「傷ついた葦を折ることなく」                         イザヤ書42・1‐4  「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者 を」(1節)。今日、主は一人の人物に注目するよう、私たちに指し示して おられます。名前は記されておりません。ただ「わたしの僕」とだけ記され ております。僕は仕える者です。彼は仕えるために選ばれた人です。彼は具 体的に何を行って主に仕えるのでしょうか。1節には「彼は国々の裁きを導 き出す」と書かれております。これが彼の使命です。3節には「裁きを導き 出して、確かなものとする」と書かれております。それはいつまで続けられ るかと言いますと、「この地に裁きを置くときまで」であります。今日、私 たちは、そのように仕える主の僕に注目したいと思います。 ●神の計画を世界に示す主の僕  ところで「国々の裁きを導き出す」とは、どのようなことを意味している のでしょうか。「裁き」という日本語は、教会の中で聞かれる時、あまり肯 定的な響きを持ってはおりません。「あの人は他人を裁いてばかりいる人だ 」と言った場合、それは決して誉め言葉ではありません。「神の裁き」と聞 くと、多くの人は恐ろしさしか感じないことでしょう。しかし、ここで「裁 き」と訳されている言葉は、もともと否定的なニュアンスを持った言葉では ありません。聖書協会訳では「彼はもろもろの国びとに道をしめす」と訳さ れておりました。「道」ならば否定的な響きはないでしょう。イザヤ書にお いて、この言葉は、神の定め給うた御計画を意味しているものと思われます。 ですから、そこには「裁き」も含まれます。神の正義が貫かれることが含ま れます。神の《道》が確立せられることも含まれます。そのような神の御意 志と御計画です。ですので、ある人はこれを単純に「定め」と訳し、またあ る人はこれを「計画」と訳しました。この僕は、神の計画、神の定めを現す ことにおいて主に仕えるのです。  ところで、この僕の働きの領域は、いかなる広さを持っているのでしょう か。1節には「国々」と書かれています。協会訳では「もろもろの国びとに 」ということでした。彼の働きの対象は、イスラエルの民だけではありませ ん。諸国民です。すなわち全世界です。それゆえに、4節には「島々は彼の 教えを待ち望む」と書かれているのです。地中海の島々は、当時の認識では 「世界の果て」を意味しておりました。彼の働きは世界の果てにまで及ぶの です。  僕の働きが世界の果てにまで及ぶのは、神の御計画が世界全体を領域とし ているからです。神の計画は、ただ神の民だけに関わっているのではありま せん。イスラエルだけではありません。教会だけではありません。神の計画 は全世界に及ぶのです。4節に「この地に裁きを置くときまで」と書かれて います。しかし、原文には「この」という言葉はありません。ただ「地に」 とだけ書かれているのです。それは「地上に」ということです。それが意味 するのは《全地》です。神は全地に御支配を打ち立て給うのです。神の御心 は天になるごとく、地にもなるのです。それゆえに、彼は全地に神の計画を 現し、そのことによって神の定め給うた計画の実現のために仕えるのです。 ●傷ついた葦を折ることなく  なんと壮大な御計画のもとに、この僕は選ばれたことでしょう。なんと大 きな働きのために、この僕は召されたことでしょうか。しかし、この僕の働 きの描写に関して、私たちは実に意外な言葉に出会います。次のように書か れているのです。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷つい た葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出し て、確かなものとする」(2‐3節)。  この預言の言葉の背後にあるのは、世界が大きく変わっていった激動の時 代です。その時代の主役となったのはペルシャの王キュロスという人物でし た。彼が率いるペルシャは東方から勢力を伸ばし、メディアを征服し、リデ ィアを征服し、ついにバビロンに無血入城を果たしてバビロニア帝国をも征 服してしまったのです。こうして、彼はオリエントの勢力図を完全に塗り替 えてしまいました。  確かに、私たちにとって身近なのは「力がものを言う」という世界です。 力を持つ者が世界を動かすのです。そこでは大きな力によって目を見張るよ うな大きな事が起こります。しかし、主はこのキュロスについて、預言者を 通して、次のように語られたのです。「東からふさわしい人を奮い立たせ、 足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。この人の剣 は彼らを塵のように、弓は彼らをわらのように散らす。彼は敵を追い、安全 に道を進み、彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたの は誰か。それは、主なるわたし。初めから代々の人を呼び出すもの、初めで あり、後の代と共にいるもの」(41・2‐4)。また、45章に至っては 「主が油を注がれた人キュロスについて主はこう言われる。わたしは彼の右 の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前 に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」(45・1)とまで言われて いるのです。神は人間の手によって為される大きなこと、世界を動かすよう な大きなことの背後にもおられます。神は、国家的な力をもってなされる大 きな変化をさえ、御自身の計画のために用い給います。確かに、キュロスは 用いられたのです。神の計画の中において用いられたのです。  しかし、私たちは注意しなくてはなりません。私たちはしばしば大きな力 をもって為される大きな事のみに目を奪われてしまいます。誰の目にも明ら かなほどに大きな結果が現れたり、大きな変化が見られることのみが、神の 計画の実現にとっては重要であると考えてしまいます。キュロスのすること のみが意味を持っていると考えてしまうのです。  そのような私たちに対し、主は預言者を通して、もう一人の人物に目を向 けさせます。名も無き主の僕です。そして、彼がしていることについての描 写は極めて地味なものです。キュロスの描写とは、なんと際だった対照をな していることでしょうか。  彼は「傷ついた葦」を折りません。傷ついた葦とは何でしょうか。同じ言 葉が別の箇所では「折れかけの葦の杖」(列王下18・21)と訳されてい ます。ある人は、杖ではなくて燭台の支柱のことだと考えます。杖であろう が支柱であろうが、折れかけていたら役に立ちません。そんなものは危ない ので、折って捨てるものです。ところが、主の僕はその役立たずに目を向け ます。彼はそれを折らないのです。捨てないのです。  また、彼は「暗くなってゆく灯心」を消しません。暗くなってゆく灯心と は何でしょう。それは火がくすぶって煙を出しています。役に立たないだけ ならまだ良いでしょう。暗くなってゆく灯心は存在するだけで迷惑です。そ んなものは消してしまうものです。ところが、主の僕はその迷惑な存在に目 を向けます。彼はその火を消しません。再び明るく輝くのを待つのです。  傷ついた葦や暗くなってゆく灯心に関わり合うのは面倒なことです。そん な事をちまちまとやっていたのでは事は進みません。誰もがそう考えます。 それよりも大きな力強い事が、目を見張るようなセンセーショナルなことが 必要とされているのではないか。そんな声も聞こえてきます。人々はキュロ スに目を向けます。そこに起こっている出来事に目を向けます。しかし、主 は「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者 を」(1節)と言われるのです。この僕こそ、全世界に対する神の計画を現 し、その実現をもたらすために仕えているのだ、と言うのです。神はこの僕 を通して御自身の支配を打ち立て給うのです。この全地に、世界の果てまで も! ●僕であるキリスト  さて、マタイによる福音書において、私たちはこのイザヤ書42章の言葉 に再び出会います。「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の 群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさな いようにと戒められた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが 実現するためであった」(マタイ12・15‐17)。そして、その後に、 若干言葉は違いますが、イザヤ書42章1節から4節までの言葉が引用され ているのです。このように、マタイによる福音書は、このイエスという御方 こそ、イザヤ書に記されていた主の僕に他ならないのだ、と告げているので す。  私たちは、「大勢の群衆が従った」という言葉を読みます時に、主イエス が当時の世界において誰もが注目するような一大ムーブメントを巻き起こし たかのように考えてしまいます。しかし、主イエスにその意図はありません でした。主はしばしば、病気を治してもらった人々にも、弟子たちにも、御 自分のことを言いふらさないようにと戒められたのです。  そして、事実、このナザレのイエスという人物に、必ずしも多くの人々が 関心を持っていたわけではなかったようです。福音書などの教会の文書を除 くと、イエスに関する記録はほとんどありません。つまり、この人々をいや された方、神の国を宣べ伝えて歩かれた方、そして十字架につけられて殺さ れた方に関して、この世はさほど注目してはいなかったということなのです。 この世の観点からするならば、主イエスに起こった出来事は、ローマ帝国に 起こった諸々の出来事の中に埋もれてしまうような、小さなことに過ぎませ んでした。主はまさに、傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を 消すことなく、箸にも棒にもかからないような弟子たちと共に忍耐強く歩ま れ、誰からも顧みられないような人々にちまちまと関わりながら生き、そし て死なれたのです。キリストの十字架は、まさにこの世の片隅に立てられた のです。  そして、神はこのキリストを指し示して、「見よ、わたしの僕、わたしが 支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を」と言われるのです。その方は、 今も傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、私た ちに、そしてこの世界に関わっておられます。暗くなることもなく、傷つき 果てることもなく、忍耐強く関わっておられるのです。このイザヤ書の言葉 をキリストの描写として読むときに、私たちの生き方もまた自ずと定まって まいります。私たちが召され、従っているのは、このキリストに他ならない からです。私たちが教会とされているということは、このキリストの体とさ れているということなのです。