡に おいて、次のような主の御言葉を聞いたのです。「見よ、わたしがイスラエ ルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る」と。人間の罪によって古い 契約が破られました。ならば、新しい契約は、罪の赦しに基づいて初めて成 り立ちます。ですから、34節の最後にも、次のように語られているのです。 「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪を心に留めることはない」。
これらの言葉を背景として、主イエスはあの夜、弟子たちに「この杯は、 わたしの血によって立てられる新しい契約である」と語られたのでした。主 が語られた新しい契約のための「わたしの血」によって指し示されていたの は、キリストの血による罪の贖いでありました。十字架において流される血 によって与えられる、罪の赦しでありました。主イエスは、自らが十字架に かけられるその日を、新しい契約の結ばれる日として見ておられたのです。
さて、この新しい契約を結んでくださった神は、かつてシナイにおいて古 い契約を結ばれた神に他なりません。ということは、新しい契約においても、 そこにおいて神が望んでおられることは同じである、ということを意味しま す。私たちは、キリストの十字架を、ただ私たちの個人的な罪の赦しのため であると考えてはなりません。それが究極の目的ではありません。神が望ん でおられるのは、この地上に、神を愛し、隣人を愛する民を持つことなので す。キリストがこの地上において血を流されたのは、まさにその目的のため なのです。
ですから、私たちは聖餐を個人的には行いません。キリストとの関係をた だ個人的に喜ぶことをいたしません。私たちは、新しい契約の民として、 《共に》聖餐にあずかります。新しい契約の民として、《共に》礼拝をささ げます。集まるということは、私たちの信仰生活にとって付加的なオプショ ンではありません。これは信仰において本質的なことなのです。
●イスラエルの家と異邦人キリスト者
それは、新しい契約を《イスラエルの家、ユダの家》と結ぶ日が来る、と 言われていることからも分かります。神は個人と新しい契約を結ばれるので はありません。新しい契約は、あくまでも神と民との契約なのです。私たち が神の民に属している限りにおいて、私たちは神と新しい契約の関係に結ば れるのです。神の民を離れたところには、新しい契約による神との関係もあ りません。
しかし、この事についてはなお一考を要します。ここには「イスラエルの 家、ユダの家と」と書かれています。エレミヤの預言において語られている 新しい契約は、あくまでも回復されたイスラエルと結ばれるものなのです。 私たちは元来イスラエルの民ではありません。聖書的に言うならば「異邦人 」です。私たちはもともとアブラハム、イサク、ヤコブと何の関わりもあり ません。モーセやエリヤ、ダビデ王朝、滅亡したイスラエルやユダとも何の 関わりもありません。ですから、ここに書かれていることは、本来、私たち にはまったく関係ないことです。エレミヤの言葉をそのまま私たちに当ては めることはできません。事実、主イエスが最後の晩餐においてあの言葉を語 られた時、そこに異邦人はいなかったのです。主の言葉を聞いた弟子たちは 皆ユダヤ人でありました。
ではなぜ、異邦人である私たちが、図々しくも、新しい契約の杯にあずか っているのでしょうか。これは決して自明のことではありません。それは神 の特別な恵みの計画によらずしては、あり得ないことなのです。
パウロは、この本来あり得ないはずの出来事を、オリーブの木の接ぎ木に 喩えております。ローマの信徒への手紙11章17節以下を御覧ください。 「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わ りに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折 り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を 支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは、 『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょ う。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あ なたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れ なさい」(ローマ11・17‐20)。
ここで野生のオリーブと言われているのは異邦人である私たちのことです。 私たちは接がれているだけです。一方においては、折り取られた枝がありま す。これはキリストを受け入れなかったユダヤ人です。彼らはイスラエルの 家の者でありながら、不信仰のゆえに新しい契約にあずかりません。そして 他方において、接がれている野生のオリーブの枝である私たちがいるのです。 本来イスラエルの家に属さぬ者でありながら、信仰のゆえに新しい契約にあ ずかっているのです。このイメージを私たちはしっかりと心に留めておかな くてはなりません。歴史を貫いて神が生かしてこられたオリーブの木に接が れているゆえに、私たちもキリスト者として生きられるのです。枝が幹から 離れても生きていけるなどと、ゆめゆめ考えてはなりません。
●完成へと向かう祝い
さて、新しい契約は、神と民との間に結ばれるのであって、神と個人との 間に結ばれるのではない、と申しました。しかし、私たちは、神にとっては 全体としての神の民との関係だけが大事なのであって、個々の人間との関わ りは二次的な意義しか持たないかのように考える必要はありません。いや、 それどころか、新しい契約においては、私たちの人格の最も深いところに、 神御自身が関わってくださるのです。
「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(33節) と主は言われます。古い契約において、神の律法は石の板に記された言葉と して与えられました。それはいわば民全体に外から与えられた言葉でありま した。新しい契約においては、神御自身が人間存在の最も深い部分に働きか けてくださるのです。そこに、神御自身の戒めを書き込んでくださるのです。 私たちは、神を外から命じられる方としてではなく、内側から変革し突き動 かし給う御方として経験するのです。私たちの内に住み給う聖霊なる神とし て経験するのであります。
主イエスは、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約であ る」と言われました。そして、その言葉のとおり、主は十字架にかかられ、 血を流して死なれました。しかし、私たちは聖金曜日から三日目にはイース ターが来ることを知っています。そして、七週間後にはペンテコステの祝い が続くことを知っています。キリストは十字架にかかられただけではなく、 復活され、天に上げられ、聖霊を注いでくださったのです。罪の赦しがすべ てなのではありません。その先には、聖霊による聖化の御業があるのです。
一方、私たちはまた、聖霊の御業がいまだ完成してはいないことを知って います。このエレミヤの預言はまだ完全には成就してはいないのです。「そ のとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えること はない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と 主は言われる」(34節)。このような事態を、いまだ私たちは目にしてお りません。
しかし、既にキリストは血を流されました。既に新しい契約は結ばれまし た。既に新しい契約に基づく神の御業は始まっております。私たちは、その ことを喜び祝うことが許されているのです。私たちはそれゆえ、今日も、聖 餐にあずかります。私たちは主の望んでおられることが必ず実現することを 信じて、新しい契約の民として聖餐を祝うのであります。