「新しい天と新しい地」
2002年12月15日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書65・17‐25
今日はイザヤ書65章17節以下をお読みしました。この箇所において、 預言者は救いの到来を、「新しい天と新しい地」という言葉をもって表現し ています。このイザヤ書の言葉は、聖書の最後、ヨハネの黙示録において再 び取り上げられます。ヨハネは救いの完成の幻を次のように語り伝えている のです。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」(黙示録21・1) と。創世記の創造物語に見るように、「天と地」という組み合わせによって 表現されているのは、神によって創造された世界の全体です。ですから、こ こで言い表されているのは、被造物世界の全体が新しくされることであり、 被造物世界の全体が救われることなのです。今日は、救いの成就としての 「新しい天と新しい地」を待ち望みつつ生きることについて、御一緒に考え て見ましょう。
●被造物世界全体の救い
まず、私たちはこの箇所の内容そのものに入ります前に、二つの点に心を 留めておきたいと思います。第一に、ここで聖書は「天」に救いがあると語 ってはいない、という事実です。墓の向こうの死後の世界に救いがあると語 ってもいないということです。私たちは、罪に満ちたこの世界から逃れて、 天国という別な世界に行くことによって救われるのではないのです。そうで はなくて、この世界が、この被造物世界全体が救われるのです。罪から救わ れるのです。私たちは、その救いの完成を待ち望んでいるのです。
死後の世界について聖書は多くを語ってはおりません。極めておぼろげに しか語っていないと言って良いでしょう。ですから、教会は、あたかも見て きたかのように語るべきではありません。パウロは既に死んだ人たちを「眠 りについて人たち」(1テサロニケ4・13他)と表現します。もちろん、 これは我々の眠りとは異なります。意識のない状態であると考える必要はあ りません。しかし、明らかなことは、眠りは最後の状態ではないということ です。たとえ信仰者にとりましても、死そのものは最終的な救いを意味しま せん。目覚める時を待っているのです。大事なことは、生きているにしても 死んでいるにしても、私たちは待ち望む者であるということです。何をです か。被造物世界全体が新しくされること、救われることをです。新しい天と 新しい地を待ち望むのです。
第二に、私たちが今日の聖書箇所に目をやりますと、17節と18節以下 の間には、大きなギャップがあることに気付きます。17節では被造物世界 全体の救いについて語られているのに、18節以下ではエルサレムとイスラ エルの民の救いについて語られているのです。そして、25節に至ってもう 一つのギャップがあります。そこには狼と小羊、獅子と蛇が出てくるのです。 これはイスラエルの民のことではありません。再び視野が被造物世界全体へ と広がります。要するに、イスラエルの民の救いについて語られている預言 が、17節と25節によって挟み込まれて、被造物世界全体へと拡大されて いるのです。
つまり、最終的な神の目的はイスラエルの救いにあるのではない、という ことです。神の民の救いにあるのではない、教会の救いにあるのではない、 ということです。私たちはイスラエルの救いについて語られている言葉の中 に、神がこの世界全体に意図しておられることを読みとらなくてはなりませ ん。イスラエルについての言葉は、被造物世界全体へと拡大されねばならな いのです。
●長寿を満たす者の世界
以上の二点を踏まえた上で、新しい天と新しい地、救われた被造物世界に ついて考えて見ましょう。今日の聖書箇所に見ますのは、抽象的な言葉では なく、極めて素朴な具体的な救いの描写です。その中心に描かれていますの は、救われた民が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする 者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、 百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。
長寿について語られるということは、いずれにせよいつかは死ぬことが前 提となっています。救われた世界においても依然として「死」があるという のは、実に奇妙な話です。死の克服について語られていないのは、旧約聖書 の限界と言えるかもしれません。事実、ヨハネが幻に見た新しい天と新しい 地において、彼は次のような言葉を聞くのです。「…神は自ら人と共にいて、 その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死 はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからで ある」(黙示録21・3‐4)。この点からすれば、イエス・キリストの出 来事、特に十字架と復活を経て、新約聖書における救いの描写は、明らかに 本質的な深さを得ていると言えるでしょう。しかし、そうとは言え、このイ ザヤ書が「長寿」について語る言葉は、私たちに既に与えられ、そして完成 を待ち望んでいる救いについて、とても豊かな内容を語っているように思い ます。
実際、この世における「長寿」について考えてみてください。長寿が祝福 であることは自明のことでしょうか。決してそのようなことはありません。 日本は世界一の長寿国です。しかし、日本のお年寄りは幸せでしょうか。確 かに教会では多くのお年寄りの素敵な笑顔に出会います。しかし、現実にこ の世の中には、早く死にたいと思っているお年寄りはいくらでもいるのです。
長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。そ れは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っていると いうことです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語 られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍 れ。わたしは創造する。見よ、わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレ ムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(1 8節)。若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われます。 神が喜び楽しませてくださるのでなければ、喜びや楽しみは失われていくの です。それゆえに、神が喜び楽しませてくださるのでなければ、長寿は祝福 となりません。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたし はエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)と語られ ているのです。真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてく ださるだけでなく、神の喜びとなるところにあるのです。そこにおいて、ま さに長寿は祝福となるのです。
そして、長寿を祝福とする喜びは、21節以下に書かれていることと切り 離すことはできません。そこには次のように書かれています。「彼らは家を 建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が 住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21 ‐22節)。
ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分 が建てた者に他人が住んだり、植えたものを他人が食べるのは、それらを他 人に奪われるからに他なりません。奪われることに怯えて生きざるを得ない のは、労苦が無駄になることに怯えて生きざるを得ないのは、そこに奪い合 う世界が厳然として存在し、そのような奪い合う世界の中に生きているから です。そして、小さな家庭の中の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、 まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史に 他ならないのです。
しかし、奪われることへの恐れは、やがて神によって取り去られることに なります。もはや恐れる必要はないのです。神がいと近くおられて守り、治 めてくださるからです。神は呼びかけるより先に答え、語りかけている間に 聞き届けてくださる。それほどに神は近くにおられ、現実に介入され、その 御力をもって治めてくださるのです。いや、ここに書かれていることは、も っと驚くべきことです。神は奪われる者を奪う者から守ってくださるだけで なく、奪われることへの恐れを取り除かれるだけでなく、奪い合う悪そのも のを取り除かれるのです。奪い合いそのものにピリオドを打たれるのです。 救われた世界においては、人と人とが奪い合うのではなく、真に共に生きる ようになるのです。いや、人だけでなく、全被造物が共存するようになるの です。狼と小羊が共に草をはむようになるのです!
●待ち望む者として生きる
さて、このように描かれている「新しい天と新しい地」はあくまでも神の 創造です。神の新しい創造の御業であるならば、人間は待ち望むか、それと も待ち望まないかのいずれかです。私たちは、神がこの世界と私たちに関し て、最後まで責任をもって関わってくださり、救いを完成してくださると信 じて、希望をもって生き、希望をもって死ぬのでしょうか。それとも現実を 嘆き、世の行く末を憂いながら、希望なき者として生き、そして希望なき者 として死んでいくのでしょうか。ここに描かれているのは、人の作り出す神 なきユートピアではありません。これは神の創造される神の世界であり、神 が共におられ、神が支配しておられる世界です。ですから、先に部分的に引 用しましたが、ヨハネの黙示録は、次のように表現しているのです。「見よ、 神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自 ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってく ださる」。
神が人と共に住まわれる世界にこそ救いがあるならば、最終的に意味を持 つのは、神と人との関係です。神との間に平和を得ているか否かです。神と の間が敵対関係であるならば、神が共にあることは裁きと滅び以外の何もの でもないからです。神が人と共に住まわれることは、救いであると同時に裁 きでもあります。それゆえに、神の支配が現れる前に、この世は神と和解せ られなくてはならなかったのです。神と人との間に平和をもたらす、罪の贖 いの十字架が地の上に立てられなくてはならなかったのです。そして、キリ ストは今もなお教会を通して呼びかけておられます。「神と和解させていた だきなさい」(2コリント5・20)。ですから、今、この天地において、 神との和解を受け、神と共に生きることこそ、新しい天と新しい地を待ち望 み、救いの世界の到来に備えることに他ならないのです。