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「わたしは忘れない」

2002年11月17日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書49・14‐21

 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れ まないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れ ることは決してない」(イザヤ49・15)。これが今日、私たちに与えら れている御言葉です。しかし、これを私たちへの語りかけとして聞くために は、この言葉がそもそもどのような人々に語られたのかを考えねばなりませ ん。その直前には次のように書かれています。「シオンは言う。主はわたし を見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れられた、と」(14節)。先ほ どの言葉が語りかけられたのは、もともと、シオン、すなわちエルサレムに 対してであったことが分かります。しかも、「わたしの主はわたしを忘れら れた」と嘆いているエルサレムに対してであります。

●わたしの主はわたしを忘れられた

 この言葉の背景にありますのは、バビロン捕囚という出来事です。紀元前 587年、エルサレムはネブカドネツァルの率いるバビロニア軍によって二 年間包囲された後、ついに陥落したのでした(列王記下25章)。エルサレ ムの神殿は焼き払われ、城壁は徹底的に破壊され、主だった人々はバビロン に連行されたのです。こうして、ユダの王国が亡びて四十年あまりの月日が 過ぎました。捕囚の第一世代は異国の地で死んでいきました。世代が変わり、 時が移れども、エルサレムはいまだ荒れ果てたままです。何も変わってはい ません。そこに嘆きの声が聞こえてきます。「主はわたしを見捨てられた、 わたしの主はわたしを忘れられた」と。

 今日、与えられている聖書の言葉は、そのような嘆きの言葉に対する答え に他ならないのです。この事実を見過ごすことはできません。というのも、 当時の人々がすべてこのような嘆きの声を上げていたわけではないからです。 主は「わたしがあなたを忘れることは決してない」と語られます。しかし、 その言葉を聞くことができなかった人々が、確かにそこにはいたのです。

 まず第一に、そこには既に主への信仰を捨ててしまった人々がおりました。 国家間の戦争については、古代オリエントにおいて共通した一般的な考え方 がありました。それは神々の戦いという考え方です。自分の国が戦争に負け た時、それは自分の国の神々が負けたのだ、と考えるのです。ですから、国 が負けた時、多くの人々は自分の国の神々を捨てて、戦勝国の神々に帰依す るのです。ユダの国から捕らえ移された惨めな捕囚の民がバビロンにおいて 目にしたのは、壮麗なるマルドゥクの神殿であり、華やかに繰り広げられる 祭儀であり、自信に溢れたカルデア人たちの姿でありました。捕囚の民の中 に、主を捨ててバビロンの神々に心惹かれる者たちがあったとしても、決し て不思議ではありません。エゼキエル書の中に、「我々は諸国民のように、 また、世界各地の種族のように、木や石の偶像に仕えよう」(エゼキエル2 0・32)と語るユダの人々の言葉が引用されています。このように語る人 々は決して珍しくはなかったに違いありません。彼らにとって、イスラエル の主は無力な神であり、そのような神のもとにあったことはまことに不運な ことでありました。敗戦という出来事は、単純に災い以外の何ものでもなく、 彼らは自らを不幸な人々と見なしていたに違いありません。

 第二に、そこには当然の事ながら、敵国であるバビロニアの人々に対する 憎しみと敵意を燃やし続けていた人々がおりました。例えば、詩編137編 などには、その怨念の深さが反映されていると考えてよいでしょう。「娘バ ビロンよ、破壊者よ、いかに幸いなことか、お前がわたしたちにした仕打ち を、お前に仕返す者、お前の幼子を捕らえて岩にたたきつける者は」(詩編 137・8‐9)。聖書を単に人間のあるべき姿を教えている書であると思 っていると、このような描写につまずくことになります。しかし、聖書はそ れ以前に、人間そのものを、この世界そのものを私たちに示すのです。実際 に、目の前で肉親が殺されたり、愛する者が引き裂かれたりしたならば、そ のような残忍な行為を行った者たちに対して、恨みを抱かないはずはありま せん。確かに憎しみの情が湧き起こったことでしょう。そして、そこから最 終的に一歩も外へ出ることなく、憎しみの中に留まり続けた人々もいたに違 いないのです。

 しかし、そこにはまた、自らの不幸を思い続けるのではなく、また敵意と 怨念の中に留まり続けるのでもなかった人々がおりました。彼らはこう言っ て嘆いたのです。「主はわたしを見捨てられた、わたしの主はわたしを忘れ られた」と。彼らはそこで主と自分自身との関係を考えたのです。

 私たちはこれと同じ嘆きの言葉を、哀歌の中に見ることができます。「主 よ、あなたはとこしえにいまし、代々に続く御座にいます方。なぜ、いつま でもわたしたちを忘れ、果てしなく見捨てておかれるのですか。主よ、御も とに立ち帰らせてください、わたしたちは立ち帰ります。わたしたちの日々 を新しくして、昔のようにしてください。あなたは激しく憤り、わたしたち をまったく見捨てられました」(哀歌5・19‐22)。ここで「立ち帰ら せてください」と祈っているのは、今まで神から離れていたからです。この 人は、自分が神に背いていたことを知っているのです。ですから、16節に は「いかに災いなことか。わたしたちは罪を犯したのだ」と語られているの です。

 このように、「主はわたしを見捨てられた」という言葉は、決して神への 恨みつらみではありません。彼は見捨てられても仕方のないような自分であ ることを知っているからです。忘れられても仕方のないような自分であるこ とを知っているのです。「主はわたしを見捨てられた」という言葉は、いわ ば自分の罪に対する嘆きです。自らの罪を悲しむ悲しみなのです。

 そして、そのように自らの罪を嘆く者は、そこで神の語りかけを聞くので す。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐 れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘 れることは決してない」と。これは、ただ自分の身に降りかかってきた災い を嘆く者、自らの不幸を嘆く者には聞こえない言葉なのです。これは、不幸 の原因を他者に求め、他者を恨み続けている者には聞こえない言葉なのです。

●わたしはあなたを手のひらに刻みつける

 そして、主はさらに語られます。「見よ、わたしはあなたを、わたしの手 のひらに刻みつける」(16節)と。

 「刻みつける」という言葉は、レンガなどに絵や字を彫り込む時に使われ る言葉です。そのようなことを手に対して行ったら、痛みを伴うことになる でしょう。実際、ここで語られているのは、ある種の入れ墨のようなものだ ろうと多くの人は考えます。入れ墨を彫るのは痛みを伴います。そして、痛 みを伴って彫り込まれたものは消えることがないのです。見捨てられても仕 方のないシオンを、そして見捨てられても仕方のない罪人である私たちを、 神が決して忘れない、とはそのようなことなのです。そこでは神自らが痛み を負いつつ罪を担われるのです。そのことによって、私たちを御手に刻みつ けるのです。

 このことを考えます時に、私たちに具体的にこの地上において歴史の中に おいて現された一人の御方の御手を思い起こさせられます。主イエスは十字 架の上でこう叫ばれました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てにな ったのですか」(マタイ27・46)。罪のない主イエスが、ただ一人見捨 てられる必要のない御方が、見捨てられた者として嘆きの声を上げられまし た。そのようにして、本来、見捨てられても仕方のない私たちと一つになら れたのです。神はこの主イエスにおいて私たちと一つとなることによって、 御手に私たちを刻みつけられたのでした。太い釘によって御手を貫かれるこ とによって、私たちを刻みつけられたのであります。その御手の傷は復活さ れた後にも残っていました。復活の主はその傷をトマスに見せられたではあ りませんか。それは御国においてもなお、主の御手には贖いのしるしがある ことを意味します。その御手に、穴のあいたその御手に、私たちもまた赦さ れた者として彫り刻まれているのです。

 このように、主の御手に刻まれているという事実にこそ、私たちの救いの 希望もあるのです。最終的な回復の希望もまたあるのです。イザヤ書の預言 に戻ります。そこには、「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻 みつける」という言葉に続いて、さらに次のように語られています。「あな たの城壁は常にわたしの前にある」と。

 城壁は既に破壊されてしまったはずです。しかし、主は城壁を見ておられ ます。建て直された城壁を見ておられるのです。主は惨めな現在の姿ではな く、回復された未来の姿を見ておられるのです。ならば、私たちもまた、目 を上げて、神の言葉の実現した世界を、信仰をもって見渡さなくてはなりま せん。主は言われます。「目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集めら れ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは 彼らのすべてを飾りのように身にまとい、花嫁の帯のように結ぶであろう。 破壊され、廃墟となり、荒れ果てたあなたの地は、彼らを住まわせるには狭 くなる」(18‐19節)。いったいこの希望の根拠はどこにあるのでしょ うか。それは、主が「わたしは生きている」と言われることにあるのです。 そのような主が罪を赦し、その御手に彫り刻み、わたしは決して忘れないと 言われ、既に回復した姿を見ていてくださることに、希望の根拠はあるので す。

 そして、さらに主は言われます。「あなたは心に言うであろう、誰がこの 子らを産んでわたしに与えてくれたのか…誰がこれらの子を育ててくれたの か…この子らはどこにいたのか、と」(21節)。誰が?もちろん主御自身 がです。どこに?主のもとにです。そうです、シオンがまだ廃墟であった時、 まだ何の希望もなかった時、「主はわたしを見捨てられた」と嘆いていた時、 既に主によって備えられていたのです。荒れ果てた現実の中において、既に 回復への備えがなされていたのです。

 さて、このように、預言者は赦しと回復を告げる主の言葉を語りました。 人が主に赦された者として、主の手に彫り刻まれている者として、嘆きの中 から立ち上がるためでした。私たちの生活は、いまだに廃墟の中にあるよう な状態でしょうか。私たちの教会は荒れ果てたままでしょうか。この国のキ リスト教会は、いまだに城壁が再建されないような状態でしょうか。帰って 来る子らの姿は、いったいどこにあると言うのでしょうか。しかし、私たち がただ自らの不幸を嘆いたり、他者の責任に帰して恨んだり憎んだりしてい るのでないならば、むしろこれを自らの罪として嘆く者であるならば、主の 赦しと回復の言葉は、既に私たちに語られているのです。ならばもう一度私 たちは希望をもって立ち上がることができるのです。主は私たちをもその手 のひらに刻みつけて言われたからです。「女が自分の乳飲み子を忘れるであ ろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが 忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」と。

 
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