「約束の果たされる日」
2002年10月27日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 エレミヤ書33・10‐26
今日はエレミヤ書33章10節からお読みしました。そこは廃墟と化した エルサレムです。バビロニアの侵攻により陥落せられ、かつてあった麗しい 神殿も破壊されて瓦礫の山となってしまったエルサレムです。人々は絶望に 打ちひしがれて、その廃墟にたたずんでいるのです。
しかし、主はそのような彼らに言われます。「そこは荒れ果てて、今は人 も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感 謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は 恵み深く、その慈しみはとこしえに』と歌う声が聞こえるようになる。それ はわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである」(1 0‐11節)。
廃墟は永遠に廃墟のままではありません。主の救いと回復の御業が現れる 時が来るのです。神の都は回復せられるのです。神殿はやがて再建されるの です。そこには喜び祝う声が響き渡るようになります。再び主に礼拝がささ げられます。賛美の歌が声高くささげられるようになるのです。
しかし、ここに語られていることは、単に国が元どおりになることではあ りません。それ以上のことが語られているのです。そのことを私たちは正し く聞き取らねばなりません。
●罪の赦しに基づく回復
ここで特に神殿の再建について語られていることは、エレミヤ書において 特別な意味を持っています。
エレミヤ書7章を御覧ください。そこには、ユダの王ヨヤキムの時代、ま だ神殿が存在していた頃の預言が記されています。主はエレミヤに、神殿の 門に立って次のように語るよう命じられたのでした。「主を礼拝するために、 神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。イスラエルの神、 万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたし はお前たちをこの所に住まわせる。主の神殿、主の神殿、主の神殿という、 むなしい言葉に依り頼んではならない」(7・2‐4)。
エレミヤがこの預言を語ったユダの王ヨヤキムの治世は、不安の影が人々 の上に色濃く覆っていた時代でありました。ヨヤキムの父、ユダの王ヨシヤ は宗教改革を押し進めた王でありましたが、志半ばにして戦死してしまいま した。国の民によって代わりに立てられたヨシヤの子ヨヤハズは、わずか三 ヶ月だけ王位にあった後、エジプトの力によって退位させられてしまいまし た。そして、エジプトの傀儡として立てられたのがヨヤハズの兄弟ヨヤキム だったのです。エジプトへの貢調は重税となって人々の生活を圧迫しました。 一方、北からはアッシリアに代わって新バビロニアが勢力を伸ばし、具体的 な脅威として迫りつつありました。その不安の時代にあって、神殿礼拝は盛 んになりました。多くの賛美が歌われ、多くの犠牲が献げられました。彼ら の間では、「主の神殿、主の神殿、主の神殿」という言葉が題目として繰り 返されました。まさに主の神殿は人々の心の支えだったのです。
しかし、そのような時代にあって、エレミヤは人々に「主の神殿、主の神 殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない」という主の言 葉を語ったのです。彼らに必要なことは、神殿や祭儀を心の支えにすること ではなく、迷信的に題目を繰り返すことでもなかったからです。彼らに必要 であったのは、自分の道と行いを正して、真実に主に立ち帰ることだったの です。
それゆえ、主はさらにエレミヤを通して「シロのわたしの聖所に行ってみ よ」(7・12)と語られます。シロというのはかつて聖所があった場所で す。その時には既に廃墟となっておりました。紀元前11世紀にペリシテ人 によって破壊されてしまったのです。そして、シロの聖所の跡があった北王 国そのもの、アッシリアによって滅ぼされてしまいました。主はそのシロに ついて「かつてわたしはそこにわたしの名を置いたが、わが民イスラエルの 悪のゆえに、わたしがそれをどのようにしたかを見るがよい」と言われまし た。そして、彼らが盛大に祭儀を行っているエルサレムの神殿について、こ う言われたのです。「今や、お前たちがこれらのことをしたから――と主は 言われる――そしてわたしが先に繰り返し語ったのに、その言葉に従わず、 呼びかけたのに答えなかったから、わたしの名によって呼ばれ、お前たちが 依り頼んでいるこの神殿に、そしてお前たちと先祖に与えたこの所に対して、 わたしはシロにしたようにする。わたしは、お前たちの兄弟である、エフラ イムの子孫をすべて投げ捨てたように、お前たちをわたしの前から投げ捨て る」(7・13‐15)。
そして、この主の言葉は、その通りに実現したのです。バビロニア軍によ って神殿は破壊され、神殿のあった都は廃墟となってしまいました。しかし、 主の言葉によるならば、都を廃墟としたのは、本当はバビロニア軍ではない のです。人々の罪が国家を崩壊させ、都を廃墟としたのです。
そうです、実に人間の罪は廃墟をもたらすのです。いや、もっと正確に言 うならば、罪を悔い改めようとしない頑なな心、神が呼びかけるのに答えよ うとしない頑なな心が廃墟をもたらすのです。その意味においては、廃墟に 立つ彼らと私たちに違いはありません。私たちもまたこの世界に、この国に、 あるいは家庭の中に、夫婦の間に、親子の間に見ているのも、人間の頑なな 心がもたらした廃墟であるのかもしれません。
しかし、「お前たちをわたしの前から投げ捨てる」という言葉が、神の最 後の言葉ではありませんでした。主は、投げ捨てられた民を、再び拾い集め られるのです。今日の聖書箇所において、主は、廃墟であったところに再び 神殿が建て上げられる、と言われるのです。「感謝の供え物を主の神殿に携 えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはと こしえに』と歌う声が聞こえるようになる」と言われるのです。
明らかに、ここに語られているのは、物事が元どおりになること以上のこ とです。ここに語られているのは罪の赦しです。彼らが再び神殿において神 を礼拝することができるとするならば、それはただ神の赦しと憐れみによる のです。この回復の預言の言葉の中には、既に神の赦しと憐れみが宣言され ているのです。
●主の真実に依り頼んで
回復の言葉が語られるところに神の赦しと憐れみがあるならば、既にそこ に救いは始まっています。確かにそうです。罪の赦しが語られるところには、 既に救いが始まっているのです。しかし、廃墟に立つ者が、回復の預言を信 じることは、決して容易いことではありません。それは実に困難なことであ ります。
それゆえに、14節において、「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダ の家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」と語られているので す。14節の前には、荒れ果てたエルサレムで、また滅びてしまったすべて の町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになることが 語られています。また14節の後には、ダビデ王朝の復興と祭司制度の回復 が語られています。廃墟に立つ者にとって、これらの言葉の実現を思い描く ことは極めて困難なことであったに違いありません。ですから、主の与えて くださる回復は、あくまでも「約束」として語られているのです。
「約束」において重要なのは、約束されている事柄が大きいか小さいかで はありません。現実的か非現実的かでもありません。そうではなくて、約束 してくださる方が真実であるかどうかが重要なのです。罪の赦しに伴う回復 の預言は、神の約束の言葉として、神の真実に依り頼んで、信じ受け入れら れねばなりません。神の真実に思いを向けない限り、廃墟に立つ者が回復の 預言を信じ受け入れ、忍耐強く待ち望むことはできないのです。
それゆえ主は、彼らの目を、目の前にある混沌から転じさせられます。そ して、この自然界の秩序へと目を向けさせるのです。主はエレミヤを通して 次のように語られたのでした。「主はこう言われる。わたしが昼と結んだ契 約、夜と結んだ契約を、お前たちが破棄して、昼と夜とがその時に従って巡 るのを妨げることができないように、わたしが、わが僕ダビデと結んだ契約 が破棄され、ダビデの王位を継ぐ嫡子がなくなり、また、わたしに仕えるレ ビ人である祭司との契約が破棄されることもない」(20‐21節)。
エルサレムが陥落し、神殿が破壊されてしまった時、すべてが崩壊してし まったと人々は感じたに違いありません。「王国の秩序も、祭儀的な伝統も、 神の民としての誇りも、何もかも崩壊してしまった。それは落として砕け散 ってしまった器物のように、もとには戻らない。すべては混沌に帰してしま ったのだ」と。そのような思いを、時として私たちもまた抱くことがあるか もしれません。ああ、もうだめだ。すべては崩れ去ってしまった。すべては 変わってしまったのだ、と。
しかし、その時に、主の言葉が響くのです。主は問われるのです。本当に すべては崩れ去ってしまったのか。すべては壊れてしまったのか。すべては 変わってしまったのか、と。その時、ふと目を上げてみると、私たちは一つ のことに気付かされるのです。今日も同じように日が暮れる。そして、時が 経てば再び朝になる。変わってはいないことがあることに気付かされるので す。「夕べがあり、朝があった」(創世記1・5他)と天地創造物語に繰り 返されているようにです。そうです、変わることのない自然世界の秩序が厳 然としてそこにあるのです。変わることのない自然の秩序の中に私たちは存 在しているのです。そして、変わることのないこの自然の世界の背後には、 変わることのない神がおられるのです。
人間の罪は確かに荒廃をもたらします。廃墟をもたらします。しかし、す べてを崩壊させることはできません。人間の罪がすべてを台無しにし、すべ てを変えてしまうと考えるのは傲慢です。人間はそれほど偉くありません。 「昼と夜とがその時に従って巡るのを妨げることができないように」(33 ・20)と書かれているとおりです。そのように、人の世がどんなに変わっ ても、人が決して変えることのできない約束、変わることのない神の約束が あるのです。それゆえ、回復を語り給う神の真実に依り頼んで生きるなら、 私たちは目の前に瓦礫の山を見ていたとしても、もはや望みのない者として 嘆きつつ生きる必要はないのです。喜びつつ待ち望みつつ生きてよいのです。