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「とこしえに立つ神の言葉」

2002年11月3日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書40・1‐11

●草は枯れ、花はしぼむ

 「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、 と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」 (6‐7節)。

 この「肉なる者は皆、草に等しい。…草は枯れ、花はしぼむ」という言葉 をもって、ある人は人生の短さやはかなさを考えるかも知れません。類似の 言葉は詩編90編にも現れます。そして、その詩編には、「人生の年月は七 十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災 いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります」(詩編9 0・10)とうたわれております。確かにその意味において、「肉なる物は 皆、草に等しい」ということを私たちは良く知っています。

 しかし、詩編90編にしてもそうなのですが、今日の聖書箇所をよく見ま すと、そのような「人生の短さやはかなさ」以上のことが語られていること に気付きます。「草は枯れ、花はしぼむ。《主の風が吹きつけたのだ》」と 言われているのです。この「主の風」とは神の裁きのことです。パレスチナ の自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っ ていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐 色の野山にもどってしまうとのこと。それと同じように、神の裁きの風が吹 きつける時、それまで力に満ちていた人間が、繁栄を誇っていた人間社会が、 その罪のゆえに、たちまち枯れ果ててしまうのです。ですから、ここに語ら れているのは、神の裁きのもとにある、罪に満ちた人間そして人間社会の現 実に他ならないと言えるでしょう。

 この「主の風が吹きつけたのだ」という言葉には、ユダ王国の滅亡という 具体的な歴史的な出来事が背景にあります。紀元前6世紀、カルデア人の軍 事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国が崩壊してしまいました。 豊かな国土は荒れ地と化してしまいました。壮麗さで知られたエルサレムの 神殿も、破壊され、焼き払われててしまいました。国の主だった人々は、異 国の地バビロンへ捕らえ移されてしまいました。確かに、捕囚期が長引くに つれ、捕囚の地において人々の生活はそれなりに築かれていきました。エル サレムに残った人々にも、それなりに平和な生活は確保されていたことでし ょう。しかし、彼らは皆知っていたのです。彼らに真の希望がないこと、そ して真の命がないことを。確かに、草は枯れ、花はしぼんでしまったのです。

 そのような時代に、主によって立てられた一人の預言者がおりました。名 前は記されておりません。しばしば便宜的に「第二イザヤ」と呼ばれます。 先ほどお読みしました6節と7節は、その第二イザヤの召命記事であると言 われます。天からの声が彼に命じます。「呼びかけよ」と。その時代の人々 に語りかけるように命じるのです。しかし、彼は重い腰を上げようとはしま せん。なぜでしょうか。語る言葉がないからです。「何とよびかけたらよい のか」と彼は当惑しながら問い返します。人々の現実がその罪の結果である ことを預言者は知っていました。立ち帰るようにとの神の呼びかけを頑なに 拒んできた人々の上に、確かに主の風が吹いたのです。人々は苦悩の内にあ ります。彼もまた時代の苦悩を共有しています。そのような彼が人々にいっ たい何を語ればよいのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつ けたのだ」。そう言って彼はうつむくしかありませんでした。

 しかし、そのような彼の耳に、さらに呼びかける声が聞こえてきたのです。 それは天上において呼び交わす天使たちの声と言って良いかも知れません。 彼は次のような言葉を耳にしたのでした。「草は枯れ、花はしぼむが、わた したちの神の言葉はとこしえに立つ」(8節)。

 彼が語るべき言葉は神の言葉なのです。国は失われました。神殿も失われ ました。もはや目に見える希望の拠り所はありません。「草は枯れ、花はし ぼむ」。確かにそうです。彼の言い分は間違ってはいません。しかし、すべ てが無くなってしまったわけではありませんでした。神の言葉があるのです。 語り給う神がおられるのです。世のすべてが変わっても変わることのない真 実なる神がおられ、その真実から発せられる御言葉があるのです。今こそ彼 は、神の言葉を語らねばなりません。今こそ人々は、とこしえに立つ神の御 言葉を聞かねばならないのです。こうして彼は預言者として立たしめられた のでした。

●見よ、あなたたちの神

 そして、今日の聖書箇所において、枯れ草のような人々が聞くべき主の言 葉が、既に備えられていたことを私たちは知るのであります。40章の冒頭 に戻ります。神が人々に語ろうとしておられたのは、次のような言葉であり ました。

 「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレ ムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償 われた、と。罪のすべてに倍する報いを、主の御手から受けた、と」(1‐ 2節)。

 「わたしの民を慰めよ」と主なる神は命じられます。「慰めよ」とは、 「励ませ」という意味の言葉です。あるいは「力づけよ」と訳してもよいか もしれません。力づけるのは、彼らが立ち上がるためです。希望のない者た ちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って起き上がるためです。そこ に語られているのは、神による回復の御業です。神は回復を与えようとして おられるのです。

 しかもここで「わたしの民」と語られ、「あなたたちの神」と語られてい ることは特別な意味を持っています。彼らは神に背いた者たちでした。神の 言葉に対して頑なに耳を閉ざしてきた者たちでした。「わたしの民」と語ら れる資格のないような者たちでありました。しかし、主は彼らを「わたしの 民」と呼ばれるのです。そして自らを「あなたたちの神」と呼ばれるのです。 そこに言い表されているのは、ひとえに神の憐れみによる罪の赦しです。あ なたたちは赦されたのだ、と主は言われるのです。「エルサレムの心に語り かけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と」。

 それゆえに、裁かれて廃墟とされたエルサレムであっても、再び主を迎え ることができるのです。罪を赦された民は、再び主を迎えることができるの です。神が来られるのです。それゆえ、天において呼びかける声が響き渡り ます。「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地 に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道 は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる 者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐5節)と。古代世界におい て、勝利を得た王が凱旋する時には、広い道が通され整えられたものでした。 そのように、主なる神がまことの王として凱旋される道を備えよ、と語られ ているのです。

 神が来られる。それはもはや裁くためではありません。力を帯びて来られ るのは、まことの王として治めるためです。「見よ、あなたたちの神、見よ、 主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」(10節)。 さて、人はそこでなおも枯れ草であり続けるのでしょうか。いいえ、違いま す。そこにおいて神の民はまったく異なる仕方で描写されています。「主は 羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その 母を導いて行かれる」(11節)と書かれているのです。もはや望みなき者 として生きる必要はありません。見捨てられた者であるかのように生きる必 要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているの です。主に導かれる母羊、主のふところに抱かれる小羊として生きることが 許されているのです。

●力を帯びて来られた神

 さて、私たちは、マルコによる福音書の冒頭において、今日お読みしまし たイザヤ書の御言葉に再び出会うことになります。次のように書かれていま す。

 「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いて ある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備さ せよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐ にせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得さ せるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1・1‐4)。

 このように、聖書は、あのイザヤ書の預言の成就を、洗礼者ヨハネの登場 に見ていることが分かります。洗礼者ヨハネは主の道を整えよと荒れ野に叫 ぶ声でした。そして、そのようにして整えられた道を通って来られた方こそ、 イエス・キリストでありました。しかし、私たちを治め給う神は、《力を帯 びて来られる》はずではなかったでしょうか。人がその目で見たのは、およ そこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。彼は、その弱さ のゆえに、この世の権力によって、十字架にかけられ殺されてしまったので はなかったでしょうか。どうして、そのようなキリストの内に、《力を帯び て来られた神》を見ることができるでしょうか。

 しかし、それにもかかわらず、聖書はこのキリストの到来と共に、神の国 ・神の支配が始まったことを告げるのです。なぜでしょうか。神の支配は、 この世の権力や武力の支配と同じではないからです。権力や武力は人の心ま で支配することはできません。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾 を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配す るのは、真の力によるのです。それは愛の力です。神の愛の力です。ナザレ のイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。 そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架において、真に現さ れたのであります。

 神は来られました。確かに力を帯びて来られました。そして、その御力を もって、今も私たちを治めておられます。その愛の力をもって治めておられ ます。その御支配のもとにあるならば、もはや私たちは望みなき枯れ草では ありません。私たちは、主に養われる羊の群れとして生きることが許されて いるのです。

 
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