「ああ、主なる神よ」
2002年10月20日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ書32・1‐44
●畑を買い取るエレミヤ
今日はエレミヤ書32章をお読みしました。この章の預言は「ユダの王ゼ デキヤの第十年」(1節)のものとされております。バビロニア軍によって 包囲されたエルサレムが陥落するのが「ゼデキヤ王の第十一年」(列王記下 25・2)ですから、ユダ王国の滅亡の前年にあたります。もっとも、この 時、多くの人々はまだエジプトからの援軍に期待し、都が救われるとの希望 を抱き続けていたようです。そして、実際、エレミヤ書37章によりますと、 ファラオの軍隊がエジプトから進撃して来たため、バビロニア軍は一度包囲 を解くことになるのです。
その頃、エレミヤはユダの王の宮殿にある獄舎に拘留されておりました。 それはエレミヤが、人々の希望に反して、ユダの滅亡を預言したためであり ます。その内容は3節以下に記されております。「主はこう言われる。見よ、 わたしはこの都をバビロンの王の手に渡す。彼はこの町を占領する。…お前 たちはカルデア人と戦っても、決して勝つことはできない」(3‐5節)。 人々がなんとか希望をつなごうとしている時に、このようなことをはばかる ことなく語ったのですから、彼は当然、非国民扱いされたことでしょう。エ レミヤが獄舎に拘留されたのは無理もありません。ところがそのように国家 の滅亡を語ってきたエレミヤが、人々の前においてなんとも不可解な行動を 起こすのです。それが今日の聖書箇所が伝える出来事です。
ある日、エレミヤのいとこのハナムエルが獄舎に彼を訪ねてきました。彼 はエレミヤに願います。「ベニヤミン族の所領に属する、アナトトの畑を買 い取ってください。あなたに親族として相続し所有する権利があるのですか ら、どうか買い取ってください」(8節)。なぜ彼が畑を売ろうとしたのか は分かりません。貧しい人が畑を手放した時には、その人の親族が畑を買い 戻すべきことが律法に記されております(レビ25・25)。もしかしたら、 そのような事情だったのかも知れません。しかし、彼がエレミヤにこの話を 持ちかけてきたのは、あまりにも非常識に思えます。エレミヤは、これまで 一貫してユダが国家としては滅びることを預言してきた人です。彼はエルサ レムの人々に対して、バビロンの王に降伏すべきことを語ってきた人です。 ハナムエルはそのことを知らなかったとでも言うのでしょうか。もしエレミ ヤがハナムエルの言葉に従ってアナトトの土地を買い取るならば、それこそ 彼は自分の行動をもって自分の語ってきた言葉を否定することになります。 エレミヤは人々の目に偽り者としか映らないでしょう。
ところが驚いたことに、エレミヤはハナムエルの言葉を受け入れて、彼か ら畑を買い取り、銀十七シェケルを量って支払ったのです。しかも、それを ただハナムエルとの間においてだけでなく、公のこととして証人を立て、獄 舎にいるユダの人々全員の前で行ったのであります。ハナムエルが非常識な らば、エレミヤはもっと非常識です。いったいなぜ彼はこのような行動に出 たのでしょうか。聖書は、このエレミヤの行動の背後に、主の導きがあった ことを伝えます。エレミヤが主の言葉を受けたからだと言うのです。この事 に先立って、主がエレミヤにハナムエルの来訪を予告しておられたのした。 ですから8節においてエレミヤは「わたしは、これが主の言葉によることを 知っていた」と言っているのです。しかし、それであるならば、何も「獄舎 にいたユダの人々全員」の目の前で行う必要はないでしょう。いくら主の導 きであるとはいえ、明らかにこの行動はエレミヤにとって不利益をもたらす のですから。エレミヤが畑を買い取ったことが人々に知れ渡れば、面倒なこ とになるのは火を見るより明らかではありませんか。
それにもかかわらず、エレミヤはあえて多くの人々が見ている前でこれを 行ったのでした。なぜでしょうか。それは畑を買うという行為そのものが、 神の御心を示す象徴的な行為(行動預言)であることを悟ったからです。 「イスラエルの神、万軍の主が、『この国で家、畑、ぶどう園を再び買い取 る時が来る』と言われるからだ」(14節)。エレミヤは書記のバルクにそ う語りました。エレミヤにとって、滅び行く国の畑を買い取るという行為は、 神の裁きの向こうにある救いと回復とを指し示す行為に他ならなかったので す。
そして、エレミヤは自らの行動をもって回復の預言を語ると共に、書記に バルクに命じました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。これら の証書、すなわち、封印した購入証書と、その写しとを取り、素焼きの器に 納めて長く保存せよ」(14節)と。
この命令には、エレミヤの悲痛なる覚悟が込められております。購入証書 は長く保存されねばなりません。書記バルクは、そのことによって、この象 徴的な行為を後の時代に責任をもって伝えねばなりません。エレミヤがバル クにこのことを託したのは、彼自身が後の時代に伝えることはできないから でしょう。つまり、エレミヤは、ユダの国で人々が「家、畑、ぶどう園を再 び買い取る時」まで生きていることはできないのです。彼は自分の言葉の正 しさを、自ら証明することはできないのです。
彼は一方で国家の滅亡を宣言し、他方でその国の土地を買う偽り者として 死んでいかなくてはなりません。彼はそのことを良しとしたのでした。なぜ なら、彼にとって本当に重要なことは、彼自身が正しいと見なされることで も、彼の名誉が守られることでもなかったからです。彼にとって重要なのは 神の言葉なのです。彼が宣べ伝えた神の言葉の真実が、やがていつの日にか 明らかにされることだったのです。そして、御言葉を語り給うた神の真実が、 後の世代に対して証しされ、伝えられることだったのです。エレミヤはその すべてを、歴史の中において現される神の御手に委ねたのでした。
●エレミヤの祈り
しかし、私たちは、エレミヤが何の迷いもなく恐れもなく、ただ淡々と神 に従ったかのように考えてはなりません。このエレミヤの行動の背後に、い かに苦悩に満ちた神との対話があったかということを、私たちは16節以下 のエレミヤの祈りの中に垣間見るのです。
エレミヤは購入証書をバルクに渡したあと、「ああ、主なる神よ」と祈り 始めます。「ああ」というのは呻き声です。それは人間の思いを越えた神の 意志に圧倒される者の呻き声です。かつてエレミヤがまだ若かりし頃、神の 全く一方的な意思によって預言者とされた時に発したのも、これと同じ言葉 でありました。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。 わたしは若者にすぎませんから」(1・6)。彼はただ全く不可解なる神の 意志に圧倒されて、預言者とされました。それから数十年後、彼は神の御前 に同じ呻き声をあげています。それはなぜであるかを良く考えねばなりませ ん。
多くの人は、身に降りかかる災いにおいて、神の意図の不可解さを思いま す。「ああ、主なる神よ、どうしてですか」と呻き声をあげるのです。しか し、エレミヤにとって不可解であったのは、彼の身に降りかかった災いでは ありませんでした。彼が獄舎に拘留され酷い仕打ちを受けたことではありま せんでした。人々の間において神の裁きを語り、国家の崩壊を語るならば、 こうなることは分かっていたのです。また、神の言われた通り、エルサレム が包囲され危機に瀕していることでもありませんでした。イスラエルの歴史 を回顧するならば、神の裁きの預言が成就することは、必然以外の何もので もなかったのです。それはエレミヤがこの祈りの中において言い表している とおりです。
「あなたは、しるしと奇跡をもって強い力を振るい、腕を伸ばして大いな る恐れを与え、あなたの民イスラエルをエジプトの国から導き出されました。 そして、かつて先祖に誓われたとおり、この土地を彼らに賜りました。乳と 蜜の流れるこの土地です。ところが、彼らはここに来て、土地を所有すると、 あなたの声に聞き従わず、またあなたの律法に従って歩まず、あなたが命じ られたことを何一つ行わなかったので、あなたは彼らにこの災いをくだされ ました。今や、この都を攻め落とそうとして、城攻めの土塁が築かれていま す。間もなくこの都は剣、飢饉、疫病のゆえに、攻め囲んでいるカルデア人 の手に落ちようとしています。あなたの御言葉どおりになっていることは、 御覧のとおりです」(21‐24節)。
神の真実に対して人間が不真実をもって報いる。その結果が災いでしかな いことについては、エレミヤにとってまったく疑念を差し挟む余地はありま せんでした。都を攻め落とすための土塁が築かれていること、そして、剣、 飢饉、疫病のゆえに、都が攻め囲んでいるカルデア人の手に落ちようとして いることについて、エレミヤは「ああ、主なる神よ」とは言わないのです。 むしろ、エレミヤにとって不可解であったのは、そこで神が「銀で畑を買い、 証人を立てよ」と言われたことでありました。すなわち、今までユダの滅亡 を語らせていた神が、一転して回復の約束を語らせ始めたことなのです。エ レミヤにとって、神がイスラエルを赦し、回復を与えてくださるということ は、決して当たり前のことではなかったのです。
このエレミヤの祈りの言葉に対して、主の答えがエレミヤに臨みます。し かし、なぜ彼らの罪を赦し、彼らを救い、回復を与えられるのか、というこ とについて、主は何一つ答えてはおられません。エレミヤはその理由を聞く ことはできませんでした。エレミヤが聞くべき言葉は別にありました。そし て、それは私たちもまた心に留めるべき言葉です。それは、回復の言葉を語 り給う神が、かつて裁きの言葉を語られ、災いを下された神に他ならないと いうことであります。すなわち、裁きの神と恵みの神とは同じ唯一の神であ るということなのです。
エレミヤは祈りにおいて「あなたの御力の及ばない事は何一つありません 」(17節)と言いました。主は「見よ、わたしは生きとし生けるものの神、 主である。わたしの力の及ばないことが、ひとつでもあるだろうか」(27 節)と答えられます。主はその大いなる力をもって罪を裁かれる神であり、 その同じ力をもって救いを与え回復を与えられる神なのです。その御方は、 「かつてわたしが大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った国々から彼らを 集め、この場所に帰らせ、安らかに住まわせる。彼らはわたしの民となり、 わたしは彼らの神となる」(37、38節)と言われる神なのです。
まことに、主が真に罪を裁くことのできる御方であるからこそ、罪を赦す こともおできになる。主は断罪し滅ぼすことのおできになる御方であるから こそ、滅びから救うこともおできになるのです。神がエレミヤに命じられた、 滅亡を前にして畑を買うという矛盾に満ちた行為こそ、まさに裁きの神と救 いの神が一人の神であることを証しする行為であることを、エレミヤは苦悩 に満ちた神との対話の中で知らされたのであります。