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「苦難のしもべ」

2002年12月1日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書52・13‐53・12

 本日お読みしました聖書箇所は、しばしば“苦難の僕の歌”と呼ばれます。 この苦難の僕とは誰なのでしょうか。名前は記されていないので、預言者が 誰のことを語っていたのかは、もはや知る由もありません。しかし、重要な ことは、主イエスにとってこの聖書の言葉が、実に大きな意味を持っていた ということです。主はしばしば御自分の受難について語られました。また、 主は御自分について、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、ま た、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マル コ10・45)と言われました。この言葉には明らかに“苦難の僕の歌”の 反映が見られます。主はかつての預言者の言葉の中に自分自身の姿を見なが ら、十字架への道を歩まれたに違いありません。

 そして、後の教会もまた、この主の僕の描写の中に、苦難を負われるイエ ス・キリストを見てきたのでした。この聖書箇所にまつわる一つのエピソー ドが使徒言行録8章に記されております。エチオピアの女王の財産を管理し ていた宦官が、エルサレムに礼拝に来て、馬車に乗って帰る途中のことでし た。彼は、馬車の上で、イザヤ書のこの箇所を朗読しておりました。そこに 主から遣わされたフィリポが近づきます。宦官はフィリポに尋ねました、 「どうぞ教えてください。預言者は、だれについてこう言っているのでしょ うか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか」。そこで、フ ィリポは聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知ら せたのでした。(使徒8・26‐35)

 さて、そのような聖書箇所が、アドベントの第一主日に与えられているこ とに、主の特別な導きを覚えます。24日後に私たちは主イエスの御降誕を 祝います。私たちは大きな喜びをもってその日を祝います。しかし、主イエ スがこの地上にお生まれになった日は、まさに《苦難の僕》としての人生の 第一日目だったのです。そのことを思いつつクリスマスを迎えるならば、そ の日はただ嬉しい楽しいだけの日とはならないでしょう。私たちは、その日 に向かって相応しく備えるためにも、この第一主日を、《苦難の僕》として の主イエスについて思い巡らす日としたいと思うのです。

●主の御腕は誰に現れたか

 初めに52章13節から15節までを御覧ください。ここで語っているの は「わたし」すなわち主なる神です。神は「見よ、わたしの僕は栄える。は るかに高く上げられ、あがめられる」と語られます。この言葉は私たちに、 復活のキリスト、高く上げられ神の右に座し給うキリストを指し示します。 しかし、キリストの復活は十字架上で死なれた方の復活です。キリストの高 挙は、低きに下られたキリストの高挙なのです。

 この僕の歌においても、高く上げられる前の僕が、「彼の姿は損なわれ、 人とは見えず、もはや人の子の面影はない」と描写されています。「損なわ れ、人とは見えず」。強烈な表現です。もはや人の子の面影はない。そこま で損なわれた姿を、私たちはいったいどのように想像したら良いのでしょう。 しかし、考えて見ますならば、受難のキリストの姿とは、まさにそのような 姿であったろうと思うのです。丁度、私たちが往々にして旧約の犠牲祭儀を あまりにも小ぎれいに思い描き過ぎているように、受難のキリストの姿やそ の御顔についても、あまりにも上品に、あまりにも美しく、思い描き過ぎて いるのかもしれません。

 主イエスが総督官邸の中に引いて行かれた時、そこには部隊の全員が呼び 集められと、福音書には記されております(マルコ15・16)。文字通り の意味ならば通常は600人です。現実にはそれほど多くはなかったにせよ、 それでも相当数の兵士たちがよってたかってイエスをいたぶり、唾を吐きか け、茨の冠をかぶせられた頭を殴りつけたら、いったいどのようなことにな るでしょう。それこそ、主イエスの姿は損なわれて、もはや人間には見えな いような有様ではなかったかと思うのです。そのようにして主は引き出され、 損なわれた惨めな姿が十字架の上にさらしものとされたのでした。それが十 字架にかけられたキリストの苦しみと死の姿なのです。

 その苦しみと死はいったい何であったのか。53章に入りまして、その意 味を悟った人々が、口を開いて語りだします。53章1節を御覧ください。 「わたしたちの聞いたことを、誰が信じえようか。主は御腕の力を誰に示さ れたことがあろうか」(53・1)。これが彼らの最初の言葉です。

 「御腕の力」とは、救いをもたらす神の力のことです。人は神の御腕の力 を、神の起こし給う大きな奇跡の内に見ようといたします。それはそれで間 違ってはおりません。かつてイスラエルの民をエジプト人の手より救い出さ れた神の御業に、あの葦の海を分けられた神の御業に、人々は主の御腕を見 たのでした。しかし、ここで語られているのは、そのような奇跡の中に現れ た主の御腕ではありません。主の御腕は全く異なる仕方において現れたので す。それは誰が聞いても信じられないような仕方においてでした。主の御腕 は、大きな奇跡の中にではなく、一人のまったく見栄えのしない人において 現されたのです。そのことを、この人たちは語っているのです。

 「…見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽 蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」(53・ 2‐3)。これがその人の描写です。それがいかなる病であったのかは分か りません。必ずしも具体的な《病気》を考える必要もありません。ある訳で は「深い悲しみ」と訳されています。いずれにせよ、その状態は、誰から見 ても、神に打たれたとしか思えない有様だったのです。それゆえに、彼らは 言うのです。「わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、 彼は苦しんでいるのだ、と」(53・4)。

 しかし、この人が担っていた苦しみは、本来、彼らが負うべき苦しみだっ たのです。この人は刺し貫かれました。この人は打ち砕かれました。確かに 彼は神の手にかかり、神によって打ち砕かれました。彼らの思ったとおりで す。しかし、今、彼らは告白するのです。「彼が刺し貫かれたのは、わたし たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためで あった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の 受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53・5)と。そこにこそ、 まさに信じ難い仕方において現わされた主の御腕であるのです。

 私たちは今、彼らの告白する言葉の中に、主イエスの姿を思います。主イ エスは、ユダヤ人の法廷において、神を汚した者として罪に定められました。 あの十字架の上に人々が見ていたのは、まさに断罪された人が、木にかけら れて神に呪われて死んでいく姿でありました。神は確かにその御腕をもって、 主イエスを打たれたのでした。そして、そこにこそ、私たちもまた、私たち を救う御腕の力を見るのであります。

●わたしたちの罪のために

 そして、さらに彼らの告白は続きます。6節を御覧ください。「わたした ちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたした ちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」(53・6)。

 5節では「わたしたちの背きのため」「わたしたちの咎のため」と語られ ていました。人間の背きと咎――それはいわば、羊たちが迷い出て、それぞ れ勝手な方角に向かっていくようなものです。今日の人々は言うかもしれま せん。人間が自分の進む方向を決定して何が悪いのか。自分の思いどおり願 いどおりに生きて何が悪いのか、と。しかし、羊は本来羊飼いのもとにあっ て生きるものなのです。羊飼いは羊を生かそうとして働きます。その羊飼い に導かれて羊は生きることができるのです。羊が羊飼いのもとから迷い出て、 自分勝手に進むなら、そこには滅びしかありません。

 そして、実際、滅びに瀕している自分を見出して、命の道を進んでいない 自分を見出して、人は気付くことになるのです。「わたしたちは羊の群れ、 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」のだと。イスラエルの人々に とりまして、国家が滅亡し民が捕囚となったという経験は、まさに自分たち の歴史を振り返らせる契機でありました。羊飼いを失った、迷い出た羊の惨 めさを、深く思い知らされる出来事でありました。

 しかし、そのような民を主はなおも散らされたところから集めて生かそう とされたのです。彼らを赦して生かそうとされたのです。しかし、罪は罪で す。それは消えるわけではありません。では、罪はいったいどうなるのでし ょうか。その罪を主は僕に負わせられたのだ、と言うのです。この主の僕は、 やはり羊として描かれています。屠り場へと引かれていく小羊として、また 毛を切る者の前に物を言わない羊として描かれています。一方において好き 勝手に自分の道を進んでいく羊たちがいる中で、この小羊は黙々と苦難を負 いつつ死に赴くのです。

 私たちは、ここにピラトの前で沈黙するキリストの姿を見出します。確か に、福音書は、祭司長や長老たちから訴えられている間、ピラトが不思議に 思うほど、何も答えず黙しておられるキリストを伝えているのです。そして、 「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」(53・8)と書かれて いるとおり、主の僕なるキリストは、断罪された者として十字架にかけられ たのです。

 このことはすべて神が望まれ、神の計画されたことでした。それはまた主 の僕が望まれ、僕が自ら行われたことでもありました。10節にはこう書か れております。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを 償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主が望まれること は、彼の手によって成し遂げられる」(53・10)。ここには、主とその 僕が完全に一つとなっていることが語られています。そのように、キリスト は父なる神と一つとなって、罪の贖いを成し遂げられたのでした。

 11節からは再び話者が「わたしたち」から「わたし」すなわち神に戻り ます。神自らが僕についてこう語られるのです。「彼は自らの苦しみの実り を見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされる ために、彼らの罪を自ら負った」(53・11)と。キリストの苦しみの実 りは、私たち、すなわち教会です。ただ主によって罪を負っていただいたが ゆえに、正しい者とされた私たちです。私たちはそのような者として、クリ スマスを祝います。その祝いは、この世に生まれたキリストに苦しみをもた らした私たちの罪を悲しむ悲しみと、この世に生まれたキリストによって罪 を負っていただいた喜びとが一つとなる祝いなのです。

 
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