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「歓声をあげ、共に喜び歌え」

2002年11月24日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書52・7‐10

 「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(9節)。爆発的な 歓喜。大地を揺るがすような喜びの大合唱。しかし、そのような極めて大き な喜びへと招かれているのは、美しく建て直されたエルサレムではありませ ん。廃墟とされたエルサレムが、いまだ廃墟のままであるにもかかわらず、 いまだボロボロの惨めな姿であるにもかかわらず、「歓声をあげ、共に喜び 歌え」と呼びかけられているのです。それはいったいなぜなのでしょうか。 この呼びかけには次のような言葉が続きます。「主はその民を慰め、エルサ レムを贖われた」。この行の先頭には、訳出されてはいませんが、「なぜな ら」と訳し得る小さな言葉が置かれています。つまり、これが「喜び歌え」 と語られている理由であり根拠なのです。主の「慰め」と「贖い」の二つで す。今日はこれらのことについて、御一緒に考えてみましょう。

●主はその民を慰められた

 ところで、この「慰め」という日本語は、何かとても弱々しい響きを持っ ているように思います。実のところ、この「慰め」という言葉は、私の嫌い な言葉の一つでした。かつて私が神学校に在学していた時、教授の口から、 「説教者は慰めの言葉を語るのです」という言葉をしばしば聞いたものです。 そのたびに何か虫ずが走るような思いを禁じ得ませんでした。それはどうし てだったのだろうと考えてみました。恐らく、私の頭の中では「慰め」イコ ール「気休め」でしかなかったのだと思います。それは自分自身の経験から 来ていたのかも知れません。実際、本当に悲しんでいる人に対して、言葉が 見つからないことがあります。慰めを語っていても、実質的な力を持たない 気休めの言葉でしかないことは、語っている本人が一番良く知っています。 また、逆に自分が悲しんでいるとき、慰めの言葉がかえって苛立たしく思わ れることもあります。そのように、確かに「慰め」イコール「気休め」でし かない時があるように思います。

 しかし、ここで語られているのは、明らかにそのような類の慰めではなか ろうと思います。なぜなら、「慰め」が「気休め」に過ぎないならば、それ は「歓声」や「喜びの歌」をもたらすものとはならないからです。ここには もっと力強い、決定的な変革をもたらす何かが語られているに違いないので す。

 そこで必要なのは、まず語られている「慰め」ではなく、語りかけられて いる「廃墟」を理解することであろうと思います。この廃墟となったエルサ レムについて、その前に何が語られているのでしょうか。51章17節まで 遡ると、そこには次のように書かれています。「目覚めよ、目覚めよ、立ち 上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干 した都よ」。エルサレムを実際に破壊したのは、バビロニアの軍隊でした。 しかし、預言者は、破壊され廃墟となったエルサレムを、まったく別な視点 から見ています。彼はそこに主の裁きを見ているのです。神の怒りの現れを 見ているのです。それがエルサレムの廃墟の意味するところなのです。

 しかし、そのエルサレムに対して、一転して慰めが語られるのです。怒り を現された主御自身が、「慰めるもの」としてエルサレムに臨まれるのです。 「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」(51・12)と言わ れるのです。その意味するところは明白です。それは罪の赦し以外の何もの でもありません。エルサレムは確かに神の怒りのもとにありました。しかし、 もはやその怒りは取り除かれたのです。「あなたの主なる神、御自分の民の 訴えを取り上げられる主はこう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手 から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない」 (51・22)と主は言われるのです。

 神の怒りが取り除かれるということは、決定的な転換を意味します。そこ で運命が変わるのです。それゆえに、「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、 エルサレム」と語りかけられているのです。52章には「奮い立て、奮い立 て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」 (52・1)とまで語られているのです。エルサレムは廃墟の中から立ち上 がることができる。罪が赦されたからです。もはや主の怒りのもとにはない からです。これが主の慰めです。ここにこそ、気休めではない、真の慰めが あります。本当の力を持った慰めがあるのです。主はその民を慰められまし た。それゆえ、エルサレムの廃墟は歓声をあげ、喜び歌うことができるので す。

●主はエルサレムを贖われた

 さらに、「(主は)エルサレムを贖われた」と書かれております。「贖う 」という言葉も、この書に繰り返されている鍵語の一つです。同じ言葉が3 節では「買い戻す」と訳されています。この「贖う」あるいは「買い戻す」 という言葉は、もともとイスラエルの古い家族法の用語でありました。例え ば、レビ記25章に出てきます。誰かが貧しくなって土地を売った場合、親 戚がそれを買い戻す義務を負います。あるいは貧しい人が身売りして誰かの 奴隷になった場合、その人の兄弟や一族の血縁の者がその人を買い戻すこと ができるのです。そのように土地や人などを買い戻すことを「贖い」と言い ます。そして、買い戻す義務を負う近親者を「贖う者(ゴーエール)」と呼 んだのです。

 「エルサレムを贖われた」という言葉は、このような背景を持っています。 「贖われた」と語られているということは、それまで奴隷状態にあったこと を意味します。事実、2節では、「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘 シオン」と呼ばれています。これはもちろん、カルデア人によって征服され たことを指しているのでしょう。しかし、そのエルサレム・シオンが主によ って買い戻されるのです。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらず 買い戻される」(52・3)と主は言われるのです。

 実際、その時代に、政治的には大きな変化がありました。バビロニアの支 配から、ペルシャの支配へと変わりました。新しい支配者であるペルシャの 王キュロスは、被占領民族の文化と宗教を尊重する政策を採りました。です から、捕囚のイスラエルの民についても勅令が発布され、彼らはエルサレム への帰還と神殿の再建が許可されたのです。その意味において、捕囚の民は 確かに解放されました。これは驚くべき大いなる出来事であったに違いあり ません。

 しかし、本当に大いなることは、政治的な変化そのものではありません。 主と民との関係の変化です。主がその民を贖われた、エルサレムを贖われた という事実です。捕囚の民は、買い戻された民としてシオンに帰るのです。 先にも言いましたように、エルサレムの廃墟に現れていたのは、神の怒りで あり裁きでありました。売られて奴隷となったのは、その罪の負い目のゆえ でした。そのような民を、もはや買い戻す価値のないようなエルサレムを、 主は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとされ たのです。

 それゆえに、彼らを治めるのは、もはやバビロニアの王ではなく、ペルシ ャの王でもありません。主が彼らの王として即位されるのです。バビロニア をもペルシャをも支配し給う主が、全地の主である御方が、彼らの王として、 御自分のものとされた都に帰ってこられるのです。もちろん、そのことが起 こるのは、あくまでも未来のこととして語られています。現実にエルサレム を支配しているのはペルシャです。エルサレムはいまだに廃墟のままです。 何も変わってはいないように見えます。しかし、事は既に起こったのです。 神との関係において、既に決定的な転換が起こっているのです。主はエルサ レムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟は、もはや嘆きの中に 座り込んでいる必要はないのです。歓声をあげ、共に喜び歌うことができる のです。

●歓声をあげ、共に喜び歌え

 さて、今日の聖書箇所は、カトリック教会の聖書日課にしても、プロテス タントの多くの教会が用いている「改訂共通聖書日課」にしても、クリスマ スに読まれる聖書箇所の一つとされております。これはまことに相応しい聖 書箇所であると言えるでしょう。私たちが御子の御降誕を思いますとき、そ してその御方が私たちの罪のために十字架にかかられたことを思いますとき、 この預言者の言葉は新たな響きをもって迫ってくるからです。「歓声をあげ、 共に喜び歌え、エルサレムへの廃墟よ」という言葉は、まさに私たちへの呼 びかけとなるのです。なぜなら、あの時、預言者を通して語られた主の民の 慰めとエルサレムの贖いは、後の日に御子なるイエスを通して、その生涯と 死を通して、完全に現されたからであります。この御方において、神の慰め は現されました。神の怒りは取り除かれました。御子が憤りの大杯を飲み干 されることによって、私たちの上から憤りの杯は取り除かれてしまいました。 そして、神による贖いは、まさに銀によらずになされました。御子の命によ って、その流された血によって、私たちは贖われ、神のものとされたのです。

 そして、その良き知らせが、私たちのところにも伝えられているのです。 「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」 (7節)と書かれているようにです。そして、私たちにも「歓声をあげ、共 に喜び歌え」と呼びかけられています。それゆえに、私たちは今年もクリス マスを祝うのです。世の中がどんなに不況であろうとも、私たちがどんなに 災いに満ちた世界のただ中に生きていようとも、私たちはクリスマスを祝い、 歓声をあげ、喜び歌うのです。

 間違ってはなりません。私たちが喜び歌うのは、一時的に廃墟から目を背 け、惨めな自分の姿に対して目を閉ざすことによってではありません。正常 な思考を一時的に麻痺させて、別世界の中に身を置くことによって、酔っぱ らった群衆がするように歓声をあげるのではありません。クリスマスの祝い がそのようなものでしかないならば、それは騒ぎの夜が明けた朝の路上に散 らかるゴミ屑のようなものしか残さないのです。

 「歓声をあげ、共に喜び歌え」という呼びかけは、エルサレムの廃墟に対 してなされていたのです。御子は、罪によって荒廃したこの世界のただ中に、 お生まれになったのです。それゆえに、私たちはこの世界と、そして自分自 身と向き合います。ありのままの現実と向き合います。そして、そこに見る 有様にもかかわらず、私たちは喜び歌うのです。そうすることができるので す。なぜなら、既に私たちの運命を変える決定的なことが既に起ったからで す。主は私たちを慰められました。主は私たちを贖われました。「歓声をあ げ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ!」

 
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