「天使のメッセージ」
2002年12月22日 主日礼拝
日本キリスト教団 大阪のぞみ教会牧師 清弘剛生
聖書 ルカ2・8‐20
今から約二千年前、ベツレヘムの近郊において野外伝道集会が開催されま した。説教者は無名の一天使です。その他に聖歌隊奉仕者たちもおりました。 彼らもまた天の御使いです。前もって案内のチラシが配られていたわけでは なく、何の前触れもなく開催されたものですから、大勢の人が集まったわけ ではありません。というよりも、その場に居合わせたのはわずかに羊飼いた ちが数名ばかりでありました。聴衆よりも聖歌隊の人数の方が、圧倒的に多 かったようです。いわば、これは野宿している羊飼いたちのために、彼らの 生活の場所において、開催されたものでありました。
彼らが耳にしたメッセージは、次のような単純な言葉をもって聖書の中に 記されております。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜び を告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになっ た。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の 中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしで ある」(10‐12節)。
さて、約二千年後のこのクリスマスにおいて、この同じメッセージが、聖 書を通して、私たちに与えられております。私たちは今日、最初にこの言葉 を聞いたあの羊飼いたちの場所に身をおいて、この言葉の意味するところを 御一緒に考えたいと思います。
●恐れるな
「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。なぜ「恐 れるな」と語られたかと言うと、羊飼いたちが非常に恐れていたからです。 なぜ恐れていたのでしょう。主の栄光が周りを照らしたからです。そこは羊 飼いが野宿をしている場所です。彼らの仕事場であり生活の場であります。 しかし、そこに主なる神が入ってこられました。そして、まばゆい光をもっ て、彼らの仕事の場所、生活の場所を照らし出したのです。これは恐ろしい ことでありました。
その光の背後に控えていたのは、御使いたちの聖歌隊でした。やがて姿を 現すことになります。私たちは彼らがガウンを着て、羽をパタつかせている 姿を想像してはなりません。羊飼いが目にした聖歌隊は軍服を着ていたので す。というよりも、彼らは「天の大軍」(「天の大群」ではない!)そのも のだったのです。天の大軍、天の軍勢とは、この世界に関わる神の力です。 神の軍事力です。神を侮り、神に逆らって立つ人間社会に押し迫り、この世 の罪を裁き、災いを下し、世界を瞬く間に滅ぼすことさえできる、神の力で す。その神の軍事力が、神の栄光と共に、彼らの個人的な生活の場、仕事の 場に臨んでいるのです。
羊飼いたちは、ユダヤの宗教的な社会において、完全にアウトサイダーで した。彼らの仕事柄、祭儀的な律法を遵守することは不可能でした。清めの 祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。です から、聖なる神は、彼らにとってはまったく縁遠い存在でありました。羊飼 いという仕事も、彼らの日常生活も、まさに世俗の事柄なのであって、そこ で神のことを思い巡らすことはなかったであろうと思われます。しかし、そ のような彼らが恐れたのです。非常に恐れたのです。神の栄光が野を照らし、 彼らの生活が天の軍勢を持つ神と無関係ではないこと知ったからです。
神を必要な時だけ思い起こし、必要な時だけ呼び出して、あたかもアラジ ンの魔法のランプに潜む魔人のようにしか考えていない人ならば、そのよう な神を恐れることはないでしょう。あるいは、多くの人が初詣でするように、 一年に一度、良い年であるようにと願う対象でしかないならば、そのような 神を恐れることはないでしょう。しかし、神を、私たちが覚えていようと忘 れていようと、意識しようと意識しまいと、現実にこの世界に生きて働かれ る神であり、しかも私たちの個人的な仕事の場を、生活の場を照らしだし、 私たちの人生そのものにも介入される神であることを知り始めるならば、人 は恐れざるを得ないのです。
しかし、そのように非常に恐れていた彼らに、「恐れるな」という言葉が 語られたのでした。神の御使いは羊飼いたちを恐れさせるためにそこにいた のではないのです。彼は言います。「わたしは、民全体に与えられる大きな 喜びを告げる」(10節)と。真に神を知るならば恐れざるを得ない人間に、 恐れではなくて大きな喜びが告げられます。それはいったいどのようなこと なのでしょうか。
●救い主がお生まれになった
御使いは次のように語りました。「今日ダビデの町で、あなたがたのため に救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(11節)。こ れが「民全体に与えられる大きな喜び」の内容です。イスラエルの民が待ち 続けてきたメシアの誕生です。まことの王の誕生です。宗教家たちならば、 「メシアの誕生とお前たちと何の関わりがあるか」と言うかもしれません。 しかし、神の使いはこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主が お生まれになった」と。羊飼いたちも無関係ではないのです。彼らは忘れら れてはいないのです。生まれてきたメシアは、彼らの救い主でもあるのです。
しかし、メシアが「あなたがたの救い主」であるとは、いかなる意味なの でしょうか。彼らが生きた時代がいかなる時代であったかは、2章の最初の 冒頭の言葉に象徴されています。「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領 土の住民に、登録をせよとの勅令が出た」(2・1)。イスラエルの民は、 ローマの支配下にありました。彼らは皇帝の絶対的な権力のもとにありまし た。勅令一つで人々は長旅を強いられることになります。それまでささやか に真面目に生活していた職人が、間もなく子供が生まれそうな臨月の妻を連 れて旅に出なくてはならない、などということも起こります。皇帝の勅令一 つで、生活そのものが脅かされることになるのです。そのような理不尽な抑 圧構造から救われるためには、ローマ帝国の支配体制そのものが打ち壊され なくてはなりません。ダビデの町で生まれたメシアは、ローマ人と戦い、ロ ーマの軍事力を打ち破り、帝国を滅ぼし、民を解放する人となるのでしょう か。神の民の独立を勝ち取り、王国を打ち立て、自ら神の国の王として君臨 する人となるのでしょうか。しかし、主の御使いは奇妙なことを語ります。 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけ るであろう。これがあなたがたへのしるしである」と彼は言うのです。
ここで私たちは、再び、深い恐れに捕らえられた羊飼いたちの姿を思い起 こさねばなりません。神の光に照らし出されて恐れおののく彼らの姿は、本 当に恐れるべき御方が誰であるのかを私たちに示しております。言い換える ならば、人間にとって真の危機はどこから来るのかを示しているのです。そ れはローマの皇帝から来るのではないのです。また人を取り巻く具体的な状 況や直面している困難から来るのではないのです。そうではなく、真の危機 は神から来るのです。天の軍事力をお持ちの神が、その御力をもって生きて 働き給う神が、私たちの現実の生活に介入され、私たちの最終的な運命をも その手に握っておられるところから来るのです。
そして、人が神の御前で恐れざるを得ないのは、そこで人間の罪が問題と なるからです。神が、一年に一度だけ、良い年であるようにと願う対象でし かないならば、そこで私たちの罪が問題となることはありません。しかし、 神が私たちの個人的な仕事の場を、生活の場を照らしだし、私たちの人生そ のものにも介入される神であるならば、そこで私たちの罪が問題とならざる を得ないのです。もし、罪がないならば、神の栄光が周りを照らしても、天 の軍勢が現れても、恐れる必要はないでしょう。しかし、現実はそうではあ りません。
しかし、そのような私たちに、今日の御言葉は与えられているのです。 「あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアであ る」と。この御方は、罪人である私たちを救ってくださるのです。本当に神 を知ったなら恐れざるを得ない私たちを救ってくださるのです。私たちを罪 から救い、滅びから救ってくださるのです。この救い主をいただいて、私た ちは初めて神から恐れではなく喜びを得るのです。力ある神の支配が、神の 栄光が、神の軍勢が、私たちの喜びとなるのです
そのような救い主であることのしるしは、「布にくるまって飼い葉桶の中 に寝ている乳飲み子」であることでした。赤ん坊が飼い葉桶に寝かされてい るのは、マリアが身重なのにベツレヘムへの旅を強いられたからです。いわ ば、ローマの権力のもとに翻弄されざるを得なかった彼らの無力さのゆえで した。この事実が遠く何を指し示しているのか。私たちはこの福音書を終わ り近くまで読んで知ることになります。この飼い葉桶の乳飲み子は、やがて 成長したときに、両親がそうであったように国家権力の前に無力な者として、 十字架にかけられて殺されてしまうのです。乳飲み子が寝かされている飼い 葉桶は、十字架に終わるこのその子の人生全体を象徴しているのです。
しかし、この十字架こそ、神の御前に恐れざるを得ない、私たち罪人を救 う、罪の贖いの十字架なのだ、と聖書は語っているのです。それは私たちが 神との間に平和を得、ローマの権力よりももっと大きな神の支配のもとに、 恐れではなく喜びを持って生きる者となるためなのです。そうです、あの乳 飲み子は、確かに彼らの救い主でありました。そして、今日に生きる私たち の救い主でもあるのです。
「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見よ うではないか」。彼らは天使のメッセージを聞いただけではありません。聞 いた言葉は彼らを行動へと駆り立てます。彼らは立ち上がり、生まれたメシ アのもとへと急ぎます。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子 を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移された わけではありません。依然として、苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っ ていたことでしょう。しかし、彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行 った」(20節)のです。そうです、確かに彼らは神と共にある喜びを持っ て生き始めたのでした。