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「嘆きから喜びへ」

2002年12月8日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書61・1‐4

 今日の説教題は「嘆きから喜びへ」です。それは3節の御言葉から来てい ます。主は灰に代えて冠を与えてくださいます。主は嘆きに代えて喜びの香 油を与えてくださいます。主は暗い心に代えて賛美の衣を与えてくださいま す。これは嘆いている人に与えられている良き知らせです。福音です。喜ば しい神の約束です。

●嘆きに代えて喜びの香油を

 しかし、この恵みの言葉が向けられている「嘆いている人」とはいかなる 人のことでしょうか。彼らはシオンで嘆いている人々です。「シオンのゆえ に嘆いている人々に」と新共同訳では意訳されております。意味はそのとお りです。彼らは単に困窮した生活を嘆いているのではありません。身に降り かかってきた不幸を嘆いているのでもありません。彼らはシオンのゆえに、 エルサレムのゆえに嘆いているのです。なぜなら、エルサレムがいまだに廃 墟だからです。主が選ばれ、主が礼拝されていた場所が、平和と喜びに満ち ているはずの場所が、いまだに荒れ果てているからです。そして、その荒廃 をもたらしたのは人間の罪のゆえであり、彼らの罪のゆえであることを知っ ているからです。それゆえに彼らは嘆くのです。灰をかぶり、涙を流し、重 く暗い心をその内に抱いているのです。

 今日、暗い顔は流行りません。深刻な顔ばかりしているとネクラと呼ばれ て疎まれます。むしろ、いつも明るく元気である人が好まれます。この世界 と自分自身を見て嘆いているよりは、自分の可能性と人類の可能性を信じて 生きていく人――そのような人は「前向きな人」として賞賛されます。物事 の暗い面には目を向けず、明るい面にだけを目を向け、人生の悲しみを忘れ て喜びだけを心に留め、嘆きを遠くへと追いやって生きる生き方は、人々の 目に好ましく映ります。今日、人はそのような生き方を求めて、教会を訪れ るかもしれません。そして、教会もまた、そのような人々のニーズに応えよ うとするかもしれません。

 しかし、そのような時代であるからこそ、私たちは今一度、この御言葉を 心に留めなくてはならないと思うのです。喜びの香油は《嘆きに代えて》与 えられるのです。賛美の衣は《暗い心に代えて》与えられるのです。真に嘆 くことを知る人だけが、神から来る喜びを知ることになるのです。

 嘆きは人生にとって不要な要素ではありません。嘆くことは必要なことな のです。かつて、預言者ヨエルはこう叫びました、「主は言われる。『今こ そ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、 お前たちの心を引き裂け』」(ヨエル2・12‐13)と。また、ヤコブも 次のように書いています。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者 たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、 喜びを愁いに変えなさい」(ヤコブ4・8‐9)。そして、何よりも、私た ちの主イエスが言われた言葉を思い起こさねばなりません。「悲しむ人々は、 幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5・4)。

 実際、私たちの罪が私たちの生活に荒廃をもたらしているのに、もし嘆く ことも悲しむことも全くないとするならば、それは本当に幸いなことでしょ うか。私たちの家庭生活に、社会生活に、罪による荒廃が広がっているのに、 それをまったく嘆くことも悲しむこともないとするならば、それは本当に幸 いなことでしょうか。この国が罪によって荒れ果てているのに、この世界が 罪によって廃墟となっているのに、嘆くことも悲しむこともなく、ただ平安 な一生を送ることだけを望んでいるとするならば、それは本当に幸いなこと でしょうか。そのようなところに、本当に天来の喜びが、真の喜びが満ちる でしょうか。そのようなことはあろうはずがありません。主の与え給う喜び の香油は、嘆きに代えて与えられるのです!

●正義の樫の木と呼ばれる

 そこで、私たちはなお深く、この《シオンのゆえに嘆いている人々》につ いて考えてみましょう。主は預言者に聖霊の油を注いで遣わされます。主は 良い知らせを伝えさせます。嘆きに代えて喜びの香油を与えるためにです。 その知らせが向けられている人々が、1節では様々な言葉をもって表現され ています。良い知らせが伝えられるのは「貧しい人」に対してです。主の癒 しに包みこまれるのは「砕かれた心」です。自由と解放が告知されるのは 「捕らわれ人」に対してであり、「つながれている人」に対してです。

 ここで「貧しい人」と言われているのは、単に経済的に困窮している人の ことではありません。旧約聖書においてこの言葉がまず意味するのは、力が ないために押し潰されて、苦しんでいる人たちです。この世のどこにも拠り 所を持たない、持ち得ない人々です。それゆえに、ただひたすら神に望みを 置き、神に向かって叫ぶのです。弱いから、乏しいから、ただ神の憐れみを 乞い求めるしかないのです。ですので、この「貧しい人」という言葉は、し ばしば詩編などにおいて、苦難の中にある信仰者を意味します。

 そして、ここには「貧しい人」について語られるだけではありません。 「打ち砕かれた心」についても語られております。「打ち砕かれた心」は、 私たちが良く知っています、詩編51編に出てきます。「神の求めるいけに えは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません 」(詩編51・19)。このように、打ち砕かれた心とは悔いる心です。悔 いる心とは、この詩編が歌っていますように、「咎をことごとく洗い、罪か ら清めてください」(同4節)と願い求める心です。つまり、ここに語られ ているのは、自分の無力さ、乏しさを知るだけでなく、自分の罪深さを知る 人です。「助けてください」と祈るだけでなく、「赦してください」と祈る 人です。

 また、ここでは「捕らわれ人」と「つながれている人」について語られて います。この預言が語られたのは、時代としては、既にバビロンから解放さ れ、エルサレムに帰還した後であると言われます。ですから、これはバビロ ンにおける捕囚状態のことではないでしょう。それがどのような状態を指す にせよ、捕らわれ人、つながれている人は、自分で自分を解き放つことがで きない人です。外からの憐れみを必要としている人です。希望の拠り所を自 分の手元に持っていない人です。ですから救いは外から来なくてはなりませ ん。それゆえ、憐れみを乞い求めて待ち望みます。救いの時を忍耐強く待ち 望みます。ここに書かれているのはそのような人のことです。

 このような「貧しい人」「捕らわれ人」のような言葉をもって表現され得 るのが、この「シオンのゆえに嘆いている人々」です。要するに、彼らは荒 れ果てたシオンを自らの力でどうすることもできないのです。廃墟をもたら した自らの罪の負い目も、自分でどうすることもできないのです。そもそも、 自分の力でどうにかすることができるなら、嘆いてなどいないでしょう。そ うではないから嘆いているのです。

 そして、良き知らせを聞くのはそのような人々だと、預言者は語っている のです。彼らにこそ神の救いの使信が届けられるのです。喜びの香油は嘆き に代えて与えられるのです。いや、ここにはさらに驚くべき言葉が語られて おります。「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ば れる」(3節)と預言者は語っているのです。

 主が輝きを現すのは、力があり、富んでおり、自信に溢れている人々、嘆 きとは無縁の人々によるのではありません。嘆くことしかできない人々こそ、 主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木に他ならないのです。そして、 彼らこそが、とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す人々なのだと 言われているのです。ここには、聖書の語る不思議な世界があります。「私 たちが建て直すのだ。シオンの未来は私たちの手にかかっているのだ」と言 う人々が廃墟を建て直すのではないのです。廃墟を建て直すことなどできな い者たちが、廃墟を建て直すのです。無力で乏しい人たち、我が身一つどう することもできない捕らわれ人たちこそが、廃墟を建て直すのです。嘆きな がら主を待ち望むことしかできないそのような人たちこそが、廃墟を建て直 すのです。

 さて、この御言葉がアドベントの第二主日である今日、私たちに与えられ ております。私たちはこのことについて、なお二つのことを心に留めたいと 思います。

 第一に、この時期こそ私たちに与えられている嘆きの時である、というこ とです。私たちは嘆くことを軽んじてはなりません。嘆きに正当な位置づけ を与えねばなりません。代々の教会は、アドベントの期間を断食の時として 守ってきました。断食が意味するのは嘆きと悔い改めです。私たちは幻想か ら目覚めねばなりません。私たちは裁きのもとにあるこの世界の現実と向き 合わねばなりません。そして、そのような世界のただ中にあってまったく無 力な私たちの貧しさを思って嘆かなくてはなりません。そして、この荒廃を もたらした世の罪、また私たち自身の罪を思って嘆かねばなりません。それ が、このアドベントを過ごし方であります。

 しかし、第二に、私たちは、既に良き知らせが告げ知らされていることを も、心に留めねばなりません。私たちが来るべき日に祝おうとしているのは、 御子の御降誕の祝いです。御子は既に来られたのです!

 主イエスが洗礼者ヨハネより洗礼を受けられた時、その上に聖霊が降り、 天から次のような声が響きました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの 心に適う者」(ルカ3・22)。そして、やがて『霊』の力に満ちてガリラ ヤに戻られた主イエスは、お育ちになったナザレの会堂に入られ、このイザ ヤ書61章を朗読されたのです。そして、こう宣言されたのでした、「この 聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ4・2 1)と。

 主イエスは既に来られたのです。そして、主の到来と共に、貧しい人が福 音を耳にする時が既に来ているのです。決定的な神の御業が、既にこの御方 の到来と共に始まっているのです。その良き知らせは私たちにも告げ知らさ れているのです。それゆえ私たちの嘆きは嘆きのままで終わりません。灰に 代えて冠を、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣を、神は 与えてくださるのです。

 
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